レポート
2020.02.27
ウィーン少年合唱団 教育現場レポート

音楽教育現場でのAI活用 -ウィーン少年合唱団の教授が音楽教育に革命を起こしたいその理由

「天使の歌声」として知られるウィーン少年合唱団。その指導現場では、AIなどのテクノロジーの活用が進められています。人間の手によって高水準な指導が行なわれている学校で、なぜAIの導入が進められているのでしょうか。ジャーナリストの類家利直さんが、実際の教育現場からレポートします。

取材・文
類家利直
取材・文
類家利直 音楽ジャーナリスト

2011年からスペイン・バルセロナを拠点にヨーロッパ各地の音楽系テクノロジーや音楽シーン、Makerムーブメントなどについて執筆。大学院でコンピューターを活用した音楽...

Credit: vog.photo

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ウィーン少年合唱団(Wiener Sängerknaben)のゲラルト・ヴィルト(Gerald Wirth)教授に初めて会ったのは、昨年本誌で取り上げた音楽とAIをテーマにレポートしたArs Electronicaの取材のためにオーストリア・リンツを訪れたときだった。「音楽教育に革命的な変化を起こす」というAIの活用に関する講演のタイトルを見つけ、多少訝しく思いつつも参加した。メディアアート系のイベントで畑違いにも関わらず、音楽授業の導入部のように、発声練習とミニゲームを兼ねた活動から講演が開始。テンポよく進行していったので「誰だろう、やけに上手なこの指導者は。きっと有名な人に違いない」と感じた。その登壇者がヴィルト教授だった。

Credit: vog.photo

「AIの学習における過程と同様、子どもが音楽を学習する過程においても、の神経細胞のネットワークがプログラミングされている」という視点から、その認知神経科学的なアプローチを音楽教育に適用しようとしているといった趣旨の内容が語られていた。

その後、今年2月にウィーンを訪ねる機会があり、ヴィルト教授のAI活用プロジェクトThe Neuromusic Education Simulator (NES) Projectについて、より具体的にその方法や教育アプローチなどを伺った。またウィーン少年合唱団の教室の様子やレッスンも見ることができたので、併せてオーストリアの音楽教育の現在の姿としてこの記事で紹介していきたい。

音楽教育界のトップランナーがなぜ今AI活用に取り組むのか

執務スペースに隣接した小さなサロンで、ピアノの前に立つヴィルト教授。このスペースは普段のレッスンにも使われているが、卒業試験や王室関係者を招いた重要な催しなどにも利用される 写真:筆者

クラシック音楽や音楽教育の世界だけではなく、世界中で一般の人々にも広く知られている同合唱団だが、まだ教育テクノロジーの分野での実績はない。そもそも最新のテクノロジーを使わなくても、人間の力で高い水準の合唱指導ができているのに、なぜAIを開発しようと思ったのだろう、と率直に思った。その理由をまず尋ねた。

「このプロジェクトは音楽教育現場の教育者たちのレベルを上げることを目指しているんだ」

オーストリアの教育制度では様々な区分の学校があるが、6歳から10歳までの子どもが通う学校には、音楽専任の教員がいない。日本の小学校と同様にクラスの担任が音楽も含めてすべての教科を教える形を取っているため、特に音楽授業の質には、教師の得手不得手によるばらつきが生じやすい(小学校より上の学校では音楽科の教員が配置される。)そこでそういったギャップを埋めるため、音楽教育のツールを開発しようとしているのだ。

「子どもたちに自分自身でディシプリン(規律)やモチベーションを管理させることはある意味挑戦だ」

では、具体的にどのように音楽教育の内容を改善していきたいのだろうか。

「音楽教育に関しては、世間に様々な評価があることは知っているよ。例えば大学のような場所で、オーボエだの何かしらの楽器を学んだ学生は、50年前と比べて今の方がずっと良い。

ただし小学校など、子どもの音楽教育の世界を見てみると、面白いことにその多くは2つの両極端なケースに分かれる。例えば子どもの興味を引きつけているのに音楽性の高さには結びつかないような授業内容になっているケース、逆に、音楽性を追求するあまり音楽の楽しさからは程遠く、生徒が興味を失って付いていけなくなっているようなケースの2つだ。

特に幼稚園や小学校などでは、ポピュラー音楽を取り入れたり、ドラムを『ドーン!』と叩いたりという、どうしてもわかりやすく簡単な内容に偏りがちだと思う。そこで音楽に必要な能力を養うために、授業の改善につながるツールが必要だと考えたんだ」

子どもの興味を引きつけつつ、音楽性の涵養にもつながるような“よい授業”を行なえている教育者は、日本でもそう多くはない。日本の教育現場においても、子どもの目先の関心事に合わせて、流行のポピュラー音楽の楽曲を安直に導入したりする場面が見受けられる。こういった考え方は、オーストリアだけでなく、日本の音楽教育にも通じるものがあると言えるだろう。

