アメリカ生まれ・クラシック育ちの池永レオ遼太郎が「鼓童」の太鼓打ちになるまで
創立40周年を迎える、佐渡を拠点に活動する太鼓芸能集団「鼓童」が10月30日(土)、東京交響楽団とともに新作《いのち》を初演します。鼓童メンバー初のオーケストラ曲となった本作を作曲・演出も手がけるのは池永レオ遼太郎さん。アメリカで生まれ育ち、ピアノやチェロを学んだ彼が鼓童の太鼓打ちになるまでのストーリー、今回の公演への思いを聞きました。
早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。『The Japan Times』『E...
ピアノ、チェロを学び、エリートコースから突如、太鼓の道へ
——アメリカ生まれ、アメリカ育ちで、西洋のクラシック音楽を先に学んだそうですね。
池永 はい。2歳からピアノを習っていたのですが、姉(ピアニストの池永夏美)が本格的に学び始めたため、自分は違うことをやりたいと思ったのか、チェロを習い始めて。9~10歳頃に日本に帰ってからもインターナショナルスクールやアメリカンスクールに通っていたので、西洋の文化のほうが、馴染みはありましたね。小学校で週2回ほど、課外活動として1年間太鼓をやりましたが、正直、あまり記憶にはないんです。
——その後、進学されたアメリカのコーネル大学で太鼓のサークルに入ったそうですが、それが太鼓との“出会い直し”に?
池永 そうですね。太鼓をちゃんと始めたと言えるのは、大学生の時。日本人の留学生が少なかったので、勧誘されて入りました。単純にカッコいいし、楽しそうだなと思って(笑)。とはいえ、指導者がいたわけではないので、本当にお遊び程度でしたけど。
——ちなみに、アメリカでは太鼓はかなり盛んなのでしょうか?
池永 すごく盛んです。鼓童は今年で40周年、前身の「佐渡の國 鬼太鼓座(おんでこざ)」を含めると50年近い歴史がありますが、その時代からアメリカでは公演が行なわれています。特に日系の方がたくさんいらっしゃる西海岸では、お盆のお祭りとして、お寺からいろんなグループが生まれ、今では誰もが参加することのできる「インクルーシブ・アート」として、愛好者がたくさんいます。ヨーロッパでも同様です。僕自身は東海岸に住んでいたので、子どもの頃にはあまり馴染みがなかったのですが。
——では大学生時代に太鼓にのめり込んでいったのですか?
池永 実はそうでもないんですよね。楽しいクラブ活動、くらいの気持ちだったので。太鼓の音楽としての魅力、芸術としての魅力に気づかされたのは、鼓童に入ってからです。
大学では経済学を勉強していたので、投資銀行などに就職するつもりで、夏にはインターシップも経験していました。でも、鼓童の研修所をみつけて。惹かれたのは鼓童そのものというより、研修所でした。というのも研修所では2年間、インターネットも携帯電話もない環境で、朝5時に起きて10キロ走るなど、山伏みたいな過酷な修行をする。自分も何か苦しい修行をしないといけないと思っていたし、大学で太鼓もやったし、と。
さらに2年間頑張れば、世界中のすごいホールで演奏ができるかもしれないなんて、お得だな、とも思いました(笑)。
——「苦しい修行をしたい」とは、当時の池永青年の胸中に、一体何が起きていたのでしょう!?
池永 それまで僕は恵まれた環境にいて、苦労したことがなかったんです。都会で育って、親は弁護士で、周りも医者か弁護士か社長か金融業界の人ばかり。友だちもみんなそういうところを目指していました。
僕はひねくれた性格なので「それでいいの?」と疑問を抱きつつも、実際に自分がやりたいことが何かはわからなくて、みんなと同じようにレールに乗って就職に向かっていた。でも、それで豊かな生活をしたとしても、普通の人生だな、と思ったんですよ。もっと周りの人間に影響を与えたい、人として成長したい、って。あの頃は、自分が生きている意味は何なんだろう? ということをすごく考えていたんですよね。今でも考えることですけど。
——それで、就職はせず、鼓童の研修所へ。ご両親には反対されませんでしたか?
