ビジョンを貫いたウィーン・フィルの3ヶ月——コンサート再開までの道のりとは?
3月16日のロックダウン以来、ウィーン・フィルは再びコンサート活動をスタートさせた。オーケストラの人数を減らさずに行なったコンサートとしては、世界に先駆けた再開となった。この間のウィーン・フィルの様子を、楽団長でヴァイオリニストのダニエル・フロシャウアーと連絡をとりつづけ取材していた音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんにレポートしていただく。
株式会社ノモス 代表取締役。音楽プロデューサー。クラシック音楽を中心とした高音質な音源制作に定評がある。音楽家のマネジメントやコンサルティングも行う。コラムの執筆やラ...
3ヵ月ぶりのコンサートで表明した存在意義
2020年6月5日。ウィーン・フィルの本拠地である楽友協会黄金の間には、指揮者ダニエル・バレンボイムを待つオーケストラの面々が今までと変わらず、そこに座っていた。3月11日のドイツでのコンサートを当日中止せざるをえない状況に陥って以来、実に3ヶ月ぶりのコンサートである。
初めに演奏されるのはモーツァルトのピアノ・コンチェルト第27番。ステージ中央には、バレンボイム特注の専用ピアノが置かれている。ステージにもっとも近い座席を4列ほど外し、ステージを延長させて、オーケストラと観客席の距離をとっている。
バレンボイムの登場に合わせておこる拍手もまばら。オーストリア政府の規定によりイベントで一度に集まれるのは100名までと制限され、この日は家族と関係者を招待したコンサートとなった。
マスクをつけたバレンボイムが、オーケストラを紹介するように手を広げる。コンサートマスターのライナー・ホーネックとは握手をせず、腕をぶつけ合わせて挨拶をする。そしてバレンボイムは徐にマスクを外したのだった。
ウィーン・フィルの優雅さ、バレンボイムの妖艶さが際立った前半のモーツァルトのあと、メインプログラムはベートーヴェンの交響曲第5番。前半と打って変わって、荒々しいトゥッティ、走りがちな管楽器。この5番は、ウィーン・フィルのDNAの中でもっとも激しい部分と饒舌さが現れた稀有な演奏となった。
「ロックダウン前、ウィーン・フィルが最後に演奏したのが、ベートーヴェンの5番だからです」
ウィーン・フィル楽団長ダニエル・フロシャウアーは、なぜこの曲を選んだのかという私の質問に毅然とこう答えた。
それは幅の広い糊代のようなものだろうか。ロックダウン前、最後に演奏した曲を再開プログラムに選び、その継続性を明らかにする。連綿と受け継がれるウィーン・フィルの音楽芸術を絶やしてもいないし、何も変えていないのだという強烈な外向けの意思表明で、さらには自分たちの存在意義を再確認する、内向けの強い念押しでもある。
180年近く続くウィーン・フィルの歴史の中で、ハプスブルグ帝国崩壊や、第二次世界大戦など幾度となくその存在危機に直面している。だがしかし、3ヶ月にもわたって公演がないどころか、オーケストラメンバーが顔を合わせることすらできない状況になったのは、はじめてのことだ。
ブランドを守りながら発信していたメッセージ
3月11日にミュンヘンからウィーンに戻り、外出制限政策で自宅待機を余儀なくされてから、しばし沈黙をしていたウィーン・フィルであるが、政府や関係者から何かしらの状況を与えられるのを、手をこまねき、指を咥えて待っていたわけではなかった。公開事項、そして非公開の動きを含めてそこには確固たる意志と目指すべき明確なゴールがあった。
日々変化するウイルスの状況がいつまで続くかもわからないなか、ウィーン・フィルは淡々と復活への計画を練っていた。1日のうち、実に電話会議に3時間は費やしていたという。
「我々に必要なのは、アーティスティック・ビジョンを共有し続けることです」
楽団長であるフロシャウアーはきっぱりと答えた。その強いリーダーシップは楽団長からの公式メッセージとして明示され、SNSで発信される公式のグリーティング動画を牽引していた。
ロックダウン以降、ベルリン・フィルは自前のストリーミングサービスでアーカイブを解放し始めた。過去のコンサートを配信することによって、世界を音楽で救うという音楽の本来あるべき存在価値を見出し、またその行ないが他のオーケストラや歌劇場に広がっていった。
一方、フリーランスの音楽家をはじめとして、遠隔合奏やSNSでのライブコンテンツなど、家にいてもできることを次々と発信する音楽家も現れた。
しかし、ウィーン・フィルが発信した公式のオーケストラ遠隔合奏動画は、動画こそ各自の家で撮影したもので、それをあたかも同時録音のように編集しているが、実は音声はすでに発売されている音源である。しかも、それはたった1本である。