さらに昨今は、子どもが能動的に学ぶアクティブ・ラーニングが日本の文科省にも推奨されているが、ヴィルト教授はこのようにも語っていた。

「子どもたちに自分自身でディシプリン(規律)やモチベーションを管理させることは、ある意味挑戦だ」

そうなのだ。言葉は悪いが、頭ごなしに脅し透かすように「やれ!」と言うような旧来の教育より、自発性に任せる教育の方が、より教育者の音楽性やスキルの高さを要求されるのだ。

「タブレット機器などが身近にあって、子どもたちを取り巻く環境は変わっているけれど、例えばベートーヴェンを教えれば今でも子どもたちは興味を持つし、時代が変わっても子どもはそれほど変わっていない。これまで通りのやり方でも通じるので、自分は自分のよく知っているやり方をやるだけだ、と思っている」

AIを活用した授業改善ツール「The Neuromusic Education Simulator (NES)」について

「The Neuromusic Education Simulator (NES)」は教育者の授業改善のためのツールで、学内に常駐しているインド系の研究者Shantanu Reinhold氏とスイスや北米の研究者を含めた国際的なチームをヴィルト教授が率いて開発されている。

教室に設置された3台のカメラ。画像だけを見ると、監視社会の始まりを予期させるような恐ろしげな絵面になってしまうが、教室が大きめなのでそれほど圧迫感はない。ただし本当に小さく隠されているわけでもないので、カメラの存在がまったく気にならないということはない。写真:筆者

このツールは教室に設置された3台のカメラにより、1台は指揮をする教師、2台は生徒たちを録画して、生徒と教師の音声と身体の動きをそれぞれ解析する。現時点では1クラス最大で25人ほどの生徒が想定されている。

権利上の問題で、今回はアプリケーションの画面を掲載できないが、ブラウザからアクセスできるWebアプリを実際に見せてもらった。18の計測基準(歌の抑揚、テンポ・音高の正確さ、体の動きなど)の組み合わせによって、8つの評価基準が決められる。授業への集中や歌唱への積極的な改善姿勢、微妙な変化を伴った反復が行なわれているかといった評価基準がある。

「結果データを見れば私なら10秒で良い教育がどうかがわかる」とヴィルト教授は語る。

こういった専門的な評価項目は、その微妙な違いをこれまで経験を積んだ教育者が見て判断していたものだが、アプリケーション上で数値化してより客観的に判断できるようになっている。例えば、指導者の身体の動きをコンピューターで解析することで、評価された数値を見ながら、「指導に動きをもたせた方が、より音楽への理解を高められる」といった改善ポイントを指導者に示唆できるようになっている。

教育者として何を重視しているか、普段の授業の様子から垣間見えるもの

今回はスケジュールの都合で、実際にツールを授業で使っている場面は見られなかったが、普段のレッスンの様子は見せてもらえた。AIを活用していると言っても、そのAIが学習する元データとして参考にされているのは結局ヴィルト教授自身の生身のレッスンの様子だ。

この日は中学生クラスの生徒たちによるモーツァルトの「魔笛」のソロパートの練習が行われていた。

写真:筆者

歌のレッスンは、クラス全体でのレッスンと個人レッスン、そして公演に合わせてソリストが必要な演目の場合、その練習がある。ソリストは何人か候補がいて、子どもの様子を見ながら公演の1、2日前に出演が決められるそうだ。

AIのシステムでも身体の動きを重視しているが、普段の授業でも体の動きに着目させる場面が目立っていた。

写真:筆者

上の画像では頭頂辺りから声を出すイメージで実際に手で引っ張り上げるような動きを付けて発声練習を行っている。特に身体に意識を向けさせる必要がある場合には、一度持っている楽譜をピアノに置かせてから練習させている。

その他にも水を手で掬ってへその前に引きつけるような動きを付けて、息のコントロールを教えたり、身体の使い方を教える際に必ず何らかの動きがある。

ヴィルト教授の伴奏の上手さも目を引いた。部屋に入った時に高校生クラスの生徒がシューベルトの「菩提樹」の個人レッスンをしている最中で、それもヴィルト教授が「私がやろう」といって、特に用意もなくその場でさっとピアノに座りレッスンの仕上げをする。私もその曲の伴奏は弾いたことのあったのだが、楽譜通りにただ弾いているような伴奏ではなく的確なアーティキュレーションが付けられていることがわかった。その後の「魔笛」でも、子ども相手に手抜きゼロ。

「菩提樹」も「魔笛」も有名曲ではあるが、歌だけでなく伴奏も完璧以上にできているということは、楽曲をそれだけ指導者が知り尽くしているということ。凡庸な指導者ならば指導と伴奏を同時に行っても両方に集中できず、多かれ少なかれどちらかで妥協してしまったりするものだ。

