レポート
2019.10.18
ドイツ音楽紀行[前編]クララ・シューマン生誕200周年を祝って

クララ&ロベルト・シューマン、時代を先ゆく夫妻像——新婚を過ごしたライプツィヒを訪れて

2019年はクララ・シューマンの生誕200周年。クララの地元ドイツ・ライプツィヒでは、お祝いのイベントやコンサートが誕生日9月13日を中心に開催されていた。図らずも、その当日に現地を訪れたベルリン在住のジャーナリスト、中村真人さんがレポート!

旅した人
中村真人
旅した人
中村真人 音楽ジャーナリスト、フリーライター

1975年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2000年よりベルリン在住。著書に『新装改訂版 ベルリンガイドブック 歩いて見つけるベルリンとポツダム...

上写真提供:ドイツ観光局
取材写真:中村真人
協賛:ドイツ観光局

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クララ・シューマンが25年間を過ごしたライプツィヒの約60の機関(ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ・バレエ、MDRラジオ合唱団、バッハ博物館、シューマン・ハウス、ヤングワールド劇場など)が、生誕200周年の170以上のイベントに用いているモチーフ。結婚式のブーケなどに使われ、ロベルトが歌曲のタイトルにもしているミルテの花や蝶があしらわれている。https://clara19.leipzig.de/

クララ・シューマン生誕200周年を祝うライプツィヒの街

ライプツィヒのインゼル通りに入ると、子どもたちの賑やかな声が聞こえてきた。道の両側には、いかにも地元の人が手作りで用意したという感じの屋台が並ぶ。この界隈は古くから書籍や楽譜などの出版業が栄えたところ。今年創業300周年を迎えるブライトコプフ&ヘルテル社の出店も見かけた。

インゼル通りのお祭りの様子。ブライトコプフ&ヘルテル社の出店も見える。

この通りの18番地に、ロベルト&クララ・シューマン夫妻が結婚後最初に住んだ住居、通称シューマン・ハウスが今も残る。偶然にも、私がライプツィヒを訪ねた前日はクララ(1819〜96)の生誕200周年の誕生日だった。そしてこの日、地元の人たちは小さなお祭りでシューマン・ハウスのリニューアルオープンを祝ったのである。

シューマン・ハウス正面。1838年に建てられた古典様式の建物の中にある。

不思議な巡り合わせにやや興奮しながら2階に上がると、シューマン・ハウス広報担当のフランツィスカ・フランケ=ケルンさんが迎えてくれた。シューマンといえば、日本では多くの人がまずロベルトを思い浮かべるだろう。だが、ドイツではピアニスト、さらに作曲家として名声を成したクララも、いわば活躍する女性の先駆けとして幅広く知られる存在だ。

ユーロが導入される前、100マルク紙幣の肖像に使われていた影響も大きい。そのため、今回のリニューアルでは、シューマン研究家のベアトリクス・ボルヒャルト教授監修のもと、世界でも珍しい「芸術家夫妻の博物館」として再編されることになったという。

クララ・シューマン(1819〜96/1838年のリトグラフ)とロベルト・シューマン(1810〜56/1839年のリトグラフ)。ロベルトはクララの父、フリードリヒ・ヴィークにピアノを師事し、クララと出会うが、ヴィークからは結婚を反対され、執拗な嫌がらせを受けた末、裁判沙汰にまでなっている。

新婚の頃のシューマン夫妻

「1840年9月に結婚したシューマン夫妻は、最初の4年間をこの家で過ごしました。この時期、彼らは日記を交代で綴っており、《愛の春》という共作の歌曲集も書くなど、幸福だった生活の様子がうかがえます。ロベルトの手からは、交響曲第1番《春》、歌曲集《詩人の恋》、ピアノ五重奏曲といった名作がこの場所から生まれました」とフランケ=ケルンさんが説明してくれた。

ドイツの詩人リュッケルトの詩によるロベルトの9つの歌に、クララの3曲を加えた歌曲集《愛の春》

最初に入った部屋でまず目についたのが、クララ・シューマンの大きな手を模した木製のインスタレーション。それに触れるとクララ作の音楽が突然流れてきて、ドキッとしてしまう。この部屋では、彼女がピアノ教師だった父親のフリードリヒ・ヴィークから教えを受けて、ピアニストとして大成するまでの教育の過程が紹介される。

クララ・シューマンの手を模したインスタレーション。原寸大の石膏像を元に作られた。
クララが受けたピアノ教育の過程が紹介された部屋。彼女は母マリアンネに最初のレッスンを受けたあと、父フリードリヒのもとで本格的にピアノを学ぶようになる。

その隣のシューマン・ホールは、当時の面影を直に偲べる空間だ。クララのピアノの練習室だったのみならず、夫妻はこの部屋でメンデルスゾーンやリスト、さらにはパリから訪問したベルリオーズといった錚々たる面々を迎え入れた。

もしもタイムマシーンがあれば、1840年代前半のライプツィヒに潜り込んでみたいと心底思う。何しろ当時のゲヴァントハウス管弦楽団の楽長はメンデルスゾーンであり、彼がクララとコンサートで共演したり、この家にふらっと寄って自作を披露したりということが普通に行なわれていたのだから。このホールでは、今後も定期的に室内楽のコンサートが催されるという。

サロンの雰囲気そのままのシューマン・ホール。
ライプツィヒで聴きたい! ゲヴァントハウス管弦楽団

1743年、世界で初めて市民階級による自主運営オーケストラとして発足したゲヴァントハウス管弦楽団。織物を扱う建物の中にホールが造られたことから、「織物会館」意味する言葉がオーケストラの名称に定着した。

