特集「子どもの音楽体験」

子煩悩な「音楽の父」バッハの惜しみない愛情と教育

読みもの
2020.02.08

大作曲家バッハは、奥さんや子どもたち、家に出入りする弟子たちまでもを大切にする「家庭人」、そして息子たちを一流の音楽家にすべく奮闘した「教育パパ」でもあったようです。バッハが子どもたちに施した音楽体験を、那須田務さんが教えてくれました。

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トビー・エドワード・ローゼンタール作「セバスチャン・バッハ家の朝の讃美歌」(1870年)
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那須田務 音楽評論家 
那須田務
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那須田務 音楽評論家 
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノやオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏。音...

「大バッハ」の少年時代

ヨハン・ゼバスティアン・バッハが子どもたちに施した音楽教育の話をする前に、少しバッハ自身のことを述べよう。

バッハは街楽師の長を務めていた父の8人兄弟姉妹の末子として、中部ドイツ、テューリンゲン地方のアイゼナハに生まれた。バッハ一族の宗門の祖ルターが若い頃に住んだ所縁の町であり、町外れの静かな森を歩くと小高い山にルターがラテン語の聖書をドイツ語に翻訳したヴァルトブルク城がそびえる。

父の家は父の部下や門弟、兄姉たちの奏でる音楽でいつも賑やかだったことだろう。バッハは小学校の聖歌隊で歌い、授業が終わると町の教会のオルガニストを務める父の従兄のところに遊びに行き、オルガンやオルガニストの姿を身近に知ったに違いない。

ところが10歳になるかならないかの頃に相次いで両親が亡くなり一家離散。その後は長兄のもとで本格的な音楽教育を受けることになるのだけど、宗教と音楽が不可分に結びついたアイゼナハでの日々はバッハの音楽家としての生き方を決定づける重要な原体験となった。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)
言わずと知れた「音楽の父」。多くの音楽家を輩出したバッハ家の中でも、特に高名なため「大バッハ」とも呼ばれる。

結婚、子育て、音楽教育

さて、時は流れてバッハは、ミュールハウゼンの教会オルガニストに就任した22歳の年に、又従姉のマリア・バルバラと結婚。その後ヴァイマルの宮廷楽団の楽師長を経て32歳でケーテン侯レオポルトの宮廷楽長に就任。

2人のあいだに7人の子どもが生まれるが、成長したのは三男一女。バッハ一族は代々音楽家である。それを視野に入れて、とくに長男のヴィルヘルム・フリーデマンと、次男(正確には三男)のカール・フィリップ・エマヌエルの2人に音楽の基礎を教え、長男が9歳の年にいわゆる《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための音楽帳》を用意した。

そこには、譜表や音符などの楽典の知識や装飾音演奏法、運指練習等とともに、後年の《インヴェンション》や《平均律クラヴィーア第1巻》に収められることになる楽曲が含まれていて、演奏や作曲の指導に用いたと考えられている。

ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)。大バッハの長男で、活躍した場所から「ハレのバッハ」、「ドレスデンのバッハ」とも。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)。兄弟中もっとも世俗的な成功を収め、存命中は父よりもはるかに有名だった。別名「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」。
《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための音楽帳》にバッハ自身の手で書き込まれた、装飾音符の演奏法。

《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための音楽帳》

妻と息子たちで作りあげた《音楽帳》

子宝にも恵まれ、仕事も順調。そんな矢先。突然の不幸に見舞われる。侯爵に随行して旅行から戻ってきたら妻が亡くなってすでに埋葬されていたのだ。35歳にして、6歳から13歳までの4人の子どもを抱える男やもめとなったバッハの心境は察するに余りあるが、その翌年バッハは宮廷歌手として当地にやってきたアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚。彼女は16歳年下の「美しいソプラノ」を歌う人だった。

そんな妻にバッハは一冊の音楽帳《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》を贈る。後に《フランス組曲》となる5つの組曲がバッハ自身の手で記入されている他は白紙のままだったが、バッハとアンナはその後、妻や子どもたちと楽しんだコラールや鍵盤楽曲、メヌエットやポロネーズなどの舞曲から歌曲、息子たちの作品などを書き込んでいった。