その他ストリーミングサービスでプレイリストを公開し、これまでの公演動画を配信することはあっても、ロックダウンの後に遠隔でオーケストラの音源は制作していない。SNSでシェアするのはウィーン・フィルの設立当初の歴史話など、他のオーケストラとは違ったブランディング戦略をとっていた。音楽の質を落とさずに徹底したイメージ管理を行なっていたわけである。
ウィーン・フィルとは何か
5月初め、ベルリン・フィルがペトレンコと政府の連携のもと、少人数の室内楽形式によるソーシャル・ディスタンスをとったマーラーの4番で無観客公演の動画配信を無料で行なったあと、ウィーン・フィルも同様な施策を考えているかと質問を送った。
「ステージ上に数人しかいなかったら、果たして、それはウィーン・フィルだろうか」
フロシャウアーからの返答はそれだけにとどまっていた。
まるで禅問答のようなこの回答のころ、ウィーン・フィルの運営委員は既にコンサート再開に向けた大きなプロジェクトを準備していた。それがあの世界的に話題となり、そして今回のコンサート実現の大きな脚かかりとなったエアゾル実験の建て付けと検証結果の公表である。
5月17日。ウィーン・フィルによるエアゾル検証結果が公式ウェブサイトと、オーストリア保健省から発表された。管楽器で、もっとも呼気が遠くに流れるフルートでも80センチにとどまること、またそのほかの弦楽器も含め、通常のオーケストラ配置で演奏に問題がないことを示す実験結果である。
同日、オーストリア文化大臣が辞任。同時に文化イベントの緩和政策が政府より発表され、舞台上の演者等についてはソーシャル・ディスタンスの範囲外とし、リハーサルなども実現が可能となった。
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ウィーン・フィルの実験結果が公表された際、世界中からこの実験に対する賛否が巻き起こった。実験結果が信用できないとでも言わんばかりの言及も散見されたが、ウィーン・フィルは世界に公開することで、どのような意見が交わされるかも十分予想したうえで、入念な準備を行なっていた。
まず、4月末から5月初旬の段階で、すでに複数回の抗体検査を楽団員が受けていた。またこのエアゾル実験結果の公表のあと、リハーサルを始めるにあたって、全員がPCRテストを受け、陰性であることを確認済みである。
つまり、罹っていない前提でかつ、医学的にも政治的にも認められた方法をとり、楽団員の総意として公演を行なう。ただし、お客様を危険にさらすことのないよう、収容人数などは政府の方針に従う、という明確な指針を示したわけだ。ここまでをすべてお膳立てをし、政府高官と交渉を重ねたその計画性と実行力と強い団結はどこからくるのか。
「ウィーン・フィルは、独立した演奏家の集団です。誰に雇われているわけでもない。そして自分たちのためだけでなく、聴いてくださるお客様のためだけでもなく、音楽そのもののために、ウィーン・フィルは存在します。それが、我々の芸術家として、あるべき姿勢です」
オーストリア国内のオーケストラや歌劇場のディレクターたちが、今後の演奏活動について話し合った際、アクリル板で奏者をしきって演奏するという案も出た。それに対し、フロシャウアーは「演奏家として」NOを突きつけている。
ソーシャル・ディスタンスもマスクもアクリル板もなく、これまでとおり、伝統あるウィーン・フィルとして音楽を作ること、つまり、これまでと何ら変わることのない演奏形態をこの困難な時代においても実現すること、それを至上命題としたわけだ。
不確定な状況と戦いながら
ウィーン・フィルがこのコンサートを実現したことは、これからのニューノーマルなクラシック音楽業界のひとつの大きな事例になることだろう。ただ、これだけが正解というわけではない。
フロシャウアーは言う。「もっとも困難な点は、すべてにおいて不確定要素があることです」
それでもウィーン・フィルとして、あるべき姿を保ち続けなければならない。
いつ終わるかもわからないパンデミックと戦いながら、今、世界のオーケストラがその状況に合わせ、できる限りを尽くそうとしている。それぞれが不確定な中から考え、選択していかなければならない。それぞれの立場と価値観で。
こうして2020年6月5日は「ウィーン・フィルとは何か」を強烈に印象付けた歴史に残る一日となった。ウィーン・フィルはこの6月に、バレンボイムに続いて、ムーティ、そしてウェルザー=メストとの共演を予定している。ウィーン国立歌劇場もソリスト1名からの演奏会形式で演奏を再開する。100周年記念のザルツブルク音楽祭も、規模こそ縮小されるが、開催の予定だ。ウィーン・フィルに先導される形で、オーストリアの音楽がまた動き始めた。この一連の流れを世界が注目し、ひとつの事例とすることだろう。
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