インタビュー
2024.10.25
連載「没後50年! 斎藤秀雄とは?」第3回(全3回)

秋山和慶が語る師・斎藤秀雄~今なお慕う弟子らによる追悼演奏会

斎藤秀雄の没後50年を記念した全3回の短期連載。最終回となる今回は、斎藤が死を意識したときに桐朋オーケストラを託した秋山和慶が登場。そして、同氏が指揮を務めた2024年9月18日「齋藤秀雄先生没後50年記念メモリアル・コンサート」の模様や、同コンサートを主催した桐朋学園大学の辰巳明子学長から聞いた斎藤の思い出などについて、新刊書籍『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』の著者・中丸美繪(よしえ)が伝えるとともに、本記事を総括する。

中丸美繪
中丸美繪 文筆家

慶應義塾大学文学部卒業。日本航空に5 年ほど勤務し、東宝演劇部戯曲研究科を経て、1997年『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45 回日本エッセイス...

写真提供(斎藤秀雄):新日本フィルハーモニー交響楽団

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メモリアル・コンサート1曲目は斎藤の師クレンゲルの名曲

斎藤秀雄という音楽史上稀にみる教育家についての連載も、最終回を迎えた(第1回第2回)。

斎藤秀雄の祥月命日にあたる9月18日のサントリーホールは、ある種、異様な雰囲気が立ち込めていた。一人の教師の追悼が門下生たちによって50年の時を経て行なわれるとは、日本音楽史上初めてのことだろう。直弟子たちとその流れを組む学生らとの合同演奏会という形である。

「齋藤秀雄先生没後50年メモリアル・コンサート」のチラシとプログラム。使用されている写真は、斎藤秀雄の奥に指揮科の門下生である小澤征爾、井上道義、飯守泰次郎らが並んでいる
1曲目のクレンゲル《賛歌》を演奏する「齋藤秀雄門下特別編成チェロ・アンサンブル」 ©K. Miura

冒頭は、斎藤の直弟子である堤剛、倉田澄子、山崎伸子らと孫弟子にあたる古川展生、宮田大らチェリスト12名によるアンサンブルで、斎藤がドイツ留学のときに師事したクレンゲル作曲の《賛歌》op.57だった。

斎藤はチェロの生徒にはたとえ小学生であっても「プロになるなら教えよう」と、覚悟のほどを確かめた。斎藤が手塩にかけて育てたチェリストが、現在の日本のチェロ界の流れを作っている。

一方、桐朋学園の音楽部門設立者のひとり、斎藤の目的はオーケストラ育成にあった。そもそも斎藤の時代、指揮はフルトヴェングラーにかけて「振ると面食らう」と言われていた。そんな折、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の常任指揮者として来日したローゼンシュトックのわかりやすい指揮を見て、分析を試み、著したのが『指揮法教程』であり、これが日本の指揮暗黒時代に終止符を打った。

「最優秀」秋山和慶も怒鳴りまくられていた

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斎藤は明治維新の志士のように、日本の音楽界を改革する使命を感じていたから、その教えは激烈を極めた。一期生の小澤征爾は斎藤の自宅から裸足で逃げたこともあったし、秋山和慶も破門かと思った経験がある。

「高校の時、怒鳴りまくられて、出てけ!と言われてね。これでおしまいだと、教室を出て廊下に座り込んでいた。『指揮法教程』で学ぶ基本曲のいちばん難しい曲の、『よん、とおー』(拍子を「1と2と…」と数えたときの4拍目)のタイミングが合わなかった。でもレッスンが終わって、教室から顔を出した先生が『秋山戻ってこい』とにっこり笑ってくれてね。ホッとしましたよ」

秋山 和慶(あきやま かずよし)
齋藤秀雄に師事し、1963年に桐朋学園を卒業。64年に東響を指揮してデビューののち、同団の音楽監督・常任指揮者を40年間にわたり務める。その間、バンクーバー響、アメリカ響等の音楽監督を歴任。紫綬褒章、旭日小綬章を受章。文化功労者に選出。現在、中部フィル芸術監督・首席指揮者、日本センチュリー響ミュージックアドバイザー、岡フィルミュージックアドバイザー、東響桂冠指揮者など多くの任を務めている。2024年は指揮者生活60周年

「先生の厳しさは外国人演奏家にも知られていて、アイザック・スターンがN響と共演した時に本番で急にガタガタ震えながら演奏したのでステージ袖に戻ってどうしたのかと聞いたら、『サイトウが一番前の席に座っている』とおびえていたということがあった。僕が指揮を習い始めた時、先生はまだ50代だったけど、貫禄があったよねぇ。

先生は決して褒めない。『悪くはないけど、ひじょうに良くはない』が最高の褒め言葉。卒業試験で、『ドビュッシーのカルテットにコントラバスを入れて編曲しろ』と言われて提出した時、やっと『よし』と一言」

