レポート
2025.10.16
室内楽奏者としても名高い世界的ピアニストの10年

アンスネスが立ち上げたローセンダール室内楽フェスティヴァルが閉幕

今夏、ノルウェー西部の自然豊かな街、ローセンダールで開催された音楽祭をレポート! 主宰するピアニストのアンスネスが語る室内楽、そしてノルウェーの音楽とは?
(※本記事では、ノルウェー語の発音に近い「ローセンダール」の表記にしています)

取材・文
安保美希
取材・文
安保美希 編集者・ライター

音高を卒業後、北欧ノルウェーとフィンランドの音大でピアノを学び、厳しい寒さと日照時間の短い冬に強くなって帰国。最近はもっぱらオルガンにはまって足鍵盤に奮闘中。フルコン...

photo by Liv Øvland

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毎年8月、ノルウェーのローセンダールで開催される「ローセンダール室内楽フェスティヴァル」は、ピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスによって2016年に創設された音楽祭。いつか行きたいと思っていた矢先、「10年の節目を迎える2025年で幕を閉じる」と聞き、ついにフィヨルドの奥地へ向かう決心をした。

ノルウェー西海岸の小さな町ローセンダール

音楽祭が生まれた場所に立ち返る

最終回となる2025年は、5日間で11公演、4つのトーク&レクチャーが開催された。今年のテーマは10年の締めくくりにふさわしく、「グリーグ in ハルダンゲル」。フェスティヴァルの開催地であるハルダンゲル地方と縁の深い作曲家、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)とガイル・トヴァイト(1908-1981)に焦点を当てる。

音楽監督のアンスネスに話を聞いた。

「最後の年に、音楽祭のルーツであるハルダンゲルの音楽に立ち返りたいと思いました。ハルダンゲルには豊かな民謡の伝統があり、グリーグやトヴァイトの作品には、民謡の要素が明確に反映されています」

レイフ・オヴェ・アンスネス
ニューヨーク・タイムズはアンスネスを「威厳ある優美さ、力強さ、洞察力を有するピアニスト」と評し、ウォール・ストリート・ジャーナルは「同世代で最も才能ある音楽家の一人」と評した。彼はその強力なテクニックと綿密な解釈で国際的な名声を獲得。世界最高クラスのホールでリサイタルを行い、一流オーケストラと共演している。熱心な室内楽奏者でもあり、ローゼンダール室内楽音楽祭の創設者として監督を務めるほか、リソール室内楽音楽祭の共同監督を20年近く務めた。2013年7月にはグラモフォン誌の「殿堂入り」を果たし、2016年5月にはジュリアード音楽院より名誉博士号を授与された。今シーズンは、ソニー・クラシカルより「ショパン:バラード全曲&夜想曲」をリリース。ベルゲン・フィルのシーズン開幕に登場して話題をさらった後、様々なオーケストラと共演し、モーツァルトの協奏曲では、ミュンヘン・フィル、ブタペスト祝祭管との共演やマーラー・チェンバー・オーケストラとのツアーを行う。本ツアーは、彼が同オーケストラとともに新しく立ち上げ、今後もシーズンをまたいで行う大型連続企画、「モーツァルト・モメンタム 1785/86」の開幕を告げる場ともなる。リサイタルでは、パリ、エッセン、バルセロナにてバリトンのゲルネとシューベルト歌曲を演奏し、色彩感に富んだソロ・プログラムで、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、フィレンツェ、モスクワ、サンクトペテルブルグや北米各地を訪れる。2015年に完結した野心的な偉業「ベートーヴェンへの旅」では、この巨匠の協奏曲を中心に、4シーズンに亘って27か国108都市で合計230回以上の生演奏を行った。同プロジェクトは、ドキュメンタリーDVDが制作され、3巻からなるCDシリーズも大成功を収めた。 彼はソニー・クラシカルと独占的にレコーディングを行っている。さらにはEMIクラシックスから30枚以上のディスクをリリース。グラミー賞には8回ノミネートされ、グラモフォン賞6回を含む多くの国際的な賞を受賞している。またノルウェー王国聖オラフ勲章コマンダーほか、数々の栄誉に輝いている。
1970年ノルウェーのカルメイ生まれ。ベルゲン音楽院のチェコ人教授イルジ・フリンカに学び、ベルギー人ピアノ教師ジャック・ドゥ・ティエージからも貴重なアドバイスを受けた。現在はパートナーと3人の子供とともにベルゲン在住。

オープニング・コンサートの1曲目は、アンスネスによる演奏で、グリーグの《19のノルウェー民謡》Op.66より第1曲〈牛を呼ぶ声〉。

[ライプツィヒ]と題した公演では、グリーグ博物館「トロルハウゲン」元館長のアーリング・ダールJr.とアンスネスのトークセッションで始まり、グリーグが15歳から19歳まで学んだライプツィヒ時代と、グリーグの歌曲に焦点が当てられた。

アーリング・ダール Jr.(右)とアンスネス

「私にとって、もっとも感情の深みに達するグリーグの音楽は、歌曲です。彼の歌曲にはシューベルトやシューマンのリートのような魅力があります。
《ヴィニエの詩による12の歌》Op.33、グリーグ歌曲の最高傑作といわれる《山の娘》Op.67は、もっとノルウェー国外で知られてほしい作品です」

グリーグがこの世を去った翌年に生まれたトヴァイトは、生涯の大半をノールハイムスンという小さな村で過ごした。ハルダンゲル各地の民謡を採集することに没頭し、その才能はノルウェー音楽史上最高ともいわれるが、完璧主義の性格から楽譜を出版せずに自宅に抱えていたという。ある日、自宅の農場が全焼し、書き上げた作品の多くが灰となるが、自筆譜の修復や書き起こし作業が行われ、今に受け継がれている。