この習慣はその後もずっと続けられ、バッハ家の団らんの様子や、子どもたちの成長を伝える貴重な記録となっている。

《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》の表紙。題字はおそらくアンナ・マグダレーナ自身のもの。
第1巻から。バッハ自身の手によるサラバンド(《フランス組曲第1番》BWV812から)。
第2巻から。妻アンナ・マグダレーナの筆跡による作者不詳のメヌエット(BWVAnh.116)。
第2巻から。息子のカール・フィリップ・エマヌエルが自作のマーチを記入したもの(BWVAnh.122)。

4人の息子を立派な音楽家にしたレッスン

バッハは音楽家として一流の仕事人だったが、常に家族の安寧と子どもの教育を考えていた。そこには自分が十分に受けられなかった両親の愛情と教育を子どもたちに授けたい、という思いがあっただろう。ケーテンの宮廷が財政難などの理由で転職を考えたときに、バッハが選んだのが、名門大学のある商業と文化の盛んなライプツィヒ市のトーマス・カントルのポストだった。

カントルとは、ルター派の教会付属の学校で音楽とラテン語、宗教を教える指導者のこと。バッハは家族とともにトーマス教会付属学校の校舎に住み、音楽の授業(音楽以外の授業は他の人にやってもらっている)のほか、生徒たちの聖歌隊を引き連れて市内の4つの教会で演奏、同時に市の音楽監督として教会音楽を作曲した。

アンナが産んだ13人の子どものうち、成人したのは6人。ライプツィヒには先妻の4人の子どもと併せて10人の子どもたちがいた。バッハは学校の寄宿生の舎監もやっていたし、ほかにも通いの弟子も教えていたから、さぞかし家の中は賑やかだっただろう。

音楽のレッスンの主眼は、鍵盤楽器の演奏(通奏低音を含む)と作曲だ。まず初歩の段階では《インヴェンションとシンフォニア》を用い、少し上達すると《平均律クラヴィーア第1巻》を与えた。当時楽譜は滅多に出版されないし、高価なので、弟子たちはレッスンのたびに楽譜を写譜した。

ちなみに20世紀のチェンバロの大家グスタフ・レオンハルト(1928-2012)も、自ら演奏する曲はことごとく写譜をし、弟子たちにも勧めていたという。とくにバッハは敬愛するあまり、筆跡までそっくりだった。

レオンハルトが演奏する《インヴェンションとシンフォニア》。

それはさておき、バッハの息子たちのうち、音楽家となったのは上述の2人と、アンナ・マグダレーナの子、ヨハン・クリストフ・フリードリヒヨハン・クリスチャンの4人だが、上の2人とは年齢も20以上離れている。

ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732-1795)。音楽家になった大バッハの4人の息子たちの中では一番地味な存在。活動地から「ビュッケブルクのバッハ」とも。
ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)。バッハ家の中では唯一、オペラ作曲家として成功し、モーツァルトにも多大な影響を与えた。ヘンデルの後継者としてロンドンで活動したことから「ロンドンのバッハ」と呼ばれる。

上の2人、ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップは一貫してバッハから音楽教育を受け、ライプツィヒのトーマス学校から同地の大学に進学。トーマス学校生の頃から父の助手として演奏用の楽譜を写譜したり、演奏要員として活躍した。

クリストフ・フリードリヒは、音楽の基礎こそ父から学んだが、その後は兄たちやバッハの弟子の教育を受けたと考えられている。ヨハン・クリスチャンに至っては、15歳で父を亡くしたために、ベルリンの宮廷音楽家をしていた兄カール・フィリップのもとで音楽を学んだ。

バッハの音楽は後世の「子どもたち」も育てる

子煩悩なバッハは、常に息子たちの将来を気にかけていた。末子以外は、一族のネットワークも駆使して就職の面倒をみた。かくして彼ら4人は、その後の音楽史で前古典派と呼ばれる一時代を代表する作曲家となり、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらに多大な影響を与えたのだった。

最後に知人から聞いた話をひとつ。ライプツィヒに住む一家に小さな子どもがいた。大変な腕白坊主だったが、音楽の才能があったのでトーマス合唱団に入ることができた。その子は毎日バッハのカンタータを歌ううちに、驚嘆すべき精神的成長を見せたという。

知人曰く、「バッハの音楽は人間の霊性を高める」らしい。同感である。

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