他の門下生いわく「素直で真面目、優等生だった」秋山和慶は、斎藤秀雄にオーケストラを任せられる弟子として、桐朋オケの後継者に指名された。指揮科の門下生・小澤征爾、飯守泰次郎、井上道義、尾高忠明……は、みな異なるキャラクターをもつが、それは斎藤が、基礎さえしっかり身につけておけば、あとは各人の個性次第、という方針で生徒たちを育てたからだ
秋山ら門下生5名が中心となり20年かけて改訂した現行版の「改訂新版」(左)と改訂前(右)の『指揮法教程』。指揮の動きをメソッド化した世界でも稀な偉業として称えられている同書は、通算で93刷まで版を重ね、脈々と斎藤秀雄の教えは受け継がれている

卒業後、秋山は東京交響楽団でデビューし、翌年には専任指揮者となった。同団の楽団長金山茂人は「秋山さんは、斎藤門下で最優秀だというお墨付きがあった」と回想する。

秋山はオーケストラ主任として桐朋に関わりながら、日本の楽壇、さらに北米にも進出した。ベルリン・フィルからの招聘もあったが、ちょうど東響の定期演奏会があったために断った。それは秋山にすれば当然のことだった。

「楽団のシェフというのはそういうことだと思う。他の誰かが定期をキャンセルして他の楽団を振るというのは自分も許せないし、許さない」

そんな姿勢は斉藤秀雄に通じる。斎藤は名声を求めたことはなく、その日、その時、良い音楽を創ることに全集中をした。それは秋山の哲学にもなったのだ。

「客席のいちばん前でステージ上を睨む斎藤秀雄のマネをしてみてください」という我々のリクエストに応え、ポーズをとってくれた秋山和慶

門下生らにとっての「テーマソング」2曲を秋山が指揮

2024年9月18日のメモリアル・コンサートに戻ろう。2曲目、3曲目は秋山の指揮で、コンサートマスターは徳永二男が務めていた。モーツァルトの《ディヴェルティメント》ニ長調 K.136、チャイコフスキー《弦楽セレナード》ハ長調 op.48が演奏された。この2曲はよく小澤征爾が「テーマソング」といって、サイトウ・キネン・オーケストラと演奏していたが、秋山が指揮すると、斎藤が1974年夏、桐朋の合宿に病院から抜け出して参加した時のシーンが二重写しとなる。

この晩の響きと統一感は透明度を極め、音量は高く天に届くかのごとくだった。休憩に入った時、日本フィルハーモニー交響楽団理事長の平井俊邦にロビーで会うと、「あんな単純な曲なのに、凄い演奏だったね」と興奮していた。斎藤は子どもが好きになりそうなわかりやすい名曲で、オーケストラを鍛えたのだ。

秋山は今年、指揮者生活60周年を迎えた。秋山がタイトルを持つ国内8団体——東響ほか広島交響楽団、九州交響楽団、ミューザ川崎シンフォニーホール、中部フィルハーモニー交響楽団など——によって作られた記念てぬぐいは、8団体が連なる車両に指揮棒を持つ秋山車掌のイラストである。カナダの家には鉄道ジオラマがあるほどの鉄道ファンらしいが、秋山は司令官ではなく、車両を引っ張るソフトな車掌のごとく日本の楽壇とともに歩んできた。

秋山指揮で演奏された2曲目は小澤が演奏するたびに涙を流したというモーツァルトの《ディヴェルティメント》K.136。3曲目はチャイコフスキーの《弦楽セレナーデ》。同曲は、桐朋の学生や卒業生らに「校歌」のように親しまれているという  ©K. Miura
休憩後には、沼尻竜典指揮、堤剛チェロでドヴォルジャークのチェロ協奏曲が演奏され、終演。斎藤は、上達が早く優秀だった堤の話を出しては、よく他の生徒たちの競争心をあおっていたという ©K. Miura
リハーサル後に楽屋を訪れ、この日に合わせて完成させた『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家』の見本を秋山に手渡すと、「これ、今日(斎藤の命日)……?」と表紙の斎藤の大写しの指揮姿を見つめながら、言葉を失って眼をうるませた

音楽を“職業”にできたのは、先生が適性を見抜いたから

コンサートの後には小ホールのブルーローズで、関係者が一堂に会するパーティーが開催された。会冒頭の挨拶で秋山はマイクを持つと、「僕も生きているかどうかわからないから、先生の没後100年の演奏会は無理だろうけど、没後60年は振ってみたい」と笑いをとった。

