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2022.09.28

田中刑事、さらなる高みへ――町田樹振付《ショパンの夜に》で魅せた身体表現の極致

ヴェルディ《椿姫》やロッシーニ「《ウィリアム・テル》序曲」などのクラシックから、ピアソラのタンゴ、アニメ『ジョジョの奇妙な冒険』まで、多種多様な音楽を表現し、多くのファンを魅了してきた田中刑事。ジュニア時代から世界の舞台で活躍し、3度の世界選手権出場、平昌五輪出場を果たすなど、日本男子シングルを牽引してきたひとりだ。
2022年4月に競技生活に終止符を打ち、プロフィギュアスケーター、指導者という二つの道に進むことを表明。そんな田中のプロ第1作目となる町田樹振付《ショパンの夜に》について、プリンスアイスワールド横浜公演後に話を聞いた。

田中刑事
田中刑事

1994年生まれ、岡山県倉敷市出身。2011年世界ジュニア選手権銀メダル、13年全日本ジュニア優勝、2016年より全日本選手権3年連続表彰台、18年平昌オリンピック日...

取材・文
鈴木啓子
取材・文
鈴木啓子 編集者・ライター

大学卒業後、教育系出版社に入社。その後、転職情報誌、女性誌、航空専門誌、クラシック・バレエ専門誌などの編集者を経て、フリーに。現在は、音楽之友社にて「ONTOMO M...

撮影/松谷靖之
※取材は2022年5月中旬に行っています
※町田樹監修・『音楽の友』編『フィギュアスケートと音楽』(音楽之友社刊)より一部加筆修正して掲載しています

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頭で考えるよりも音楽を感じて滑る

——プロ第1作目となる《ショパンの夜に》、ショパンのピアノの旋律に乗せて田中さんが滑り始めた途端、ショーの華やかな空気が一変しました。

田中 アイスショーではいろいろな演目が披露されますが、お客さまと一緒に楽しめるようなアップテンポな曲が多いため、少しでも違う空気を作れたらいいなという思いがあったので、そのように言っていただけて嬉しいです。

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雰囲気の異なる曲が途中に入るとショー全体にメリハリが生まれるので、町田さんが振り付けてくださった《ショパンの夜に》は、そういった意味でもぴったりだったのではないかと思います。僕というよりも、作品による部分が大きかったような……(笑)。

——そんなご謙遜を(笑)。作品もさることながら、田中さんのエモーショナルな表現と洗練された美しさも素晴らしかったです。実は、4月30日と5月3日の2公演を拝見していまして、30日は「静」の中に苦悩や葛藤が、3日はより「激情」のようなものが見えた気がしたのですが、ご自身の中で何か変化があったのでしょうか?

田中 30日は公演2日目で、とにかく緊張していまして……。頭の片隅で次の振りを考えながら、いっぱいいっぱいで滑っていて、思いきり感情を込める余裕がなかったんです。脳をCPUに例えるなら、空きスペースは2、3割ぐらい(笑)。3日も余裕があったわけではなかったのですが、公演数を重ねていくうちに少しずつ脳が最適化されてきたのか、滑りながら「ここは気持ちをもう一個乗せていこう」と考えるスペースができていたように思います。

とはいえ、はじめの頃は、「振り付けを間違えないように」「曲に遅れないように」と、必死にもがいていたので、ある意味、僕自身の状態が作品の解釈的には合っていたと言えるかもしれません(笑)。

――なるほど(笑)。ちなみに演技中の“感情”について、人によっては過去の経験を思い出して感情を呼び起こすという話も聞きますが、田中さんはどのように?

田中 僕の場合は、過去の自分の経験を思い返しながら滑ることはあまりないですね。振りを入れている間や本番直前までは、あれこれ思いを馳せたり、感情を呼び起こそうとしたりするのですが、演技中はそのときの感情のおもむくままに、ただ音楽を感じて滑るというのに近いかもしれません。感情云々の前に、振付を間違えないようにとか、音楽と技のタイミングを合わせなきゃとか、とにかく考えなければいけないことが多くて……。正直、僕はそんなに器用なほうではないので、基本的にひとつのことしかできないんです(笑)。なので、まずは自分に集中して、感情はそのときどきに任せています。

素人の解釈で恐縮ですが、ピアノには楽譜がありますけど、楽譜通りに弾くのはもちろんのこと、そこに弾き手の想いやそのときの感情が加わると、演奏がだいぶ変わりますよね。フィギュアスケートも同じで、振付はありますが、そのとき、その場で感じたまま滑ってもいいのかなと、今は思っています。

ただ、映画やミュージカルなどのストーリー性のあるものは、まずはそのコンセプトにある程度倣ったうえで、そこに自分の表現したいことを乗せていくように心がけています。

もがき苦しみながらも前に進もうとする男性を演じて

——《ショパンの夜に》はいつぐらいからご準備されたのですか?

田中 昨年、町田さんが立ち上げられた「継承プロジェクト」で、かつて町田さんが滑られたエリック・サティ《ジュ・トゥ・ヴ》を滑らせていただいたときに、「この先プロとしてデビューするなら、また振付をさせてもらえないか」と、お声がけいただきました。ただ、そのときは競技に打ち込んでいたので、二つ返事で「お願いします!」と言ったものの、具体的にいつになるかは決まっていませんでした。実際に準備を始めたのは、年末の全日本選手権(2021年12月下旬)が終わったあとなので、今年の2月頃からですね。

作品のコンセプトと構成・振付は、町田さんとアトリエ・ターム(国内の芸術研究者およびアーティストで構成される匿名の制作者団体)が考えられて、僕は、そのできあがった振付を実演するところから加わりました。聞くところによると、数年前から構想があって、かなり時間がかかったそうです。

——着想から長い期間を経て完成した、珠玉の作品ですね。本作は2部構成で、ショパン『24の前奏曲 Op.28』Op.4とOp.24を使用されています。滑るうえで、意識したことやこだわったことは?

