ショパンが心を解き放ち、受け容れてくれた〜『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』
フランスを代表する劇作家エリック=エマニュエル・シュミットが、自身の体験をもとに書いた半自伝的小説『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』(船越清佳 訳/音楽之友社)。プロ・アマ問わず、数多くのピアニストを取材している飯田有抄さんが、本書で語られる真髄を紹介する。
1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...
ガツンと響いた1行があった。
しばらく目を閉じて、その言葉が全身に満ちるのを感じた。
たぶんこれで、私はまたピアノが弾ける。ショパンを弾きたい。
そう自然に思いました。この本に出会えてよかった。
ユーモアや美しさ、説得力にあふれた言葉たち
生きている間に、さまざまなノイズが耳に入り、人目を気にしすぎたり、自我が膨張したり、時間に追われたり、何かが苦しくなったりして、好きだったはずのピアノにアプローチしにくくなった、すべての人が読むべき書。
『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』
タイトルだけから想像すると、歴史ロマンスにも思えてしまう。
原題は『Madame Pylinska et le secret de Chopin』。
「マダム・ピリンスカとショパン」の「秘密」なのではなくて、
「マダム・ピリンスカ」と「ショパンの秘密」なのだ。読了して納得する。
予備知識なく読んでいただきたい、というのが正直なところ。慎重に筆を進めよう。陳腐な言葉で埋めてしまわないように……。
これはフランスを代表する劇作家エリック=エマニュエル・シュミットの半自伝的小説。
9歳の「ぼく」がピアノに惹きつけられる出来事から始まり(すでにそのシーンから圧巻であるが)、物語の主軸となるのは、20歳の青年となった主人公がパリで師事するピアノ教師マダム・ピリンスカと交わしたやりとりである。
亡命ポーランド人であるマダムの教えは、ショパンの音楽に向き合おうとする者の心理的な態度に集中している。それはときに大胆で、ときにはほとんどムチャクチャで、ときに強引で、ときにスピリチュアル。
リストとショパンを対比させるとき、彼女はほとんどリストをディスっている(苦笑)。有名オペラ歌手も、苦笑いするしかないほどコテンパンにディスる。しかし、言いすぎたと我にかえり、「もう黙った方がいいわ、神様、お慈悲を!」という口癖で締めくくるのがお約束。読み進めていくと、マダム・ピリンスカのチャーミングな人柄にも惹かれていく。痛快だ! と感じるられる場面も多い。
厳しくも、愛に満ち、嘘のない彼女の言葉に、主人公は抗うこともできず、自然美や人間の感情の機微、歌うということ、恋ではなく愛、そして「ショパンの秘密」を体感することになるのだ。
翻訳はフランス在住のピアニストで音楽ライターの船越清佳さん。本作の戯曲版をシュミット自身が一人舞台で演じたドラマを鑑賞し、「この宝石のような作品を自分の手で訳したい思いに駆り立てられ」たという(訳者あとがきより)。極めて自然で、説得力にあふれ、ユーモアを伝え、なにより美しい日本語で、この小説の真髄を見事に伝え切っている(と思う。原語のフランス語版は私には読めないけれど、きっとそのはずだ!)。
自由なアマチュアリズムの精神が奇跡を起こす
広く読まれて欲しい本だし、感じ方や捉え方も十人十色だろう。
ここでは私が読了後に(1時間ほど感動でぼ〜〜っとしてから)、自然に頭に浮かんだことを記しておこう。
究極のアマチュアリズムの素晴らしさ。これだ。
いわゆる“プロ”のピアニストたちの演奏でも、ショッキングなまでに魂を震わせてくれるような深い感動を与えられることは、実は決して多くない。そうした希なる演奏は、もはやこの世ではない、どこか別の次元とのつながりを感じさせてくれるが、それはほぼ魔法のようなもの。「○月○日午後7時から○○ホールで」カチっとスイッチを入れて、いつでもその次元へと必ず聴衆を誘(いざな)ってくれるピアニストがいたら、ほとんど魔法使いというか、巫覡(ふげき)レベルである(で、もちろん、存在する)。
こういったら問題発言かもしれないが、覚悟を決めて言ってしまうと、“プロ”のピアニストでも、そこを目指しているうちに、さまざまな現実のニーズに消費され、疲れ果て、何かを忘れ、しまいには技術はあるけれども魔法がまったく使えない、みたいな状況に陥っている場合がある。
そして、もっとその手前では、“プロ”を目指す(目指させられる)人たちが、技術的な問題やら他者からのノイズで、もうだめだ……と脱落してしまい、思いっきりピアノから離れることもある。
音楽から、離れてしまうのだ。
ほんとうに自由なアマチュアにはしかし、音楽の核心に入り込める瞬間が、人生の中で、いきなり訪れることがある。カチッとスイッチこそ入れられず、いつでも魔法が使えるわけではない。そこはプロとちがって、まったくコントロールは効かない。生涯に1回こっきりかもしれない。しかし、あらゆる邪念から解き放たれ、現実的な何かから完全に自由なアマチュアリズムの精神が、その瞬間を奇跡的に与えてくれるのだ。
本書のクライマックスは、まさにその場面を描いている。あまりに美しい。
そして、音楽を心から愛する人たちに、そっと勇気を与えてくれるように思えてならない。
たびたび読み返したい一冊だ。
パリ高等師範学校で哲学を学ぶエリックは、子どものころ、ショパンに魅了されてピアノを始めたが、未だ思い通りの演奏ができずにいた。なんとしてもショパンの音楽の秘密を解き明かしたいと、亡命ポーランド人、マダム・ピリンスカからレッスンを受けることに。ところが、与えられる課題は奇妙なものばかり。違和感を覚え、反発しつつも、やがてその指導が人生そのものを学ぶ扉であることに気づいていく……。
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