ブライアン・イーノのインスタレーション展 強制も説得もされないアートの心地よさ
音と光がシンクロしながら絶え間なく変化し続ける空間芸術「ジェネレーティヴ・アート」を提唱し、ヴィジュアル・アートに革命をもたらしたブライアン・イーノによる「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」が開催されています。アンビエント・ミュージックの創始者であり、デヴィッド・ボウイやU2を手掛けた大プロデューサー……と多様な顔を持つ彼の、コロナ禍以降初となる大規模なインスタレーション展。その空間とその時にしか体験できないアートを体感するために京都を訪れました。
1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...
ブライアン・イーノの軌跡
ブライアン・イーノをどう思うかは、おそらく世代によってまったく受け取り方が違う。
ある世代にとっては、ロキシー・ミュージックの初期メンバーであり、一番ギンギラギンな衣裳を着て、眉を剃って化粧して、後ろの方でシンセサイザーを操作し、腰をくねらせタンバリンを叩いていた、一番ヤバそうな雰囲気の奴だった。
その後は、不思議な脱力系のボーカルが印象的なソロ・アルバムを経て、モワーッとした雲のような音楽を作るようになっていき、いわゆる「アンビエント・ミュージック」の創始者として、カリスマ的な地位を築いていく。
ピアニストのハロルド・バッドや、元キング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップなど、他のミュージシャンとのコラボレーションにも独自のセンスを発揮し、その一方ではトーキング・ヘッズやU2やデヴィッド・ボウイらのアルバムにもかかわった、ロック界の黒幕的なプロデューサーでもあった。
さらにはWindows95の起動音をマイクロソフトから依頼されたことにも象徴されるように、音楽という範疇を超えたサウンドデザイナーでもあり、映像関連の作品も数多い。
音と映像が絶え間なく変化し続ける5つのインスタレーション
そんな多様な顔を持つブライアン・イーノの展覧会「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」が京都中央信用金庫・旧厚生センター(8月21日まで開催中、休館日無し、11時~21時)に足を運んでみた。
音と映像が絶え間なく変化し続けるインスタレーションの展示が、大きく分けて5つ。通常の美術展に比べると、たった5つ?と思うかもしれないが、一つ一つの作品をじっくり時間をかけて体験する趣向になっているので、これでも相当な満足感があった。
たとえば「The Ship」という部屋。靴を脱いで中に入ると、真っ暗な空間を手さぐりで移動しなければならない。薄明りに少しずつ目が慣れてくると、暗がりの中に思い思いの姿勢で座り込んでいる人々の姿がわかってくる。
「The Ship」とは「タイタニック号の沈没、第一次世界大戦、そして傲慢さとパラノイアの間を揺れ動き続ける人間をコンセプトの出発点とした作品」とのことだが、暗がりの中にしゃがみこんでいる人々の中に混じって、各所に配置されたスピーカーから海のように流れ出るアンビエント音楽に耳を傾ける、その時間が心地よかった。
「Face to Face」という部屋では、3人の人物の顔の画像が、特殊なソフトウェアを使うことにより、じわりじわりといつの間にか別の人の顔へと変化していく、その過程を眺めるというもの。無数の顔が変化していく不思議な時間だ。
「Light Boxes」は静かな作品。LED技術を駆使して、色彩の組み合わせによって作られた光のボックスが、非常にゆっくりと変化して異なる色になっていく。インテリアのようでもあり、とても落ち着く、休憩所のような部屋だった。
最も大きな部屋に作られた「77 Million Paintings」は、イーノが視覚的音楽として着想した、万華鏡のような色と形の無限の変化を、ゆったりとしたソファに座りながら、アンビエント音楽と共に楽しむ趣向。いつまでも見ていて飽きない、これが最もダイナミックな作品であった。
ただそこに在る作品を自由に味わうことの豊かさ
展示全体を見終わって思ったのは、ある一つのアート作品を味わうためには、しっかりと一定以上の時間をその作品とともに過ごし、体験し、思いを巡らし、日頃とは異なる次元の時間と空間に身体全体をなじませていく、そのゆとりが大事なのだということだった。
ブライアン・イーノにとって、音楽と美術は、はじまりのときから、一緒だった。
「絵画と音楽はわたしのなかで常に絡まり合ってきました。わたしが媒体としての光であそびはじめたのは音を相手にあそびはじめたのとほぼおなじ頃、10代だったときです。そこからの年月の間に作ったものを振り返るに、どうやらわたしは音楽のスピードを落としてもっと絵画に近づけ、絵画には活気と動きを吹き込んでより音楽に近くなるようにしていたようです……そのふたつの作業が中間地点で出会い融合してくれることを祈りつつ」(カタログ冊子序文より)
この展示で心地よく感じられたのは、それぞれの作品には始まりも終わりもなく、いつ入場してもいつ退場しても構わない、閉じられていない。どうやら反復もループもなく、どこまでも変わっていくばかり。作品全体を完全に把握することなど、誰にもできない。そんな特権など誰も持たない。その自由の豊かさだった。
ブライアン・イーノの作品は、何も強制してこないし、説得しようともしない。作品はただそこに在って、受け取る側が想像力を膨らませるスペースを提供してくれる。
展示を観終わって、とても清々しい気分で会場を後にした。これだけを目的に、京都まで足を運ぶ価値は十分にあると言えるだろう。
音楽と美術——この二つのジャンルが、専門化され分業化された別々の世界の出来事では決してなく、インスピレーションにおいて一心同体であるという見事な事例を、がつがつと所有するのではなく、ここではおおらかに身を委ねるように体験できるのだから。
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