田中 実は、ショパンと楽曲の知識がほとんどなかったので、まずはショパンという音楽家を知ることから始めました。

町田さんからは、NHKで放送されていたアニメ『ピアノの森』を見ておいてと言われまして、もともとアニメが好きだったので、エピソードや知識がスッと頭に入ってきたのは助かりましたね(笑)。そこから、ショパンについて調べたり、曲を聴いたりして、どのような人生を歩んだのか、作曲の背景はどうだったのかなど、自分なりに少しずつ解釈していきました。

そして、そこに町田さんが作ってくださったコンセプト——「失敗の美学」や、前半の“苦悩する男”、後半の“そんな自分に打ち勝とうとする男”という演劇的要素も入れていきました。また、観てくださる方の目にはどう映るのか、どうしたらこの姿が伝わるのかということにもこだわりましたね。

——作品を通して、特に「これだけは伝えたい!」というものはありますか?

田中 生きていると、楽しいことや嬉しいことばかりではなく、苦しいことや悲しいこともありますよね。僕は何かを発信したり、メッセージを伝えたり、ということをあまりするタイプではないのですが、この作品で描かれるひとりの男の諦めずにもがき苦しみながら前に進もうとする姿を見て、勝手ながら誰かのエールになったら嬉しいです。

——作品を滑る前と後では、ショパンという音楽家または作品に対するイメージは変わりましたか?

田中 有名だと思われる作品をひと通り聴いて、初心者の感想になってしまうんですけど……、ピアノひとつでこんなに表現できるんだ! っていうのがいちばんの驚きです。競技者のときには、ピアノ独奏曲は滑ったことがなく、果たして自分に表現できるのだろうかという不安でしたが、音がとても多彩で、助けられた部分も大きかったです。

ピアノひとつで、これだけできるんだっていうのを改めて気づかされました。今さらですが、ショパンはすごいな、と(笑)。いつか、ほかのピアノ独奏曲にも挑戦してみたいですね。

プロだからこそもっと高みを目指したい

——シニアデビューのシーズンに演じたヴェルディ《椿姫》では、長い手脚とダイナミックな滑りで、荘厳な曲を表現し、ジュニア時代と雰囲気がガラリと変わられた印象が強くあります。今回の《ショパンの夜に》でも、何かが大きく変わられたような印象を受けました。

田中 シニアに上がったシーズンから、マッシモ・スカリ先生が振付をしてくださって、それが転機になったところが大きいと思います。音源は、基本的に先生が選んでくださいました。

また、マッシモ先生だけでなく、《『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』より ダイヤモンドは砕けない~メインテーマ~》は佐藤操先生、《映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』より Paris》は宮本賢二先生など、いろいろな先生の作品を滑らせていただいてとても楽しかったです。もしシニアに上がって引き出しの幅が広がったと感じていただけたのなら、それは先生方のおかげだと思います。

自分で楽曲を決めるのはいいと思うのですが、僕はまだ自分を客観視することが難しいため、何が合うのか、レベルアップするにはどのジャンルを選べばいいかなど、振付の先生にアドバイスをいただきながら、自分の可能性をもっと広げていきたい。また、引き出しを多く持っておくと、今後指導者になったときに役立つので、当分いろいろな先生に指導いただく予定です。

——これから、プロとして挑戦したい音楽のジャンルはありますか?

田中 今はまだ具体的にどのような音楽を滑りたいというのはないのですが、競技会ではできないことにチャレンジしていきたいという思いがあります。プロとしてお客さまに滑りお見せする以上、これまでにやったことのないジャンルの楽曲に挑戦するのもそうですし、技術的にも表現的にも、もう一段階レベルを上げていかなければいけないと感じています。そういった面で、自分はまだ足りない部分が多く、そのぶん伸びしろもあると思うので、いろいろ試行錯誤していきたいですね。

もちろん、難しい表現に挑戦していくというのはとても大切なことで、今回の《ショパンの夜に》では、本当に多くのことを学べましたし、成長もさせていただきました。プロスケーターとしてデビューして滑りたいと思っていたことと、町田さんに用意していただいたこの作品がすごく理想的だったので、いいスタートが切れたのかな、と思っています。

今は、自分で自分の枠を作らずに、何にもとらわれることなく、革新的なことにも挑戦したい気持ちもありますが、まずは自分のために滑りたい。なぜなら、それが観てくださる方々にスケートの楽しさを伝えられる方法だと思うので。

田中刑事
田中刑事

1994年生まれ、岡山県倉敷市出身。2011年世界ジュニア選手権銀メダル、13年全日本ジュニア優勝、2016年より全日本選手権3年連続表彰台、18年平昌オリンピック日...

取材・文
鈴木啓子
取材・文
鈴木啓子 編集者・ライター

大学卒業後、教育系出版社に入社。その後、転職情報誌、女性誌、航空専門誌、クラシック・バレエ専門誌などの編集者を経て、フリーに。現在は、音楽之友社にて「ONTOMO M...

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