インタビュー
2024.08.14
特集「吹奏楽」特別インタビュー

天野正道~吹奏楽との出会い、仕事、魅力を語る【前編】

ありとあらゆるジャンルの音楽でお仕事をされてきたレジェンド作・編曲家そして指揮者である天野正道さん。 昨年の吹奏楽コンクール課題曲《レトロ》でも話題になりましたが、その音楽生活の側にはずっと「吹奏楽」がありました。
そんな天野さんに音楽・吹奏楽との出会いから、さまざまなお仕事のエピソード、自作・編曲論から吹奏楽の可能性まで......たっぷりと語っていただきました。インタビュアーは指揮者で、吹奏楽の世界でも大活躍中の野津如弘さんです!

取材・文
野津 如弘
取材・文
野津 如弘 指揮者

1977年、仙台生まれ。早稲田大学第一文学部卒。東京藝術大学楽理科を経てシベリウス音楽院指揮科修士課程終了。現在、常葉大学短期大学部音楽科非常勤講師。 HP http...

トップ画像提供=東京佼成ウインドオーケストラ

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音楽を聴くのは楽しい、音楽を演奏するのはもっと楽しい、音楽を作るのはもっともっと楽しい! 天野正道

音楽・吹奏楽との出会い......破天荒な少年は作曲の道へ

——天野さんと吹奏楽との出会いを教えてください。

天野 秋田大学附属中学校2年生の時でした。それまでは電気工作クラブに入っていました。小学校5年生でアマチュア無線の免許を取るなど、そういう分野が得意だったのです。電気工作クラブの先輩でエレクトーンをやっている人がいて、ある年、文化祭で自分がギターを弾いて、2人でステージをやったんですね。そうしたら吹奏楽部の顧問の羽川先生に声をかけられて、吹奏楽部に入部したというわけです。

最初はトロンボーンでしたが、その当時、まだ小さかったのでスライドに紐をつけて吹いていたら、本番でスポーンと先生の前までスライドを飛ばしてしまい、トロンボーンをクビになりました(笑)。それで、テナーサックスに回されて中3から高2までやりました。ところが高校生になってジャズに目覚めて、調子にのってメタルマウスピースでビャービャー吹いていたものですから、うるさいと言われて、フルートへ飛ばされたのです。フルートなら大きな音が出せないだろうとね。けど、フルートにはピッコロという武器があって、またビャーと吹いて「ザマみやがれ!」と。笑

——なかなか強烈な吹奏楽デビューでしたね。

天野 吹奏楽以外でも破天荒でした(笑)。秋田南高校時代、通学路が暗かったので、自作で自転車に丸い蛍光灯を取り付けて光るようにしたのです。真っ暗闇にぼんやりと蛍光灯が浮かぶのを見て、トラックの運転手さんなんかがびっくりしてしまい、お巡りさんに怒られたこともあります。

——作曲を始めたのはいつ頃からでしょうか?

天野 中学3年頃から作曲の真似事はしていましたね。高校に入ってから吹奏楽へのアレンジを始めて、教育実習で来ていた塩谷(しおのや)先生の委嘱で高3のときにフルートとピアノのための曲を書いたのがデビュー作ということになるでしょうか。『フリュートとピアノのための小品第一番』で、数年前に出版されました。半音と全音が交互に現れるいわゆる「メシアンの第2旋法」で作られていますが、当時はそんなことを知る由もなく、大発明をしたという思いでした。

天野 それがきっかけで、「音楽を聴くのは楽しい、音楽を演奏するのはもっと楽しい、音楽を作るのはもっともっと楽しい」という思いを強くして、作曲の道を志すことになりました。

さまざまなジャンルを吸収し、ジャンルを問わない作曲活動

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——吹奏楽以外にも、その当時、影響を受けたジャンルはありますか?

天野 秋田でFM実験局が開設されたのが、中2か、いやもっと前小6の頃だったかと。で、自作のラジオでずっと音楽番組を聴いていました。朝は皆川達夫先生の「バロック音楽のたのしみ」に始まり、学校から帰ってくると夜遅くまで聴いていましたね。

ある時、ボサノヴァが流れてきて、それがきっかけでギターを独学で始めたのが、先ほどの文化祭での演奏につながっていきます。高校生になると、ジャズ喫茶「ロンド」に学校帰りに寄るようになって、コルトレーン、マイルス・デイヴィスなどジャズをいろいろ教わりました。

——そのようにして今の天野さんの多彩な活動につながる基礎が築かれたのですね。大学時代はどのように過ごされたのでしょうか?

