読みもの
2021.11.29
11月の特集「バトル」

作品、収入、当時の人気で比較! バロック音楽の2大巨匠、バッハVSヘンデル

バロック音楽を代表する作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)とゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)。生まれた年も国(ドイツ)も同じだけれど、その人生や活動内容は対照的⁈ あなたはバッハ派? ヘンデル派?

話した人
三澤寿喜
話した人
三澤寿喜 ヘンデル研究と指揮

1950年長野県岡谷市生まれ。諏訪清陵高等学校卒業。国立音楽大学大学院修了(音楽学)。 主要著書:『作曲家◎人と作品 ヘンデル』(音楽之友社)。 主要校訂譜:『メサイ...

取材した人
山﨑隆一
取材した人
山﨑隆一 ライター

編集プロダクションで機関誌・広報誌等の企画・編集・ライティングを経てフリーに。 四十の手習いでギターを始め、5 年が経過。七十でのデビュー(?)を目指し猛特訓中。年に...

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ともにバロック音楽を集大成し、後世に影響をあたえた2人

ともに1685年生まれのふたり。バッハは1750年に65歳で、ヘンデルは1759年に74歳でその生涯を閉じた。この時期、西洋音楽史上の重要人物でいうと、1732年にハイドンが、1756年にモーツァルトが生まれている。特にハイドンはヘンデルがまだ存命中の1750年代に作曲活動を開始し、古典主義音楽を牽引する存在となっていく。では、バッハとヘンデルは、古典主義につながる当時の新しい音楽を創造していたのだろうか。

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ジョージ・フリデリック・ヘンデル(George Frideric Handel, 1685ー1759)

結論からいうと、そうではないという見方に落ち着きそうだ。もちろん、2人とも後世の作曲家に大きな影響を与えた存在ではあった。モーツァルトは、オーストリア皇帝に仕え、音楽愛好家でもあったスヴィーテン男爵を通してバッハやヘンデルの作品を知り、彼のリクエストで《メサイア》等のオラトリオを編曲している。ベートーヴェンがバッハのことを「小川(バッハ)ではなく、大海と呼ぶべきだ」と讃えたのは有名なエピソードだ。

しかし、リスペクトされる存在であることと、革新的だというのは決してイコールで結ばれるわけではない。バッハとヘンデルでいえば、新しい音楽様式を作りだしたというよりも、当時の潮流であったバロック音楽を、それぞれのやり方で集大成した存在なのだ。バッハは宗教音楽や器楽曲、対してヘンデルはオペラやオラトリオの分野において、和声の使い方や転調など、細かいテクニックにおいては新しい技法を使いこそすれ、作品様式としてはバロック音楽の枠を出るものではなかった。逆に、バロック音楽としての完成度を極限まで高めることで、後世の音楽家たちの尊敬を集める存在になったといえるだろう。

対照的なふたりの行動範囲

同じドイツ(当時は神聖ローマ帝国)に生まれたバッハとヘンデルだが、それぞれの音楽家としての歩みは対照的で面白い。バッハはオルガニストや宮廷楽長として各地を渡り歩き、最後はライプツィヒでトーマス教会のカントル、そして市の音楽監督として、30年近くにわたり、音楽家としてのみならず教育者としての務めも果たしたバッハ。その生涯で、ドイツから外に出ることは一度もなかった。

一方、ヘンデルはイタリアでオペラを学び、ハノーファーの宮廷楽長を経て、ロンドンでオペラ作曲家として、後にはオラトリオの興行主として大成した。彼はそのままイギリス国籍を取得し、亡くなるまで50年近くの生涯をロンドンで過ごすことになった。

語弊を恐れずに平たい言い方をすれば、公務員的な職に就いていたバッハと、エンタテインメント市場で勝負するプロモーターでもあったヘンデル。この2人が作る作品には、どのような特徴があるだろうか。 

