ヴァイオリニスト・千住真理子、名器デュランティに導かれベートーヴェンのソナタを全曲録音――「自分の感性を信じて自由に聴いてほしい」
2020年にアニバーサリーイヤーを控え、例年以上に注目が集まるベートーヴェン。千住真理子さんがこのたび名器デュランティを弾いて吹き込んだのは、もちろんヴァイオリン・ソナタ。彼女が考えるベートーヴェン像、そしてクラシック初心者でもわかる作品の聴きどころ、またヴァイオリンという楽器の魅力について伺いました。
編集プロダクションで機関誌・広報誌等の企画・編集・ライティングを経てフリーに。 四十の手習いでギターを始め、5 年が経過。七十でのデビュー(?)を目指し猛特訓中。年に...
生活のリズムまでも見直したデュランティの存在
これまで幾度となく共演を重ねているピアニストの横山幸雄とともに、ベートーヴェンが生涯に残したヴァイオリン・ソナタ全10曲を録音した今回のディスク。2回に分けてリリースするが、この10月に発売されたVol.1には第1~3番、そして第9~10番の5曲が収録された。
これからクラシック音楽を聴いてみよう、という人にとっては、曲にタイトル(標題)がついていなくて、「第○番」と数字だけで示されるのには少し戸惑うかもしれないが、単純に作った順番に第1番、第2番と続いていくと考えればいいと思う(後の研究等の結果、例外の場合もある)。つまり、1番から聴いていくと、最初は初々しく、そして順を追うごとに成熟されていく、といった具合に作曲家の成長も感じられることもあるわけだ。また、ソナタとは楽曲の形式のひとつでもあるが、「器楽曲」という意味もある。ここでは語弊を恐れずできるだけ簡単に、ピアノを伴奏としたヴァイオリン曲、と考えよう。
千住真理子というと、彼女の使用楽器であるストラディヴァリウス「デュランティ」を思い起こす人も多いだろう。この名器を使い、近年はバッハ、イザイの無伴奏ソナタをはじめ、モーツァルトやブラームスといった大作曲家の作品を録音してきたが、今回ベートーヴェンに取り組んだのは、記念イヤーであることはもちろん、この楽器に導かれたところも大きいという。
「デュランティとの付き合いは今年で17年になるのですが、この楽器のもつパワーを受け止め、そして仲良くなるために、すべてを変えたんです。ボーイングやフィンガリングなどのテクニックから生活のリズムまで、何年もかけて、本当にすべてを見直した。そこまでして、やっと弾くのが楽しくなってきた感があります。だからこそベートーヴェンと向かい合う覚悟ができましたし、デュランティが私をベートーヴェンにまで導いてくれたような気もします」
そうしてできた今回の全集は、入門編として親しみやすい明確さを持ちながら、心の深いところに触れてくるような繊細さも併せ持つ演奏が印象的だ。横山幸雄による完璧なサポートも相まって、聴く者をグイグイとその音楽世界に引き込んでいき、いつの間にか全5曲が終わってしまう。もう200年以上前に作られた曲を、300年前の楽器で弾いているわけだが、そんなことを微塵も感じさせないのは、音楽が現在を生きていることの何よりの証拠である。
「デュランティには無限の可能性があるんですね。いまだに新しい発見があって、まだまだ底が見えない。そして、この楽器でベートーヴェンを弾くと、彼の残したメロディが、私が持っていたイメージよりもさらに何倍も膨らんで聴こえてきて、『あ、もっとこういう音色も似合うんじゃないか』という気づきがあるんです。そんな体験を繰り返すことで、私にとってのベートーヴェンの存在がクリアになってきた気がしますね」
ながら聴きでも素敵なメロディに巡り合える
さて、Vo.1の収録曲だが、ベートーヴェンが20代のときに書いた第1~3番と、それぞれ30代、40代で発表した第9番、第10番という2つの大作が収められている。まず、このセレクトについて聞いてみた。
「第1~3番は、時間的にいえば20分以内で終わるような、こぢんまりとした作品なんですよね。愛らしくて、まるで彼の若さが聴こえてくるような、軽やかでチャーミングなイメージがあります。
対して、9番と10番は演奏時間も30分を越えようかというスケールの大きさで、重厚なイメージがあります。この相反するような存在感をもつ曲たちを組み合わせることでバランスがよくなると思いました。第4~8番はそれぞれに独特の存在感がある曲ばかりなので、これはこれでひとまとめにしたほうがいい、とも思いましたし」
初心者としては、どのようなところに注意して聴けばいいのか、そのポイントも教えていただきたいところだが、「ながら聴きでいいんですよ」という少々意外な答えが返ってきた。はたしてその心は?
