連載
2025.09.15
ハプスブルク帝国の音楽世界 第9回

ショパンとウィーン〜二度の滞在の明暗を分けた時代背景とは?

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第9回は、ショパンの二度のウィーン訪問について紹介します。1回目は大成功、2回目はうまくいかずに対照的な結果となりました。なぜこうなったのか、ショパンの手紙や歴史的背景からひも解きます。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

当時のウィーンの街並み(フランツ・シャイエラー、1825年)

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ウィーンでも注目を集めたショパン「事態はクレッシェンドで進行中」

ショパンゆかりの街と言えば、ワルシャワは別格として、思い浮かぶのはパリだろう。しかし、ショパンが世界に雄飛するための舞台として最初に選んだのは、ウィーンだった。

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ショパンは生涯で二度ウィーンを訪れている。初回は1829年夏。物見遊山的な訪問だったが、「僕の演奏を耳にした人は誰も必ず公開演奏をしろと言う」事態になり、到着から2週間足らずで公演を行なうことになった。

8月12日、ショパンは家族にこう報告した。「昨日、火曜の夜7時、ドイツ帝室=王室オペラ劇場で、ついに世界にデビューしました!」。満員御礼とはならなかったが、自作の《モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」による変奏曲》(作品2)を中心としたこの公演は大成功に終わった。これを受けて1週間後に開かれた公演も、同じように称賛された。ショパンは得意げにこう報告している。「二度弾いて、二度目はさらに好評。事態はクレッシェンドで進行中」。

ショパン:前奏曲Op.28 No.15ショパンがウィーンでの演奏会に使ったものと同種のピアノによる演奏)

ショパン:《モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」による変奏曲》

ここでショパンは、ディートリヒシュタイン、シュヴァルツェンベルク、そしてリヒノフスキー(ショパンいわく「ベートーヴェンの最大の親友、あの大芸術家を大芸術家たらしめた最大の恩人」)といった(大)貴族たちに加え、チェルニーや(ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を多く初演した)シュパンツィヒといった市民階級の名士たちの知遇を次々と得た。

こうして「あまりに圧倒され、目が眩み、茫然自失の状態」を体験したあと、「教養のある人、感受性のある人は味方にした」手応えを得て、ショパンは悠々と帰途についた。

ウィーンの時流にうまく乗ったショパン

当時のウィーンは、ロンドン、パリに続くヨーロッパ第三の大都市だった。また、いわゆる「ウィーン体制」を主導するハプスブルク帝国の都として、ヨーロッパ国際政治の中心地でもあった。政府はフランス革命とナポレオン戦争の経験から変革に背を向け、「麻痺した政体」(ベートーヴェン)を確信犯的に維持していた。

社会においては、リヒテンシュタイン家やエステルハージ家(第8回参照)といった(大)貴族層が、依然として重きをなしていた。しかし一方で市民層も産業化の波に乗って成長過程にあり、両者は相互に影響を及ぼし合う関係になっていた。

つまり、やや単純化して言うと、貴族は市民化し、市民は貴族化していったのである。前者については、時の皇帝フランツ1世の家族の肖像画(1826年)を見れば一目瞭然だろう。マリア・テレジア一家の有名な肖像画に描かれたような世界は、もう過去のものとなったのである。

皇帝フランツ1世の一家の肖像画

一方、後者については、今日でもオーストリアにおいて、菓子職人、煙突掃除人、法律家、医師といった職業身分、あるいは親睦団体別に盛んに開かれる舞踏会文化が証し立てている。モーツァルトやベートーヴェン同様、上流志向の強かったショパンは、最初のウィーン訪問で、こうした新時代の上流層にうまくアピールできたのだった。

二度目のウィーン訪問はピアノに当たり散らすほどつらい日々に

さてポーランドに戻ったショパンは、『練習曲集』の作曲に着手しながら、ウィーンで得た成功に自信を得て、本格的な国外進出を考え始めた。しかし、自他ともに認める引っ込み思案で優柔不断な性格、そして不穏な世情がそれを阻んだ。ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》で知られるフランス七月革命が、ヨーロッパの政情を不安定にしていたのである。結局ショパンがワルシャワを発ったのは、1830年11月2日のことだった。

ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1830年、ルーヴル美術館蔵)

しかし、この訪問はうまくいかなかった。「ぼくはあらゆる方面から障害に直面しています。平凡なピアノコンサートが絶え間なく開催されていることで、このジャンルの音楽が台無しになっているだけでなく、観客も遠ざかってしまっています。何にもまして、ワルシャワでの出来事[反ロシア蜂起]がぼくの立場を悪化させました」。

こうしてショパンはウィーンで、祖国ポーランドの苦境や郷愁に心を悩まし、「サロンでは涼しい顔を装うが、家に戻ればピアノに当たり散らす」不遇の日々を過ごすことになる。

冷遇ばかり味わった訳ではない。ベートーヴェンの主治医だったマルファッツィのように、慰め勇気づけてくれる人もいた。しかし、ショパンの煩悶は晴れなかった。従来ロシアによるワルシャワ占領への悲憤から生まれたとされてきた「革命のエチュード」は、近年その前から作曲が始まっていたと指摘されている。もしその通りなら、この曲に漲る激情には、ウィーン時代の鬱屈も影響しているのかもしれない。

ショパン:エチュードOp.10-12「革命のエチュード」

滞在8か月でウィーンを離れることを決意

当時のウィーンでは、ヨハン・シュトラウス1世がスターダムにのし上がり、ワーグナーやベルリオーズからも称賛されていた。しかし、彼がヨーゼフ・ランナーと繰り広げていた「ワルツ合戦」も、ショパンには「ウィーンの公衆の趣味の堕落を示すいい見本」としか思えなかった(ただ、それからも刺激を受けていたことは、「華麗なる大円舞曲」が示している)。

ショパン:ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」

また8か月に及んだ滞在中、ショパンは一度だけ公演を行なったが(メインプログラムは「ピアノ協奏曲第1番」)、以前のような好評を得ることはできなかった。

ショパン:ピアノ協奏曲第1番

こうした状況に業を煮やし、ついにショパンはウィーンを離れる決心を固めた。第一希望はイタリアだったが、情勢が不穏だったため、目的地はパリに変更された。それでも出国許可の取得は容易でなく、ウィーンを去ることができたのは、1831年7月20日のことだった。

そしてマルファッツィが書いてくれた推薦状の効果などもあり、ショパンは新天地パリにおいて、上流階級相手のレッスンとサロンでの演奏、そして楽譜出版による収入に活路を見い出していくことになる。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

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