【作品バトル】教会音楽のバッハ、劇場音楽のヘンデル

オペラ以外のほぼすべてのジャンルを手がけたバッハは、対位法に代表される当時の音楽語法を駆使し、緻密な構成美を持った作品を次々と生みだした。《平均律クラヴィーア曲集》第1集&第2集や《無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタと3つのパルティータ》、《無伴奏チェロのための6つの組曲》など、その楽器を学ぶ人にとってバイブル的な作品も少なくない。《マタイ受難曲》に代表される教会音楽の多くは、1723年にライプツィヒに赴任してから5年ほどの間にそのほとんどを作り、残りの時間は教会での勤務と並行して自らの創作活動や、コレギウム・ムジクムのような世俗の音楽活動も行っていた。

J.S.バッハ:《マタイ受難曲》(鈴木雅明 指揮、バッハコレギウムジャパン)

対して、バッハが手がけなかったオペラというジャンルで、ロンドンに華々しく登場したのがヘンデルである。当時のロンドンは経済が発展し、音楽や演劇の劇場娯楽も盛んで、貴族や上流階級の人々はこぞってオペラの公演に出かけていた。オペラは娯楽作品であり、存続するにはチケット収入を確保しなければならない。そのためには、3~4時間もの間、観客を飽きさせない工夫が必要だった。ヘンデルは、作曲の技法が優れていることはもちろん、オペラ《セルセ》の〈オンブラ・マイ・フ〉に代表されるような、聴く人を惹きつけるようなアリアや見せ場を随所に挟むことに秀でていた。

複雑な人間模様を描くストーリーも人気を呼んだ。ヘンデルの作品には英国王室のために作った《水上の音楽》や《王宮の花火の音楽》に代表される器楽曲もあるが、その本領はオペラにあると言っていいだろう。ヘンデルは、イギリスでイタリア・オペラが衰退すると、創作の中心をオラトリオに切り替えていく。その代表的な作品《メサイア》のようにキリスト教に題材を求めたものが多いため、オラトリオは宗教作品と思われがちだが、実際はイタリア・オペラを踏襲した劇場娯楽。大まかなストーリーだけ聖書から拝借し、中身はオペラと同様に複雑な人間ドラマを巧妙に仕組み、観客の共感を呼んだのである。

ヘンデル:《メサイア》(ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団)

【当時の人気度バトル】ヘンデルに会いたかったバッハと、気に留めなかったヘンデル

現代においてはバロック音楽の2大巨匠と称されるバッハとヘンデルだが、彼らが生きていた当時はどのような評価をされていたのだろうか。

実際のところ、音楽家としての格や人気の面でいうと、ヘンデルのほうが断然上だった。当時でいうと、ヘンデルと人気を2分していたのはハンブルクでカントルを長く務めたテレマンで、ライプツィヒのバッハは地方のいち作曲家としての存在を超えることはなかったようだ。

バッハとヘンデルは、お互いに一度も会ったことがない。しかし、そのチャンスはあった。ヘンデルはロンドン定住後も生まれ故郷のハレに何度か帰っていて、その際にバッハがアプローチしているのだ。1719年には、当時ケーテンの王宮にいたバッハがハレに向かったが、すれ違いに終わってしまった。その後、1729年にはバッハがライプツィヒの自宅に招待するが、断られてしまう。バッハはヘンデルに大きな関心を持っていたが、当のヘンデルはバッハのことをそれほど気にはしていなかったらしい。

【収入バトル】音楽で儲けたのはどっち? 収入で比較

収入面ではどうだろう。ドイツに住み、多くの子どもを育てなければならなかったバッハと、イギリスに帰化し、生涯独身を貫いたヘンデル。お互いに環境が違うので単純な比較は意味がないのかもしれないが、こちらもヘンデルに軍配が上がりそうだ。

ライプツィヒ時代のバッハの年収は、1730年の時点で700ターラー(推定525万円ほど*)だと彼自身が友人宛ての手紙に書いている。カントルとしての基本給のほか、結婚式や葬儀に演奏をすることで副収入があった。この待遇は決して少ないわけではなかったらしいが、バッハ本人は決して満足していなかったらしい。バッハが亡くなったときの遺産総額は969ターラー(推定730万円ほど)であった。

対するヘンデルの方はというと、かなり稼いでいたようだ。1719年、ヘンデルがロンドンのオペラ上演会社「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」に実質上の音楽監督として迎えられたときの年俸は800ポンド(推定2560万円ほど)と考えられている。その後、自らが興行主となり、彼が亡くなった1759年には、2000ポンド(推定6400万円ほど)の収益を記録している。遺産は2万ポンド(推定6億4000万円ほど)だったというから、このバトルはヘンデルの圧勝といえるだろう。

