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2023.06.23
おとぎの国のクラシック 第1話

「人魚姫」~声を失くした主人公にドヴォルザークとツェムリンスキーが書いた名曲

飯尾洋一さんが毎回一作のおとぎ話/童話を取り上げて、それに書かれた音楽作品を紹介する新連載。第1回は、現在ディズニー映画の実写リメイクも話題のアンデルセン「人魚姫」。ディズニーとはかなり違う原作のおさらいと、そこから生まれたタイプの違う「人魚姫」2曲をご紹介します。

飯尾洋一
飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

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ディズニー的ハッピーエンドとは程遠い原作版「リトル・マーメイド」

ディズニー映画の実写版『リトル・マーメイド』が話題を呼んでいる。主役アリエルを演じるのはハリー・ベイリー。アフリカ系のアリエルの誕生だ。

もとよりこの物語はヒトと海棲哺乳類の異類婚姻譚。肌の色どころか種が違う。いかに違いを乗り越えるかという今日的なテーマを内包している。

『リトル・マーメイド』の原作はアンデルセンの童話「人魚姫」。本来なら「だれもが知る物語」と言いたいところだが、ディズニーの『リトル・マーメイド』の影響力があまりに強く、もしかするとアンデルセンの童話がどんな話なのか、忘れてしまった方も多いかもしれない。

なにしろ童話「人魚姫」とディズニーの『リトル・マーメイド』ではずいぶんとストーリーが違う。アンデルセンの「人魚姫」で際立つのは「痛み」の感覚だ。

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主人公である人魚姫(6人姉妹のいちばん下の姫)は魔法使いの飲み薬により人間と同じ2本の足を手に入れる。代償は大きい。人間になると声を失うという設定は『リトル・マーメイド』と共通するが、それに加えて、足を一歩進めるごとにナイフで刺されるような激痛に耐えなければならないのだ。王子のハートを射止めるために、人魚姫は痛みをこらえながら踊る。人魚姫がそこまでするのは、王子への恋心ゆえ。しかも王子が別のだれかと結婚してしまうと人魚姫は命を失うという条件が付いている。だから必死だ。

もちろん、王子はほかのだれかと結婚することになる(童話とはそういうもの)。人魚姫は姉たちから鋭いナイフを受け取る。このナイフで王子の心臓を突けば人魚姫は人魚に戻れる。でもそうしなければ、人魚姫は泡となって消えてしまう。人魚姫は王子を殺せず、自己犠牲を選ぶ。

アイルランドの挿絵画家ハリー・クラーラが描いた海の魔女と人魚姫「わたしはお前が欲しいものを知っている」
イギリスの挿絵画家ヘレン・ストラットンが書いた『人魚姫』の挿絵より「人魚のお姉さんたちは小さな人魚姫にナイフを渡す」

アンデルセン童話で見逃せないのは、人魚は300年の寿命しか持たないのに対し、人間は不死の魂を持っているという設定だ。人魚姫は王子に恋するだけでなく、人間の永遠の魂に憧れている。だから「早く人間になりたーい」と願うのだ。最後は人魚姫が破滅するのかと思いきや、魂となって300年間善行を積めば人間と同じく神の国へ行けるのだという。そして、まるで霊体となったジェダイのように、人魚姫の魂は人間界の「よい子」たちを見守る。

これがアンデルセンの結末だ。ディズニー的なハッピーエンドからはほど遠いが、魂の救済がなされるという意味では19世紀的なハッピーエンドともいえる。

20世紀初頭に作曲された、まったく違うタイプの「人魚姫」2曲

歌えない人魚姫が主役? ドヴォルザークのオペラ《ルサルカ》

さて、人魚姫およびそのバリエーションを題材とした名曲はいくつもあるが、代表作を挙げるなら、ドヴォルザークのオペラ《ルサルカ》(1901年初演)だろう。ルサルカは海ではなく湖に住む水の精なのだが、話の骨子はアンデルセンの「人魚姫」に酷似している。ルサルカは人間の王子に恋をして、魔法使いに頼んで自身を人間の姿に変えてもらう。その代償として声を失う。もし王子に裏切られた場合は、ふたりとも破滅するという警告が与えられる。

王子はルサルカに一目ぼれして、めでたく結婚するのだが、やがて一言も口をきけないルサルカから心が離れ、外国の王女に魅了されてしまう。ルサルカは魔法使いからナイフを渡され、王子を殺せば元の姿にもどれると諭される。だが、ルサルカはナイフを捨てる。そして己の罪深さを知った王子は、それが自らに死をもたらすと承知の上でルサルカにキスを求める。償いのキスが果たされ、王子は息絶え、ルサルカは暗い水底へ沈む。アンデルセンとほぼ同展開だが、結末はより悲劇的だ。王子の贖罪というモチーフも見逃せない。

作品中もっとも有名で、しばしば単独で歌われるのが、第1幕の「月に寄せる歌」。ルサルカの恋心が歌われる。

このオペラのなにが大胆不敵かといえば、主役であるソプラノ歌手が途中から物語上で声を失って、歌えなくなるということ。声を失う話である以上、普通に考えれば人魚姫は絶対にオペラに向いていない題材。それでも《ルサルカ》はドヴォルザークの数あるオペラのなかで最大の(そして唯一の)人気作となっている。ちなみに第1幕の途中で声を失ったルサルカは、終盤でまた歌いだすので、さすがに最後まで黙りっぱなしというわけではない。

このように《ルサルカ》はダーク・ファンタジー風味のストーリーを持っているが、音楽はドヴォルザークそのもの。次から次へと流麗なメロディが紡ぎ出され、ときには民謡風だ。人懐っこい音楽なので、もっとストーリーにふさわしい壮絶な緊迫感を求める人もいるかもしれない。

ポーランドの画家ウィルトルド・プルシュコフスキ作『ルサルカたち』
ロシアのイラストレーター/デザイナーのイヴァン・ビリビンが描いた『樹の上のルサルカ』

ダークで濃密、そして救済へ ツェムリンスキーの交響詩《人魚姫》

そんな方には、きっとツェムリンスキーの交響詩《人魚姫》(1903年作曲)がイメージに合致する。こちらはアンデルセンの童話にもとづいた作品である。交響詩なのでオーケストラだけで物語が表現される。

作曲年はドヴォルザークとほとんど変わらないのだが、後期ロマン派の濃密な書法で書かれており、第1楽章の冒頭から実に不吉で、暗鬱だ。波打つようなリズム、船の航海を思わせる楽想、そしてヒロインを表現するヴァイオリンのソロが、暗いトーンで鳴り響く。これはダークサイド版の「シェエラザード」なのだ。曲はワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの影響をにじませながら進む。第3楽章は「苦悩に満ちた表現で、広大に」。ここでツェムリンスキーの筆は冴えに冴える。愛が破滅をもたらすが、最後に訪れるのは救済だ。いささか教訓的なアンデルセンを振り切って、このうえなく豊麗な愛の音楽が奏でられる。

「挿絵の黄金時代」と呼ばれた20世紀初頭のイギリスで活躍したフランス人画家エドマンド・デュラックの「人魚姫」
飯尾洋一
飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

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