天野 吹奏楽のアレンジはずっと続けていて、浪人時代にストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》のアレンジをしました。大学1年の時には同じく《春の祭典》を、翌年には三善晃先生の《管弦楽のための協奏曲》、さらに矢代秋雄先生の《交響曲》、三善先生の《交響三章》と秋田南高校のためのアレンジを毎年やりました。大学4年の時には「原信夫とシャープス&フラッツ」30周年記念の曲を書いたり、CMなどの商業音楽も手掛けていましたね。

——最初から、いろんなジャンルを一気に手掛けられたのですね。

天野 ジャンルはあんまり意識したことがないのです。ジャンル問わずといいますか。手当たり次第にやってきました。アンサンブルのためにコンテンポラリーな作品も書きましたしね。打楽器の目黒一則さんやオーボエの茂木大輔さん、フルートの菅原潤さんたちとミニマルミュージックをやったり。

そんな中、冨田勲先生とも知り合い、シンセサイザーの世界、サウンドクラウドや多重録音にも興味を持ちました。オーストラリアへフェアライトCMIの勉強に行ったのが1982年か83年。ソニーがCDを作り始めた時に、最初からCDのために音楽をというコンセプトでデビューさせたTPOというユニットに入って活動しました。他のメンバーには安西史孝さんがいて、彼とは『うる星やつら オンリー・ユー』(1983年公開)というアニメ映画でも一緒に音楽を担当しました。

▼天野さんが参加したユニットTPOのアルバム『TPO1』

▼『うる星やつら オンリー・ユー』予告映像

映画音楽作曲家として、アレンジャーとして、指揮者として

——天野さんは、映画音楽も数多く手掛けていらっしゃいますよね。

天野 はい、実写はたのきんトリオ主演の『ウィーン物語 ジェミニ・YとS』(1982年公開)を手伝ったのが初めてです。京都の花街を舞台にした映画『おもちゃ』(1999年)で深作欣二監督とご一緒して、第23回日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞しました。僕はコンピューター音楽をやっていたので、書いた音楽をシミュレーションできて、完成品に近いものを作れたんです。深作監督などは最初それを聴いてびっくりして、しょっちゅうスタジオにいらしてそれを聴きながら「ああしよう、こうしよう」と相談したものです。それが『バトル・ロワイアル』シリーズへと発展していきました。

▼映画『バトル・ロワイアル』オリジナル・サウンドトラック

——天野さんの発想力、その源はどこにあるのでしょうか?

天野 「お告げが来ないと書けない。そしてそのお告げは大体締め切り間際にならないと来ない」と冗談で言っていますが、映像音楽はやはり映像やストーリーから発想しますね。やはり音楽がドラマを邪魔しちゃいけないので。そうじゃない曲の場合、発想はいろいろところから得ています。

——作曲家・アレンジャー・指揮者という異なる立場でご活躍されていますが、音楽に対するアプローチは変わってきますか?

天野 作曲をする際は書きたい曲を書くとき、注文に応じて書くときでは異なりますね。書きたい曲を書くときは締切などないので、それこそブルックナーみたいに推敲に推敲を重ねられますし(笑)。また、オーケストラと吹奏楽では異なります。オケはある程度の編成が決まっていますが、吹奏楽はフレキシブルなので書き方は変わってきますね。プロの吹奏楽団のように固定されていれば別ですが、アマチュアで80人というバンドだと想定が変わってきます。

指揮をするときは、自分の曲も他人の曲のように客観的に見るようにします。とはいえ、自作の初演は信頼できる指揮者に任せるのがいいというのが僕の持論です。というのも、スコアは作曲する際に自分の頭の中ですでに何千回、何万回と鳴っていて、仕上がったスコアは自分が考えた通りのものなのです。それを自分で演奏しても自分で考えている以上のものは出てこない。ならば、その譜面から自分が考えもしなかった新しい面を引き出してくれる別の指揮者にお任せしようということです。全くかけ離れたものが出てきたら言いますが、こんな解釈もできるのかと勉強になることも多いです。

アレンジャーとしては、注文に応じて書き分けています。原曲に近い感じという注文か、まったく違う感じにしてくれという注文なのか。

——そのあたりは、すごく職人的ですよね?

天野 商業音楽は職人的発想がないとできないですから、そこで培われたのかもしれません。絶対締め切りは落とせないし、尚且つクオリティーは一定の水準を保たなくてはいけません。

©Atsushi Yokota
画像提供=東京佼成ウインドオーケストラ
取材・文
野津 如弘
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野津 如弘 指揮者

1977年、仙台生まれ。早稲田大学第一文学部卒。東京藝術大学楽理科を経てシベリウス音楽院指揮科修士課程終了。現在、常葉大学短期大学部音楽科非常勤講師。 HP http...

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