*金銭の円換算については、山根悟郎『歴代作曲家ギャラ比べ ビジネスでたどる西洋音楽史』(学研プラス)を参照。計算方法によっては金額が異なる場合がございます。

ヘンデルの活動で注目すべきは、ただ稼いだだけでなく、それを世の中の弱者に還元していたことだ。代表的なものとして、当時ロンドンに新設された孤児養育院で、1749年から行った慈善演奏会が挙げられる。収益を寄付するのみならず、その演奏会の演目には必ず《メサイア》を入れるようにして、同作品の評価・人気を確立することに貢献した(それまで《メサイア》の評価は芳しいものではなかった)。

また、死の数年前から遺書をしたため、毎年のように書き換え、入念に遺産の相続をプランしていた。最終的に、遺産総額2万ポンドのうちおよそ半分は姪のヨハンナに、その他は近しい友人をはじめ、ドイツの遠い親戚縁者たちや、すでに疎遠になっていた友人知人、女中たちにまで気配りをし、困窮音楽家基金にも1000ポンド(3200万円)、孤児養育院に《メサイア》の浄書譜一式も残した。

【性格バトル】音楽に対して誠実だったのは2人とも同じ

バッハもヘンデルも音楽のことに関しては決して妥協するような人物ではなかったといわれている。音楽に真剣だからこそ、時にはこだわりをとがった言葉で表現してしまい、けんかになってしまうことも。2人に関して、以下のような有名なエピソードが残っている。

バッハのけんかエピソード

1705年、アルンシュタットの新教会(現在のバッハ教会)でオルガニストに就いていたバッハは、ラテン語学校の生徒でファゴット奏者でもあった年上の男からこん棒で襲われた。バッハも剣に手をかけて応戦しようとするも、周りの学生たちに押さえられて大事には至らなかったが、襲われたのは、バッハが彼のことを「青二才のファゴット奏者」と侮辱したからだった。

ヘンデルのけんかエピソード

ヘンデルが参加した「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」は、豊かな経済力でヨーロッパ中から歌手や奏者を招き寄せていた。当時、いちばんの高給取りは歌手で、スター歌手になると年棒1500ポンドとも2000ポンドともいわれていた。つまりヒエラルキーのいちばん上で、作曲家が用意したアリアが気に入らないと、ごねるだけでなく以前歌った曲に勝手に差し替えることすらあったという。

1723年、イタリア出身のソプラノ、フランチェスカ・クッツォーニが、ヘンデルのオペラ《オットーネ》でロンドン・デビューしたが、彼女もリハーサルの際に「オペラ冒頭のアリアが気に入らない」と言い出した一人だ。しかし、ヘンデルも「このアリアは絶対にあなたに合う」と譲らない。言い合いの末、「窓から放り出してやる!」と脅し、力づくで歌わせた。結果として、彼女はこのアリアを気に入り、後に子どもができたときには子守唄として歌っていたという。

このような騒ぎを起こすのも、自分の音楽に絶対の自信を持ち、安易な妥協をしたくなかったからこそ。もしバッハとヘンデルが一緒に音楽活動をしていたら、こだわりがぶつかって殴り合いになっていたかもしれない。

バッハは作品を通して神に奉仕したのだとしたら、ヘンデルが謳ったのは人間への愛。対照的なところが多いけれど、音楽に対して誠実だったのは2人とも同じ。これを機に、改めてバロック音楽の巨匠の作品を聴いて、その違いを味わってみてはいかがだろう。

話した人
三澤寿喜
話した人
三澤寿喜 ヘンデル研究と指揮

1950年長野県岡谷市生まれ。諏訪清陵高等学校卒業。国立音楽大学大学院修了(音楽学)。 主要著書:『作曲家◎人と作品 ヘンデル』(音楽之友社)。 主要校訂譜:『メサイ...

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山﨑隆一
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山﨑隆一 ライター

編集プロダクションで機関誌・広報誌等の企画・編集・ライティングを経てフリーに。 四十の手習いでギターを始め、5 年が経過。七十でのデビュー(?)を目指し猛特訓中。年に...

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