オペラのヒロインはなぜアンチヒーローに恋するのか 時代背景や原作から読み解く
オペラのストーリーでヒロインが恋する相手に、「この男のどこが良くて?」と思わずにはいられないことが多くありませんか? その疑問には、時代背景や原作との違いなど、オペラならではの「事情」が大いに関係しているのです。4つの超人気オペラをとりあげて、彼ら「アンチヒーロー」がなぜオペラに不可欠な存在なのか、探っていきましょう。
東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン...
女子の怒りを買う《エフゲニー・オネーギン》タイトル役
「オネーギンて、最低!」
今年2月初め、新国立劇場で上演されたチャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》鑑賞後の懇親会で飛び交った言葉だ。ほとんどの女子が、主役のオネーギンのキャラクターに激怒していた。筆者がタジタジとなったくらいに。
確かにタイトル役のオネーギンは嫌な男である。放蕩者の貴族で、彼に一目惚れした田舎貴族の娘タチヤーナに愛を告白されると、自制しなさいと偉そうに説教しておきながら、数年後に美しく成長して人妻になった彼女と再会したとたん、逃した魚は大きいと気づいて熱烈にかき口説く(振られるが)。退屈しのぎに友人に誘われて舞踏会へ行ったものの、自分が良からぬ噂の的になっていると気づいて不愉快になり、誘ってくれた友人への腹立ちまぎれに、彼の婚約者にダンスを申し込んで彼を怒らせ、決闘になってしまう。ろくでもないことばかり引き起こすのだ。
オペラには、この手の「アンチヒーロー」がとても多い。この手の男性がいなければ、人気オペラは成り立たないと言ってもいいほどだ。彼らが本領を発揮すればするほど、彼らに虐げられるヒロインが輝くのである。
「この男のどこが良くて?」と呟きたくなるストーリー
例えばビゼーの超人気オペラ《カルメン》。奔放なロマの女性カルメンに惚れ込んでしまった兵士のドン・ホセが、カルメンに新しい恋人ができたことで怒り狂い、彼女を殺してしまうというストーリーだ。ホセはいわばストーカーである。
ヴェルディのこれも超人気オペラ《椿姫》も、しっかり者のヒロインと世間知らずの坊ちゃんの話である。高級娼婦ヴィオレッタに一目惚れしてしまったブルジョアの家の息子アルフレードは、「愛」を武器に彼女と同棲を始めるが、その費用はヴィオレッタの財布から出ていた……。しかもアルフレードの父ジェルモンは、ヴィオレッタが息子をたぶらかしていると思い込み、2人を引き離しにかかる。ヴィオレッタはジェルモンの命令に従い、本心を隠して彼に別れを告げる。何も知らないアルフレードは、パーティの席で逆上して彼女を罵る……。こうやって書いていても、やれやれ、とため息をつきたくなる。いったいこの男のどこが良くて、ヴィオレッタは一緒になったのだろうか? 彼女を娼婦としてしか見ていない男たちに囲まれている中で、「真実の愛」を捧げてくれたから、ということになっているのだが……。
♪《椿姫》第2幕より アルフレードのアリア「燃える心を」: 念願かなってヴィオレッタと同棲しているアルフレードが、その費用が彼女の懐から出ていることも知らないで喜びを歌うアリア
「この男のどこが良くて?」と呟きたくなるのは、これも大人気オペラであるプッチーニの《蝶々夫人》も同じだ。アメリカ海軍士官のピンカートンは、寄港先の日本で芸者の蝶々さんと現地婚をする。行く先々で恋人を作るのが生きがい、蝶々さんも当然その一人とみなしているピンカートンに対して、蝶々さんは彼に首ったけになってしまい、「結婚」を真実のものと捉えてしまった。やがてアメリカに帰国した彼の帰りを待ち続けて3年。子どもも生まれた。だが日本に戻ってきたピンカートンはアメリカ人の妻を連れていて、蝶々さんは絶望のあまり自殺してしまう……。いやあ、ひどい話だ。
けれど、でも。
このような男性たちに遭遇するたびに、筆者は思うのだ。よくある話、ではないだろうか。「逃した魚は大きかった」と未練たらたらのオネーギン、ストーカーから殺人犯になってしまうホセ、世間知らずのアルフレード、女たらしのピンカートン。まあ、だからこそ、「ひどい男!」と激怒するわけなのだが。
時代背景から知る男たちの「事情」
とはいえ、時代背景を知ると、彼らの側にも同情の余地(?)はあると思わないでもない。とくに《蝶々夫人》と《椿姫》に関しては。
古臭い、男女差別的な物語かもしれないが、この手の物語は19世紀の流行ではあった。