桐朋学園大学学長の辰巳明子に話しかけると、「今日の演奏、良かった! 涙が出ちゃった。120%やるでしょう、それが桐朋なの。もうあの曲は校歌みたいなものなの」。

辰巳は、斎藤率いる桐朋オーケストラのヴァイオリニストの一員として、1970年、2か月を超えるヨーロッパ演奏旅行に参加した。指揮は斎藤、秋山、小泉ひろし、井上道義、尾高忠明らが交代で務め、ベルリン・フィルのコンサートマスターになった安永徹、数住岸子、小栗まち絵、藤原真理、菅野博文、磯村幸哉、松波恵子がいた。斎藤は日本の音楽を輸出産業として売り込もうとしていたのだ。

終演後のレセプションで挨拶をする桐朋学園大学の辰巳明子学長

斎藤はチェロのみならず、ヴァイオリン、声楽まで教えた。辰巳は小学生の頃から斎藤の晩年まで師事した。

「怖かったですよ。ブラームスのソナタは、うるさいくらい仕込まれた。ショーソンの《ポエム》は最初の一音だけで1時間。何が悪いのかわからないから泣いちゃった。そうしたら、『泣く子は教えない』と言われて、また泣いちゃった。

ただ先生に仕込まれた曲は、一音一音を叩き込まれたから、その通りにしか弾けない。感謝しかないけれど、若い頃はそこからいったん離れたがるのよね。

でも、先生に会っていなかったら音楽を“職業”にはしていなかったでしょうね。学校に残ることになって助手の頃は、先生の生徒を預けられた。教え方が悪いと、生徒でなく私が叱られた。でも今思えば、教えたことが役に立っている。先生に言われなければ、大学で教えるようにならなかった。私の適性がそうだと斎藤先生は見抜いたのね」

「教えることは学ぶこと」――情熱をもって教え続ける教育家

斎藤は「教えることは学ぶこと」と言い、生涯自分でも学び続けた。弟子の山本直純の楽譜の書き込みを見て「勉強になったよ」などと言い、いつまでも謙虚な姿勢を持ち続けた。海外から戻った小澤が斎藤に会うと、これまでとは違う解釈を示され驚かされた。斎藤は永遠に学ぶことを止めない音楽家だった。

「海外で教えられたのは、斎藤先生が言っていたことと同じ!」

斎藤ほど分析して教える先生はいないことも、初めて知るのだ。

斎藤は、自分の持っているものすべてを弟子に叩き込もうとした。その特別な意味は、弟子から孫弟子へと伝播していくだろう。その音楽が聴衆をも成長させ、さらなる音楽の高みを目指す音楽家も育っていくだろう。

でも、と私はちょっと立ち止まる。斎藤ほど音楽のことを全人生をかけて教え続ける教育者は今後現れるだろうか。斎藤ほど音楽を分析して教える音楽家は後に続いているだろうか。そして何より、斎藤ほどの情熱を持った教育家は今後、輩出されるだろうか。その不断の情熱こそ、特別な人間しか持つことのできない天分と思えるのである。

*       *      *

その果てしない音楽教育に明け暮れた人生について、詳しくは『斎藤秀雄 レジェンドとなった教育家』をぜひ一読願いたいものである。

書籍情報
斎藤秀雄の生涯をより詳しく知りたい方は

『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』

中丸美繪著

没後50年を経て明かされた事実、死の間際に吐露した想い……。

日本のクラシック音楽界を世界レベルに引き上げた稀代の教育家、斎藤秀雄(1902-74)。1948年、吉田秀和、井口基成、柴田南雄らと「子供のための音楽教室」を設立(桐朋学園音楽部門開設に繋がる)。鬼教師と恐れられながらも小澤征爾をはじめとする世界的名演奏家を数多く輩出し、その教え子たちがサイトウ・キネン・オーケストラを結成。また、『指揮法教程』を著し、指揮の動きをメソッド化するという世界でも稀な偉業も成し遂げたレジェンドである。

本書は、そんな斎藤秀雄の生き様を追って約130名に及ぶ関係者に話を聞き、日本エッセイスト・クラブ賞とミュージック・ペンクラブ賞を受賞した評伝『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(1996年)をもとに、新規取材を行い大幅加筆・再構成した新著。常に理想を追求し、執念にも近い情熱をもって音楽教育に力を注いだ氏の生き様を見事に描写した決定版!!

 

『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯〈誕生~演奏家編〉』

<電子書籍> 中丸美繪 著

上記書籍は『嬉遊曲、鳴りやまず——斎藤秀雄の生涯』をもとに大幅加筆・再構成したものだが、生い立ちから演奏家として活動した時期までの前半(第3章まで)は割愛部分が多かったため、オリジナル版を電子書籍でお読みいただけるようにした。

中丸美繪
中丸美繪 文筆家

慶應義塾大学文学部卒業。日本航空に5 年ほど勤務し、東宝演劇部戯曲研究科を経て、1997年『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45 回日本エッセイス...

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