 

1835年にカペルマイスター(首席指揮者)に就任したフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの下、飛躍的に実力を向上させた。その後、フルトヴェングラー、ワルター、マズア、ブロムシュテットら卓越した指揮者が歴任。現在のカペルマイスターは、ラトヴィア出身のアンドリス・ネルソンス。

 


2018年2月、ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター就任演奏会を指揮したアンドリス・ネルソンス。

 

1981年にオープンし、素晴らしい音響効果を誇る拠点、3代目のゲヴァントハウスにて、1シーズンに70近くの「グランド・コンサート」が開催される。


© Jens Gerber, 2015


© Jens Gerber, 2017

 

9月12、13日に行なわれたクララ・シューマン生誕200周年の記念コンサートでは、ネルソンス指揮によりクララのピアノ協奏曲やロベルト・シューマンの交響曲第1番《春》が演奏された。

 

また、1693年に創設されたヨーロッパ最古の市民歌劇場の一つ、ライプツィヒ歌劇場も、ゲヴァントハウス管弦楽団がオーケストラピットに入ることで知られている。音楽監督ウルフ・シルマーのもと、ライプツィヒ出身のワーグナーのオペラにはとりわけ力を入れており、毎年5月にワーグナー・フェストターゲを開催。2022年にはワーグナーの全13のオペラを一挙上演する画期的なフェスティバル「WAGNER 22」を開催する予定だ。

 


© Nijhof Klein / Oper Leipzig, 2015

動画:筆者が観たライプツィヒ歌劇場のオペラ《愛の妙薬》新演出

時代を先んじた夫婦の在り方

よく知られるように、ロベルトとクララは、彼女の父親の大反対により、最終的に裁判沙汰になる難儀の末に結婚した。ロベルト・シューマンの人生において、結婚後ここで過ごした最初の4年間は間違いなく幸福な時期に数えられるが、それでも2人の間には目に見えない「緊張の瞬間」があったという。

当時、世間では作曲家ロベルトよりピアニスト・クララのほうが、ずっと有名で、高い名声を勝ち得ていた。夫妻に次々と子どもが生まれたあとも、クララは生活のために演奏活動を精力的にこなさなければならなかった。

その代表的な例が、ホールの隣に展示されたデンマーク(1842年)とロシア(1844年)への演奏旅行だろう。ロベルトも同行したが、当然主役はクララ。彼女は5ヶ月にもおよぶロシア演奏旅行で2338ターラーのギャラを得たが、これはこの住居の18年分の家賃を払える額だったそうだ。

展示では、1842年のコペンハーゲンへの演奏旅行の道のりが青、1844年のサンクトペテルブルクやモスクワへの道のりがピンクで示されている。

しかし、当時の男性中心の社会にあって、ロベルトは「人はすべてを所有することなどできない。大切なのは幸せを永続きさせることだ」と夫婦間の「格差」をあまり気にしなかったらしい。

クララはピアノの練習のみならず、子育てにも奔走したが(彼女は最終的に8人の子の母になる)、ロベルトが作曲をする時間は、ピアノを弾かないようにするなどの配慮をしていた。シューマン・ハウスの中にいると、ある意味で時代を先んじたこの夫婦の普段の暮らしぶりが垣間見えてくる。

小学校と共存するコンセプト

この博物館がもう一つユニークなのは、建物のほかの部分がクララ・シューマンを冠した私立小学校として使われていることだ。そのため、平日の開館時間は授業後の午後に限定される。ここに来るまでに多くの子どもに出会ったり、博物館のコンセプトに教育が取り込まれていたりするのはそのためなのだった。

偉人の業績をありがたく拝受するというよりは、シューマン夫妻が今ここにいたらきっと喜ぶだろうなと感じさせる、風通しのいいミュージアムが誕生した。

子どもも楽しめる工夫が多くなされているシューマン・ハウス。ロベルトとクララの作品を鑑賞できる部屋もある。
小学校の施設も兼ねたシューマン・ハウスの入り口。壁にはロベルトとクララが結婚するまでの軌跡が紹介されている。

引っ越したドレスデンでの足跡

翌日、私は同じザクセン州の古都ドレスデンに行った。たまたまそこで泊まったホテルが、ノイマルクト広場に面したシュタイゲンベルガー ホテル・デ・ザクセ

筆者が宿泊したシュタイゲンベルガー ホテル・デ・ザクセ。ここから徒歩10分ほどでドレスデン国立歌劇場(ゼンパー・オーパー)にも行ける。

シューマン夫妻がライプツィヒからドレスデンに引っ越した翌年の1845年12月4日、このホテル内の室内楽ホールで、ロベルトの有名なピアノ協奏曲が初演されたのである。そのときのソリストはもちろんクララ。

ホテル自体は2006年に再建されたため、オリジナルの部屋が残っているわけではないのだが、私の頭の中ではあのイ短調の協奏曲が2人の合作のように鳴り響いた。

ロベルト・シューマン唯一のピアノ協奏曲 イ短調

シューマン夫妻のレリーフ(シューマン・ハウスにて)

旅した人
中村真人
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中村真人 音楽ジャーナリスト、フリーライター

1975年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2000年よりベルリン在住。著書に『新装改訂版 ベルリンガイドブック 歩いて見つけるベルリンとポツダム...

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