「もちろん、じっくりと聴いてくださるのに越したことはありません。だけど、ながら聴きでもいいというのは、ベートーヴェンの作品には聴きやすいメロディがふんだんに使われているからなんです。例えば有名な交響曲第9番にしても、『歓喜の歌』のみならず、素敵な旋律がいたるところに散りばめられています。
ベートーヴェンというと、学校の音楽室にある肖像画のように、いかめしくて、どこかとっつきにくいイメージがあると思うんですけど、音楽を聴く限りでは、とっても親しみやすい。そこが彼が時代を超えて愛される理由だと思いますし、そうしたところを感じ取ってほしいな、と思うんです。だから、ながら聴きでもいいので、まずは通して聴いてみていただきたいですね」
音楽は勉強ではない、感じたことが正しい
それから、ベートーヴェンの音楽から伝わってくる人間臭い感情にも注目してほしいという。
「彼はとても苦労した人。作曲を志している人間が、20代にして耳が次第に悪くなっていくなんて、この絶望は想像しても計り知れないですよね。ですけど、彼は自分の夢を断念することなく、生涯にわたって素晴らしい作品を残し続けるわけです。
それだけに、ベートーヴェンは人の心の痛みを知っていて、それらを曲に投影している。だから、辛いことや哀しいことがあったときに彼の音楽を聴くと、心にしみいるもの、心に響くものが必ずあると思うんです」
そしてそれは、必ずしも名曲といわれている作品の中にだけあるとは限らない。
「今回のアルバムの中で、名曲の誉れ高いのは9番で、すがすがしいほどに格好いい曲。さすが世界中で愛されているだけあるな、と思うんですね。ですけど、それから9年という長い年月を開けて書かれた10番には、慰めに満ちた色合いというか、心が潤うようなしっとりした魅力があります。もちろん、1~3番にも惹かれるポイントがたくさんあって。そんなポイントは、聴いてくださる皆さん一人ひとりの中にもあるはずで、『この曲の、ここが好き』というのをそれぞれに見つけていただけるのが、ベートーヴェンを聴く魅力だし、楽しさでもあると思うんです」
とはいうものの、初心者的には、自分が「ここがいい!」と思ったところが、実は世間一般的な見解、クラシック界の常識とはズレてしまっているのではないか、という漠然とした不安もあるのでは? とも思う。しかし、そんな心配も「いいんです、そんなの。音楽は勉強じゃないんだから」と一刀両断してくれる千住の言葉はとても心強い。
「当然、勉強として音楽と向き合っている方もいますけれど、一般のリスナーの方は勉強だなんて思わないでほしいですね。先ほど『ながら聴きでいい』と申しあげたのは、何も考えていないときに感じたものがすべてだからです。何もわからない状態で聴いて『いい!』と思ったら、それは本当にいいものなんです。『つまらない』と感じたら、それは誰が何と言おうとつまらない。その理由は作品にあるのか演奏家にあるのかわからないけれど、いずれにせよ、あなたが感じたことが正しいんです。
どれだけ名曲といわれていても、自分に響かなかったら、そう堂々と言えるようにならないと、若いリスナーさんも入ってきづらい世界になってしまいますよね」
大切なものを抱えるように、自分のヴァイオリンを育てていく
さて、ヴァイオリンという楽器はどこか敷居が高いイメージがある。千住真理子は2歳3か月で始めているが、それは決して例外ではなく、プロとして活躍している演奏者は大方そのぐらいの時期に習い始めている。そんなことから、趣味として習うとしても「早く始めないと上達しないんじゃないか」という思い込みが生まれてしまうのかもしれない。そんな話をしたら、「全然そんなことないですよ! 先入観はなくしたほうがいいですね」と、案の定、笑われてしまった。
「私の周りにも、60歳を過ぎてから習い始めて、マスネの《タイスの瞑想曲》を弾けるようになって喜んでいる方もいるんですから。例えば会社を退職されたあとからの趣味として始められるのもすごくいいと思いますよ。左右の手で指の使い方が違いますから、脳の活性化にもつながるはずです」
実は筆者も、とある取材でヴァイオリンのレッスンを1時間だけ受けたことがあるのだが、独特の構え方に最初は違和感をもちつつ、終わるころには愛着が出てきてしまった経験がある。そして、一度でも音が出ると、俄然楽しくなってくるのだ。
「ヴァイオリンの構えは、大切なものを持つような仕草。だから、ひとたび始められたら、どんどん好きになると思いますよ。自分のヴァイオリンができるわけですから。毎日丁寧にケアをしていけば、どんどんいい音になっていきますよ。そうしてご自身のヴァイオリンを育てていって、例えばエルガーの《愛の挨拶》とか、バッハの《G線上のアリア》とか、好きな曲を選んで練習する。1年かかろうが2年かかろうが、その曲が弾けるようになったときの喜びといったら、もう何物にも代えられません。
それをクリスマスとか、みんなが集まったときに弾いてみせたりするのも素敵ですよね。そういうことを積み重ねていくと、もっともっとヴァイオリンが好きになると思います」
音楽が楽しくなったり楽器を好きになるということは、つまりはそれらが「生きている」からなのだろう。ベートーヴェンが作品に込めた感情、そしてそれらを再現する演奏者と楽器、みんな生きているから、聴く人は感動する。生きた音楽は雄弁で、そこにプロやアマチュア、初心者などという壁はないのかもしれない。
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