レポート
2023.03.16
サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団・合唱団、次期音楽監督就任会見レポート

ダニエル・ハーディング——より良き指揮者になるためにオススメな「パイロット」という職業

17歳でデビュー、若干21歳でベルリン・フィルを指揮するなど、まさに「天才指揮者」を地で行くダニエル・ハーディング。2019年には突然、エールフランスのパイロットになり、現在も指揮者とパイロットの2足の草鞋を履く彼がこのたび、イタリアの名門オーケストラ、サンタ・チェチーリア国立アカデミーの音楽監督への就任が決定、記者会見が開かれました。
彼以外には経験し得ない、「パイロットが指揮活動に与えた影響」などを中心に、井内美香さんがレポートしてくれました。

取材・文
井内美香
取材・文
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

©Musacchio,Ianniello & Pasqualini

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17歳から活躍する天才指揮者が40代でエアバスのパイロットに

漫画「のだめカンタービレ」やテレビドラマ「リバーサルオーケストラ」など、クラシックの世界を題材にした作品でよく見られるのは、ヒロインは天才的な楽器奏者、男性主役は上から目線だけれど実は心優しいイケメン指揮者、という設定です。

指揮者は音楽的な才能がすば抜けており、オーケストラを指導する立場であることも多いのでオレ様に見えるけれど、本当は皆のことを考えているピュアな人……というのはドラマの作り事かもしれませんが、現実の指揮者も、やはり選ばれし者であることは間違いないでしょう。

英国出身のダニエル・ハーディングは、指揮者の中でも最高峰の、クラシック音楽界でもっとも有名なマエストロの一人です。17歳で指揮者になり、当時の世界のトップ指揮者、サイモン・ラトルとクラウディオ・アバドに認められて以来、今日までずっと第一線で指揮をしています。

©Musacchio, Ianniello & Pasqualini
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ハーディングのユニークなところは、44歳になった2019年に、指揮者の活動を一年間停止してプロフェッショナルなパイロットの資格取得を目指したことです。

そのあとで世界がコロナ禍になってしまい計画の遅延はあったものの、今では、年に26週間エアフランス航空のA320エアバスのパイロットとして飛び、また指揮者の活動も再開して年に26週間、音楽活動をしているそうです(2021年末のインタビューより)。

ローマの名門オーケストラの次期音楽監督に就任が決定

2023年3月、イタリアのトップ・オーケストラ、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団・合唱団は、ダニエル・ハーディングが2024年10月から5年間の予定で、次期音楽監督に就任することを発表しました。

2005年からサンタ・チェチーリアを率いてきたアントニオ・パッパーノ音楽監督は2024年から名誉指揮者となります。

イタリアらしい陽気で表現力豊かなサンタ・チェチーリア管と、グスタフ・マーラーの交響曲などで知られるハーディングの組み合わせに意表をつかれた人もいたようですが、実は両者は25年前から共演を重ねる間柄。

ローマで開催された記者会見に颯爽と現れたハーディングは英国人らしいジェントルマンで、ちょっと自虐的なジョークを言っては一人でくすくす笑っている彼を見ていると、同じ気質の人同士よりもかえって良い組み合わせなのでは? という気もしてきます。

サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団・合唱団の定期演奏会のシーズンは、イタリアらしくオペラの演奏会形式で開けることが恒例だそうで、ハーディング就任後最初のシーズンもプッチーニ《トスカ》を演奏する予定です。

2024年はプッチーニ没後100年にあたり、ローマを舞台にした《トスカ》を指揮してのお披露目コンサートはきっと大きな注目を集めることでしょう(ドイツ・グラモフォンが録音予定)。

2015年12月、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団を指揮するハーディング
©Musacchio, Ianniello & Pasqualini

パイロット職を経て、より良い指揮者になれた

ハーディングの挨拶が終わり質疑応答になった時に、一人の記者がこう質問しました。「パイロットというもう一つの仕事は、指揮者の仕事にどう影響していますか?」

マエストロは「私の家族にその質問をしたら、その二つはバランスが取れていない、と言うでしょうね」と笑いながらも、「パイロットの仕事は私の人生のとても重要な位置を占めています。同僚の指揮者たち、そしていわゆる”権威ある”といわれる類の特殊な仕事をしている人々には、この経験は本当にお勧めです。年のうち数ヶ月を、あなたがまったく重要人物ではない、という環境で仕事をするのはとても健康的ですから」と語ります。

「私はパイロットの仕事に必要な頭脳的、技能的チャレンジ、人間的なチャレンジゆえにこの仕事を愛しています。17歳で指揮を始めて、かれこれ30年間指揮者として活動していますが、このもう一つの仕事を始めたことによって、人間的に、指揮者の仕事だけでは学べないことを学びました。

指揮者はとても素晴らしい仕事ですが、それはとても特殊で、少し人工的な面があります。100名の素晴らしい才能を持つ音楽家たちの前に立ち、彼ら一人一人に意見や経験があろうとも、何らかの形でそれを一つにまとめていきます。飛行機のコックピットに座っている時には、あなたは小さなチームのメンバーの一人であり、安全第一で仕事の判断をしていかねばなりません。その体験から、オーケストラの前で指揮台に立っている時に、皆がどのように自分を抑えて、私のリズムに、私の考えに合わせてくれていたのかを学ぶことができたのです。

パイロットというもう一つの職業を得たことによって、私はより良い音楽家になったとは限りませんが、より良い指揮者になったのは確かだと思います」

最後にマエストロは、「この二つの活動をすることができて、わたしは本当に幸せな人間です」と締めくくりました。

飛行機の操縦は若い頃からのハーディングの情熱の一つだったそうですが、それにしても指揮者として国際的に活躍している人物が、本当に航空会社のパイロットになったのは珍しいケースに違いありません。

ごく若い頃からマエストロと呼ばれ、一流オーケストラを指揮してきたハーディングにとっては、パイロットという寄り道(と言っていいのか分かりませんが…)をしたことは、自分とオーケストラの関係を見つめ直す良いきっかけとなったようです。上から目線ではないフラットな関係、オーケストラというチームの一員としての指揮が、これから彼が目指す音楽のあり方なのかもしれません。

取材・文
井内美香
取材・文
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

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