池永 皆、びっくりしていましたし、両親からは反対もありました。でもずっと自分のやりたいことをやるという性格だったので。自分としても、行くからにはちゃんと結果を残さなければと、思いを新たにしましたね。
太鼓を中心とした伝統的な音楽芸能に無限の可能性を見いだし、現代への再創造を試みる集団。「鼓童」とは、人間にとって基本的なリズムである心臓の鼓動から音(おん)をとった名前で、大太鼓の響きが母親の胎内で聞いた最初の音(心音)を想起させることによるものです。そして「童(わらべ)」の文字には、子どものように何ものにもとらわれることなく無心に太鼓を叩いていきたいという願いが込められている。
鼓童で知った太鼓の魅力
——とはいえ、いきなり佐渡に行って、スマホもPCもない生活をするのは、大変だったのではないですか? 食後や就寝前にも、使えないのですよね?
池永 はい、持ち込むこと自体が禁止なので。電話は、公用の電話を、お金を払って使うことはできましたが、研修生活に電話する時間はないです。朝5時起床、10時就寝の間は全部、分刻みのスケジュールで、田んぼや畑の仕事も忙しいですし。
というのも、日本の芸能は農耕民族のもので、鍬を持って田んぼや畑を耕すこととも関係しているので、鼓童の活動にとって、とても大切なんです。
——では太鼓の魅力に開眼したのは、ストイックな状況下で太鼓を学んだ2年間ででしょうか?
池永 鼓童に入りたいとは考えるようになりましたね。でもそれも、太鼓がすごく好きだからというのとは少し違っていて。今でも、必ずしも太鼓でなくてもいいと思っているんです。
ただ、ピアノもチェロもある程度の技術がないと曲は弾けないけれど、太鼓はシンプルな楽器で、簡単なリズムなら誰でも叩ける。でも、太鼓一つでお客さんを感動させることは難しい。簡単な楽器だからこそ限界なく突き詰められる、奥が深いものだという気がします。そして、シンプルな楽器だからこそ、自分を映す鏡になる。自分がだらしない生活をしていたら、だらしない音が出るんです。どれくらい自分と向き合えるか、自分の人間性を深められるかによって、音が変わってくることを身をもって感じています。だから、自分と向き合って、自分を良くするというプロセス自体が、僕にはすごく魅力的で。
池永 そして、鼓童という場所は、太鼓で世界を変えたいと本気で思っている人たちの集まり。やっぱりみんなすごく自分と向き合い、お互いに対しても思いやりをもっているので、そういう中で一人ひとりが自分を良くしようという向上心を持っていると、それは大きな波になって、本当にいろいろな物事を変えていくことができます。そのエネルギーの循環が僕には魅力的で、これを可能にしているのが太鼓という楽器なんです。
——鼓童のメンバーになって、プレイヤーとして国内外で活動する中で、特に思い出深い出来事と言うと?
池永 良い思い出ではないのですが、やはり、去年のヨーロッパツアーを途中で帰ったことでしょうか。ヨーロッパから帰って2週間隔離した3日後の4月頭に緊急事態宣言が発令され、5月に延長されたので、2ヶ月間は稽古場も締めていて、入れない状態。僕は佐渡で一人暮らしをしてるんで、人とほぼ会いませんでした。不安を覚えた一方で、逆にじっくりと作曲をする機会にもなったので、自分にとってインパクトのある出来事でしたね。
初のオーケストラ曲「いのち」
——鼓童創立40周年 第二弾 鼓童×東京交響楽団「いのち」の公演では、池永さんが演出をし、ご自身の書き下ろし曲《いのち》を初演します。
池永 そうですね。演出といっても舞台転換などはなく、普通のオーケストラの演奏会のような雰囲気なので、僕がやったのは主に、作曲と他に演奏する曲の選曲。40年前にベルリン・フィルと演奏した際の曲である石井眞木さん作曲の《モノプリズム》と、冨田勲先生作曲の壮大な《宇宙の歌》を選びました。鼓童のルーツとこれからの対比をお見せしたいと考えています。
——今回の公演全体を任されたような形なのですね。ご自分でやりたいとおっしゃったのですか?
池永 そうです。オーケストラの曲を、というのは鼓童代表の船橋(裕一郎)がずっと言っていたことで、「だったら僕、書きます」と。指揮者の下野(竜也)さんが2018年の僕らの公演「巡 -MEGURU-」にいらしたときに音源をお渡ししたら「面白いかもしれない。やってみよう」と言ってくださったんです。そこから3年かけて準備しました。
——作曲はいつ頃からなさっていたのですか?