例えばピンカートン。彼はもちろん最初から遊びだった。彼は蝶々さんとの「結婚」について、長崎のアメリカ総領事シャープレスにこう説明している。「999年の契約で、いつでも好きな時に破棄できる」(第1幕より。寄港する外国船の軍人を対象にしたこの手の現地婚は、舞台になっている20世紀初めの長崎で実際に行なわれていた)。ピンカートンとしては、蝶々さんだって当然そのことを理解していると思っていただろう。蝶々さんに忠実な女中スズキも、「外国人の夫が帰ってきたなんて聞いたことがない」(第2幕)と言っている。蝶々さんの悲劇は、そんなピンカートンに賭けてしまったことにあった。
♪《蝶々夫人》 第3幕より ピンカートンのアリア 「さようなら 愛の家よ」: 蝶々さんが自分を待ち続けていたことを知って、後悔するピンカートンのアリア
《椿姫》の物語の無茶ぶりにも、時代背景は大いに関係している。当時の結婚は「家」同士のもの、身分違いのそれは御法度だった。アルフレードの問題は、ヴィオレッタと結婚したがったことにあった。そしてヴィオレッタもその夢を見てしまったのだ。だが蝶々さんと違い、ヴィオレッタは現実を理解しているからこそ、アルフレードの父ジェルモンの説得〜「女としての道を外れたあなたに、まともな結婚は難しい」と、ジェルモンは彼女との二重唱でほのめかす〜に首を縦に振ってしまう。この場合、現実が見えていないのはアルフレードの方だが、蝶々さん同様、一途さがそうさせたと言えないこともない。
対して《カルメン》のドン・ホセのケースは、今時でもよくある話ではないだろうか。惚れた女に振られてカッとなって殺してしまった事件など、世界中で毎日のように起きている。《オネーギン》もそう。昔振った野暮な女の子が美しくなって人妻になったら未練が出たという経験は、身に覚えがある人は少なくないのではないだろうか。
小説とオペラで異なるアンチヒーロー度
実はドン・ホセやオネーギンは、オペラの原作になった小説とは、かなりキャラクターが違っている。とくにドン・ホセの場合、原作になったメリメの小説『カルメン』のホセとオペラのホセはまるで別人だ。カルメンに惚れて軍を脱走してしまうのは同じだが、小説のホセはオペラよりよほど肝のすわった野盗になり、カルメンの「夫」も殺してしまう。
カルメンの「夫」? そう、カルメンは亭主もちだったのだ。それも、投獄されている札付きの悪党だった。それを殺してしまうのだから、ホセの覚悟も半端ではない。カルメンだって売春もすれば盗みもする大胆な女性だ。こんな危険人物を舞台に乗せたらまずいので、2人そろって牙を抜かれたのがオペラ《カルメン》なのである。その結果、凄みはないけれど、万人にわかりやすいキャラクターができた。
♪《カルメン》第2幕より ドン・ホセのアリア「花の歌」: カルメンに愛想を尽かされそうになったホセが、彼女に投げられた花をずっと持っていたと、ひたむきな愛を打ち明けるアリア
オペラ《オネーギン》では、ヒロインのタチヤーナばかりでなく、友人のレンスキーらと比べてもオネーギンのアンチヒーローぶりが際立っているが、小説を読むと実際のオネーギンはかなりなインテリで、女遊びもし尽くした青年貴族だった。純朴なタチヤーナの告白を重く感じても無理はないかもしれない。インテリで裕福、叔父から遺産を受け継いで働く必要がない。行動する必要がない。だからこそ、世の中を斜めに見ていると言えなくもない。
♪《エフゲニー・オネーギン》第1幕より オネーギンのアリア「人生を家庭の枠だけに」:タチヤーナからの恋文を受け取ったオネーギンが彼女を説教(?)するアリア
タチヤーナは決闘のほとぼりを冷ますために旅に出たオネーギンの留守宅に入り込み、彼の蔵書を紐解いている。読書好きで空想好きのタチヤーナは、そこで普段は見えない彼の心の一部に触れたのだ。おそらく2人の心には、何か共通する部分もあったのだろう。
だが、長さに制限のない小説に比べ、オペラという芸術には省略と簡素化が求められる。セリフは歌われるから、最小限に縮めなければならないのだ。人物に関しても同じで、人数にせよキャラクターにせよ、わかりやすくするためには細かい部分は思い切ってカットしなければならない。オネーギンの心の襞も削られた。おそらく、チャイコフスキーがタチヤーナというヒロインに惚れ込んでいたこともあって。
作曲家の自画像と理想の女性
そう、彼らが引き立てる結果になるヒロインたちは、大抵の場合、作曲家の理想の女性なのだ。蝶々さんしかり、ヴィオレッタしかり。プッチーニは当時、恋人とのトラブルに巻き込まれて参っており、彼の好みど真ん中だった可憐な蝶々さんの心模様を、これでもかと細かく描いて観客が感情移入できるようにした。ヴィオレッタには、当時ヴェルディと同棲していたソプラノ歌手ストレッポーニの面影がある。そして彼らアンチヒーローたちは、作曲家の何がしかの自画像でもあるのである。
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