河村尚子~映画『蜜蜂と遠雷』でのピアノ演奏、コンクール、教育、ベートーヴェンを語る
2019年10月公開の映画『蜜蜂と遠雷』でピアノコンクールに挑戦する登場人物の「ピアノ演奏」を担当した河村尚子さん。自身も数々のコンクールでの受賞を重ねた経験をもつ河村さんに、コンクールの想い出や意義、教育に携わるようになった今の考えを聞きました。
現在、コンサートとレコーディングの両面から取り組んでいるベートーヴェンについてもたっぷり伺っています。
話題の映画『蜜蜂と遠雷』で複雑な心理を抱いた主人公の演奏を担当
——10月公開の映画『蜜蜂と遠雷』で、河村尚子さんは主要キャラクターの一人・栄伝亜夜のピアノ演奏を担当されましたね。
河村: 原作者の恩田陸さんは以前から私のコンサートに足を運んでくださいましたし、本を書かれている最中にもコンクールについてお話をさせていただいていました。多くの方に取材を重ね、浜松の国際コンクールに通うなど、とても研究心の旺盛な方ですね。その成果が小説の中でリアルに表現されています。
河村: 映画で栄伝亜夜のピアノ演奏をとご依頼いただいたときは、「私でいいのかな」と思いながらも、とても光栄でした。栄伝亜夜というキャラクターは、心理的に複雑で深い。子どもの頃に神童として扱われた演奏家というのは、素晴らしい才能をもって成長しつつも、一方でコンプレックスを抱えることも。栄伝亜夜も母親を失って挫折を経験した人物です。映画でも、そうした複雑な心理状況がとてもよく描かれていました。ぜひ多くの方にご覧いただきたいです。
——栄伝亜夜に、河村さんご自身が共感できる部分というのはありましたか?
河村: そうですね、けっこうありましたよ。たとえば、オーケストラとのリハーサルで、うまくいかずに不安を抱くような経験。でも、その不安をまた乗り越えて、成功にたどり着く達成感です。そうしたところもリアルに描かれていますね。
——演奏を録音する際、河村さんは栄伝亜夜の人物像を何か演奏に反映させるようなことはあったのでしょうか。
河村: いいえ、それはありませんね。とくに演技指導などもなく、あくまでも私自身の音楽を自然に演奏した形です。ただし新曲に関しては、映画全体の尺の関係でテンポを調整しました。今回、藤倉大さんが作曲された作品(映画のために書き下ろされた《春と修羅》)を、主要キャラクター4人全員が演奏します。想定としては6分半の曲なのですが、私はゆっくり目に弾いていたみたいで、7分半になってしまったんです。監督の石川慶さんから「もう少し速く弾いてください」と言われました(笑)。結果的には、6分半に収まるように演奏したら、すっきりとした印象にまとまりました。そういうところは、普段の演奏の時間感覚とは違い、おもしろい体験でした。
——藤倉さんの作品はいかがでしたか?
河村: 神秘的な作品でしたね。無重力的な世界で、宙に浮いているかのような雰囲気の素敵な曲でした。キャラクター4人全員が、異なるカデンツァ(筆者注:協奏曲の楽章の終盤に、ピアニストが独奏で腕前を披露する部分)を演奏します。そこにも注目していただきたいですね。
——栄伝亜夜を演じる役者さんは松岡茉優さんですね。お会いする機会はありましたか?
河村: はい、レコーディングにも来てくださって、監督と3人でお話をしました。映像よりもレコーディングが先でしたので、役者さんたちも興味を持って立ち会ってくれたようです。とても稀な現場でしたね。
コンクールはシンポジウムのような場所
——さて、「蜜蜂と遠雷」はコンクールを舞台としたドラマですが、河村さんご自身もミュンヘン国際コンクール第2位、クララ・ハスキル国際コンクール優勝といった、輝かしいキャリアをお持ちです。今振り返って、ご自身のコンクール経験をどのように捉えていますか?