こういった指導の様子を動画で見ているだけでも大いに参考になるのだが、現在オンライン学習用のビデオを用意しているという。さらにAI活用による指導の評価と合わせる形でE-learningのシステムを将来提供する予定だという。

ウィーン少年合唱団(Wiener Sängerknaben)の教室の様子

校内の様子を見るために学校の運営管理を行う評議員でもあるトーマス(Thomas Pototschnig)先生が自ら案内してくれた。

中学生(10~14歳)の教室。各教室には電子黒板とホワイトボードの両方が備わっている。壁に十字架がかけられているが、特に宗教教育はなく、生徒たちは様々な宗教的なバックグラウンドを持ち、配慮がなされているという。現在冬場はスチームヒーターが使われているが、歴史的な建物なので、昔の暖炉(画像右側)が今も教室に残されている。写真:筆者
教室の後ろの方に調べ学習用のノートPC2台とタッチパネルの学習用デバイスが置かれている(右はトーマス先生)写真:筆者
校内にある礼拝堂。日曜日に王宮礼拝堂で行われるミサに少年合唱団が参加する伝統があり、その練習でも使われている。写真:筆者
小学生(6~10歳)の教室の様子。元々18世紀の啓蒙主義の君主ヨーゼフ2世のための隠れ家として1780年に建立されたこの建物は、改装されては新しくなっているものの、ところどころ壁の模様などに昔の面影が残されている。写真:筆者

撮影は許可されなかったが、中学生クラスの集団レッスンでは中国系の先生が指導していたりと、生徒・教師ともに多様な国籍・人種が存在していることがわかる。さまざまな宗教や信条をもった人々が集まっているので、給食ではヴィーガンに対応したメニューも用意されていた。

小学校の中を見て歩いていると、日本人の先生もいた。ボイストレーナーとして実に30年に渡ってこの学校で働いているという、栗林純子先生だ。

栗林純子先生 写真:筆者

各クラスで集団のレッスンを行なっているカペルマイスターたちと連携しながら、栗林先生はボイストレーナーとしてもっぱら子どもたちの個人レッスンを担当している。声は個性でありその人間性が表れているという考えから、個々の子どもたちに対して課題を見つけ出し、その子のもっている個性をケアすることに重点を置いているという。

実はトーマス先生も子どものときは栗林先生のレッスンを受けていて「私の一番の先生でした」と語っていた。学校の評議員になった教え子までいるという。30年の月日の長さを感じさせた。

子どもの意欲を活かした音楽教育にするために

実際に学校を訪れる前は、厳格にシステム化された音楽教育版“虎の穴”のような厳しい場所を想像し、AIを活用して子どもたちを管理するための究極の工場型教育用ツールを開発しているのではないか、とさえ私は思っていた。しかしオーストリアの学校カリキュラムに準拠して運営されている普通の学校としての側面もあり、実際にはそこまで特殊な場所ではないと感じた。

レッスンを受けている姿を見ても、目に見えて際立った才能を持った子どもたちだけを集めてエリート教育を行っているというわけでもなく、休み時間にはサッカーをしたり、普段の様子を見ても他の学校の子どもたちとさほど変わらない。ただ、音楽のためにやるべきことはきちんとやっているという印象はある。

入学のための選抜はあるが、この学校の教育が特別な子どものための特別な教育ではなく、普通の子どもたちにも行うべき音楽教育をきちんと行なった結果、「天使の歌声」とまで呼ばれるような合唱団となっているのだととすれば、そこでの実践内容を一般の学校の音楽教育にも活用することは可能だと言える。子どもの意欲を活かしながら質の高い音楽教育にするために、AIなどのテクノロジーを音楽教育へ積極的に導入しようという姿勢も、社会の変化に対応した新しい時代の音楽教育が求められているためだろう。

ただし、公教育は各国異なったフレームワークがあり、すべての国でひとつの同じメソッドを採用することは難しい。オーストリアでは通用するからといって、そのまま日本で受け入れられるとは限らない。

今回のプロジェクトは国際的な研究者のチームによって開発されているが、結局テクノロジーの導入も、教育者を始めとする大人の自発性をどう促すかというところにかかっているかもしれない。

取材を終え、冬晴れのウィーンであまり人気のない通りを歩きながら、高校クラスのレッスンで歌われていたシューベルトの「菩提樹」を久しぶりに口ずさんだ。10数年前に自分も大学院生だった時分に歌曲集「冬の旅」を声楽のレッスンで使っていたことを思い出し、長い時間と距離を経て、日本とオーストリアの音楽教育が私の中で若干繋がったような気持ちになった。

取材・文
類家利直
取材・文
類家利直 音楽ジャーナリスト

2011年からスペイン・バルセロナを拠点にヨーロッパ各地の音楽系テクノロジーや音楽シーン、Makerムーブメントなどについて執筆。大学院でコンピューターを活用した音楽...

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