池永 鼓童に入るずっと前、記憶がないくらい昔からやっていました。バンドを組んでいたこともありますし。作曲は、最近はPCのソフトでやることも多いですが、ずっとピアノでやっていましたね。鼓童の研修生になってからは、僕が作った曲を皆で演奏したこともあります。譜面に書いたり、口誦で伝えたり、音源にしたり、形はその時その時で違うのですが。
——オーケストラ曲の作曲は今回が初めてだとか。いかがでしたか?
池永 大変でした。作曲の勉強をきちんとしたことはないので、好きなオーケストラ曲の総譜を見るなどして自分なりに勉強して。でもオーケストラのすべての楽器の音・音域がわかっているわけではなく、ファゴットと言っても、頭の中で音が鳴らないので、パソコンのソフトで楽器の音を出して一つひとつ打ち込んでみて。難しかったですね。
——オーケストレーションにあたっては、作曲家の中原達彦さんの協力を仰いだとか。
池永 はい。一応、自分なりに全部書いて、それを手直ししていただきました。例えば、僕はテンションコードをよく使うのですが、このコード進行はクラシックではあまりやらないと指摘されて、「そうなんですね、じゃあこういうふうに変えましょう」とピアノを弾きながら一緒に直していただいたり、「敢えてこうしたんです」と説明したり。自分が譲れないポイントは何時間もかけてやりとりをさせていただきました。
——《いのち》というタイトルの曲には、佐渡の自然の中での体験やコロナで思われたことが反映されていると推察します。テンションコードを多用されたのは、自然界の、ただ整然としているだけではないものを表したかったからですか?
池永 そういうふうに考えたことはあまりないのですが、「いのち」は正確には、40分間くらいの、6楽章ある曲のうちの第5楽章なんです。去年、さっきもお話ししたヨーロッパツアーから帰って一人で生活しているときに書いたのがその楽章でした。1人でいて、自分の今までを振り返ったり、これからどうなってしまうんだろう? と考えたりと、すごく混乱し、葛藤していた時期です。
僕は海辺に住んでいるのですが、外に出ると、空気がきれいで、海も空も青くて、こんなに世界は美しいのに人間だけが大騒ぎしていて滑稽だなと思ったり、善悪や正しい/正しくないという物事の測り方が人間の勝手に思えたり。ただただ、この大きな地球という命の流れに身を任せたいなと思って、書いたと言うか、勝手に出てきたものを音符にしたのが、5楽章です。
——ということは他の楽章にも名前が?
池永 そうです。タイトルを発表するかはわからないのですが、一応6楽章それぞれにテーマがあり、1つだけ切り取っても曲として成立するように書きました。例えば2楽章は佐渡がテーマの「しま」で、大きな太鼓をほぼ叩かないんです。鼓童には太鼓以外の楽器もたくさんあるので、笛などで海の情景を表現したり、佐渡の民謡や祭りなど、佐渡の要素をアレンジして構成しています。
——まだオーケストラと一緒には演奏していないのですよね。
池永 はい。リハーサルはこれから。楽譜は印刷されてしかるべきところに渡っているので、今は宙吊りな気分ですね(笑)。
作曲にあたっては、太鼓である必然性、鼓童である必然性を大事にし、太鼓がただのバッキング(伴奏)にならないように、あるいは太鼓の音が大きすぎてオーケストラが聴こえなくならないように、自分の今までの経験を詰め込んだつもり。それが果たして形になっているかが今は気になっています。
——どんな公演になればと思っていますか?
池永 この曲を書いたときの自分の葛藤の結論は、「それでもやっぱり人は生きていくんだな」とか、「音楽が自分の糧になっているんだ」というものでした。聴いている方にも、大変な時代ですけれども元気を与え、気づきの機会にもになればいいなと思っています。
日時: 2021年10月30日(土)15:00開演
会場: 神奈川県川崎市 ミューザ川崎シンフォニーホール
演出: 池永レオ遼太郎
出演: 下野竜也(指揮)、東京交響楽団
太鼓芸能集団 鼓童
鼓童演奏者(予定):齊藤栄一、阿部好江、中込健太、小松崎正吾、住吉佑太、三浦康暉、北林玲央、米山水木、小平一誠、前田順康、木村佑太、平田裕貴、中谷憧、新山萌、野仲純平
曲目:
《モノプリズム》日本太鼓群とオーケストラのための(石井眞木作曲 1976年作品)
《いのち》(池永レオ遼太郎作曲 2021年作品、本公演にて初演)
《宇宙の歌》(冨田勲作曲 1994年作品、CD『ナスカ幻想』より)
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