奇跡的に蘇った現存するトヴァイト作品を広めることに尽力してきたアンスネスは、ピアノ・ソナタ第29番《エテーレ》を今回取り上げた。

サプライズでトヴァイトの娘ギリさんが登壇

「トヴァイトは30~40曲のピアノ・ソナタを書きましたが、火災のあと残ったソナタは1曲だけ。彼がもっとも愛したソナタ《エテーレ》は、非常に色彩豊かで、ノルウェーの音楽界において唯一無二の存在。ノルウェーのピアノ作品で、これほど壮大で野心を秘めた音楽はありません」

ローセンダールとの出会い

「私自身、ローセンダールとの長い歴史があります。30年前のことになりますが、毎年夏にコンサートでローセンダールを訪れていて、フェスティヴァルを開きたいと思ったのは自然な流れでした」

会場の教会からハルダンゲル・フィヨルドをのぞむ

「ローセンダールの豊かな環境は、音楽の豊かさを実感できる場所です。この10年間、その喜びを感じてきましたが、音楽祭の運営は年間を通しての取り組みであり、多大な時間と労力を要してきたのも事実です。10年という区切りを前に、今後のことを真剣に悩みました。

ローセンダールには毎年、家族も滞在しています。リハーサルや本番以外にも監督としての役割があるので忙しいなかでも、食事の時間は一緒に過ごすようにしています」

北欧ノルウェー出身のアンスネスは、世界的ピアニストとしてワークライフバランスをどう実践しているのか。

「以前は、一年のほとんど家を空けて年間100公演以上をこなす生活を10年、15年と続けていました。そして父親になったとき、私は40歳でした。このままでは家にいる時間がまったくなくなると気づいて、それ以来、毎年7月は必ず休暇を取って家族と過ごしています(もちろん楽器の練習はしますが)。私にとって、常に休みなくコンサートを続けることが一番重要ではありません。休息をとることも大切なのです」

2025年4月にリリースされたアルバム『リスト:十字架の道行&コンソレーション』(ソニーミュージック)で、アンスネスはピアノ独奏付き合唱曲《十字架の道行》をノルウェー・ソリスト合唱団と一緒に録音している。この曲は、2024年のローセンダールで最終公演の最後の曲として演奏された。

「リストは実に神秘的で現代的。ノルウェー・ソリスト合唱団との共演はローセンダールが初めてでした。音楽祭とレコーディングという別々の活動がつながっていく。人生は不思議な巡り合わせが起きるものです」

アンスネス&ノルウェー・ソリスト合唱団『リスト:十字架の道行&コンソレーション』

新境地を拓く

ローセンダール室内楽フェスティヴァルは、ジャズ・サクソフォニスト、作曲家のマリウス・ネセットに《Who We Are》というアンサンブル作品を委嘱している。2022年の最終公演でアンスネスとネセットらによってお披露目されたこの作品が、今年の「オスロ室内楽フェスティヴァル」で再演されるというので、旅の最終地は首都オスロに決定した。

ジャズとクラシックといった既存の枠組みに捉われないこの作品は、限りなく即興のように聴こえながらも、緻密に構成されていた。アンスネスがジャンルを横断するような作品に取り組むことはこのプロジェクトが初めてで、2024年にリリースされたアルバム『Who We Are』(Simax)のリリースは話題となった(オスロにあるECMのレインボースタジオで録音)。

©️Lars Opstad / OCMF
ルイーサ・タック(左)、マリウス・ネセット(右)
©️Lars Opstad / OCMF

室内楽からみる音楽の本質

今回の旅は、アンスネスが室内楽に取り組む姿を間近で見ることができた。彼にとって室内楽とはどんな存在なのだろう。

「室内楽は、音楽を作るうえでもっとも自然な方法です。昔は友人同士が集って一緒に作るようなものだったのが、最近はなんだか特別なカテゴリーのような側面が強調されています。家に人を招いて、家庭や親しいコミュニティで演奏する。きっとそれが音楽の本質です。

オーケストラと共演するときも本質は同じで、室内楽と同じ感覚をもつべきです。私はソロと室内楽、大編成を区別していません。そして歌曲は、呼吸や流れを学ぶうえで非常に重要です。歌うことはピアニストにとって、もっとも難しいことの一つと言えるでしょう」

左からアンスネス、ユーハン・ダーレネ、ユリア・ハーゲン
ティモシー・リダウト(左)
ユリアンナ・アヴデーエワ

ローセンダール室内フェスティヴァルは惜しまれつつ幕を閉じるが、2026年からはコンサート・シリーズの形で継続し、アンスネスは音楽顧問として関わっていくという。

最後に日本のファンに向けてのメッセージを。

「日本でのコンサートは本当に喜びにあふれています。聴衆は音楽に対して知的好奇心があり、その集中力の高さに驚かされます。日本の愛すべき点は挙げきれませんが、人々の社会性や細やかな気配りに感心します。日本は何度も訪れていますが、毎回いつも特別な時間になります。10月24日のN響公演でマエストロ・ブロムシュテットとご一緒できることを心から楽しみにしています」

取材・文
安保美希
取材・文
安保美希 編集者・ライター

音高を卒業後、北欧ノルウェーとフィンランドの音大でピアノを学び、厳しい寒さと日照時間の短い冬に強くなって帰国。最近はもっぱらオルガンにはまって足鍵盤に奮闘中。フルコン...

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