河村: さまざまなことを吸収するためのステップですね。コンクールとは、新しいレパートリーを弾ける公の場であり、同じ目標を持った同志と出会える場であり、そうした人たちの演奏を聴ける場であり、審査員の方々からアドヴァイスをもらえる場です。今振り返れば、まるでシンポジウムのような場所です。そう捉えられれば、本当にいろいろと吸収できます。
でもやはり、経験の浅い10代や20代の頃の挑戦ですから、自分の演奏に対して必死で、リラックスするのは難しい。コンテスタントたちは、準備期間に長い時間を費やして臨むので、すごく必死になってしまう。1年近く準備したことを、第一次予選では2、30分の本番で出し切らなければいけないですし。
——メンタル面の整え方が大切になりますね。そのためにできることは何でしょう。
河村: もちろん毎日の練習は大切ですが、私はピアノだけに没頭しないで、スポーツをする、散歩をする、美術館を訪れる、料理をする、お菓子作りをするなど、リラックスできる範囲や活動範囲を広げるようにしていました。あまり練習しすぎないように。
ピアノの練習は自分への厳しさを培うことも必要
——昨今では日本のピアノ教育界の指導者がさまざまな研究を重ね、レッスン現場なども雰囲気がだいぶ変わってきていますが、数十年前まではピアノの先生といえば「怖い」人で、発表会やコンクールでは一音でも間違えようものなら叱られる、みたいな空気感があったと思います。リラックスさせない、緊張する方向性へと、あえて追い詰めていく感じもあったように感じます。
河村: 日本のみならず、ロシアやポーランドなど、かつての共産主義国家では、国家の働きかけによって、子どもの頃からパーフェクトな技術と音楽性を磨きに磨いてコンクールへ送り込むという気運があり、それが日本にも反映されていたかもしれませんね。度が過ぎるのは良くありませんが、とくにピアノを基礎からしっかり勉強するにあたっては、毎日の練習を大切にするとか、自分自身への厳しさを養うことは悪いことではありません。なんでも野放しにしておくのが良いわけでもない。
残念なことに、自由な気風の西側の国では、ピアノを学ぶ学生が年々減っています。ドイツの音楽大学で勉強しているドイツ人は、全体の10パーセントくらい。もう本当に少なくなっているんです。東欧の人たちや、アジア人が多いですね。
——河村さんはまだ5歳の頃にドイツへと渡られたんですよね。
河村: 父が仕事で海外赴任になったので、家族で引っ越したというだけで、ピアノ留学ではありません(笑)。小学校6年生までは、日本人の先生のもとでのびのびと弾いていたのですが、途中からポーランド人の先生につき、1から10まで、いや20まで、詰め込み型のレッスンを受け、ようやく基礎ができあがった感じです。
——でもその年齢ですと、もう自分の意思で判断して、ピアノを続けていったということになるでしょうか。
河村: そうですね。自分で続けていきたいと考えていました。周囲のポーランド人やチェコ人やロシア人に比べると自分のレベルは「普通」でしたから、厳しい世界に入っていく意識はありましたね。でも、子ども時代は伸びやかにやれたので、その順番は良かったのかもしれない。
——現在、河村さんは、ドイツのフォルクヴァング芸術大学の教授、東京音楽大学特任講師として、若い方々の指導もなさっています。学生たちの演奏をどう捉えていますか?
河村: 東京音大の学生たちはものすごく優れていて、みなさん本当に上手に弾いています。ドイツの大学は、いろんな国から学生が集まっているので、そこに至るまでの進度がバラバラです。バランスよく成長してきている学生はアジアからの留学生が多いですね。
学生たちの得意不得意はそれぞれですが、それを見定めて、どちらも伸ばしていきたいです。彼らの演奏を聴いていて、私だったらその解釈はしないけれどおもしろいな、と思えるときは、彼らの才能を感じますし、自立心を大切にしてあげたい。いつまでも先生の言うことに従うのではなく、自分だけの音楽性、アイディア、ファンタジーを演奏につなげられるように、楽譜の読み込み方などを学生たちに伝えています。
曖昧な解釈では、ベートーヴェンは響かない
——昨年からリサイタルやCD録音で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに集中的に取り組んでおられます。ソナタ集のCD第1弾では、「悲愴」(第8番)、「月光」(第14番)という名曲とともに、第4番と第7番を収められました。
河村: 実は「悲愴」と「月光」はそこまで長く弾き続けてきた作品ではなく、4番と7番の方が、昔からずっと弾き続けてきました。この2作は、今もっとも自分の理解が深まっていると感じますので、今回のCDに収録しました。もちろん有名な「悲愴」と「月光」も勉強を重ね、とても好きになりました。
——「悲愴」の第1楽章の冒頭の和音に、ベートーヴェンは「fp」(強く弾いてすぐに弱く)と記していて、これを河村さんは斬新でユニークな手法で表現されました。
聴いた方はみんな驚かれると思いますし、コンサートでもCDでも、この手法が大変話題となりましたね。
河村: この表現は、実は現代音楽の演奏を経て、そこで得られた効果をベートーヴェンの音楽に反映させたものなのです。ベートーヴェンはピアニストにとって誰しも通らざるを得ない道。私も学生のころから弾き続け、勉強しなくてはいけないものと捉えていましたが、すごく得意としてきたわけでもありません。とてもキャラクターが強くて、コントラストの大きい作曲家。はっきりした解釈をもたず、曖昧に弾いてしまうとベートーヴェンらしさが出ない。それで、さまざまなロマン派や現代曲、また室内楽などの経験を経て、それらの演奏効果を知ったうえで、この表現に至りました。
——河村さんの演奏を聴いていますと、ソナタの構成がクリアに伝わり、ベートーヴェンが狙っていた響きの効果などもはっきりと感じられるように思います。
河村: ピアノのためのソナタであっても、ベートーヴェンの作品はオーケストラの響きをかなりイメージしている部分がありますね。ピアニストはよく、オーケストラや弦楽四重奏の響きをイメージして弾きますが、弦楽器や管楽器の奏者たちは、ピアノの音をイメージして演奏するそうです。そうしたイメージのコラボレーションは、新鮮で新しい表現につながりますね。
——11月には全4回の「ピアノ・ソナタ・プロジェクト」も完結編を迎えますね。いよいよ後期の3作品、第30、31、32番です。レコーディングとはまた違った河村さんの生演奏の魅力に出会うのが楽しみです。
河村: レコーディングの場合は、さまざまなテイクから一つのバージョンを選び取ることができますが、ライブは一回限り。臨機応変に、会場の楽器、残響とともに作り上げる瞬間的なもの。響かせ方や間の取り方がなど、いつでもフレッシュな解釈をお届けしたいと思っています。
河村尚子『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集①悲愴&月光』
新譜情報
ハイブリッドディスク:SICC 19044
発売日: 2019年10月2日
情報解禁日: 2019年8月1日 定価: ¥3,000+税
ハイブリッドディスク(SA-CD層は2ch)
RCA Red Seal (P)&© 2019 Sony Music International
発売日:2019年9月4日
定価:3000円+税 ※Blu-spec CD2でのリリース
SICC-39031
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