「自由」に寄す~ベルリンの壁崩壊、バーンスタインが「第九」に込めた想い
同じ街の中なのに、東西を隔てた「壁」で自由に行き来できない。ドイツの首都ベルリンがそのような状況にあったのは、たった33年前のことです。その壁が崩壊し、東西統一を祝う6国合同演奏会で取り上げられたのは、ベートーヴェンの交響曲第9番、通称「第九」。指揮を務めたレナード・バーンスタインは有名な「歓喜に寄す」の歌詞に、ある仕掛けを施しました。
分断時代のベルリンを訪れている山崎浩太郎さんが、「壁」の歴史も交えて紹介してくれました。
1963年東京生まれ。演奏家の活動とその録音を生涯や社会状況とあわせてとらえ、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。『音楽の友』『レコード芸術』『モーストリーク...
私が初めてベルリンに行ったのは、1983年2月のことだった。大学生の欧州観光旅行である。
強烈な町だった。
東西冷戦という現実が、目の前の「ベルリンの壁」となって、厳然とそびえ立っていた。
ある場所では、道路がいきなり壁で遮られていた。走ってきた車は、その手前で分岐する細い道へと曲がっていく。自分は外国から来た観光客だから、壁に2か所設けられていた検問所を通って、東西のベルリンを行き来できた。しかし、この町に住むドイツ人の大多数は、壁を越えることが許されないのだ。
すぐ向こうは異世界。不思議な感覚だった。自分が住む東京が、もし壁によって東西に分断されていたら、どんな感覚なのだろう。想像しようにも、うまくいかなかった。
東西冷戦の最前線に「執行猶予」のまま置かれている町
ベルリンの壁は、第2次世界大戦と東西冷戦が原因で築かれた。
1945年に降伏したドイツは、戦勝国であるアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国によって分割統治されることになった。ベルリンはそのなかのソ連占領地域内にあったが、ドイツ帝国以来の首都としての重要性から、周囲とは別に4か国で分割統治した。
1949年に米英仏の占領地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)として、分断されたまま独立したとき、西ベルリンは東ドイツの中に取り残されることになった。
ところが、東西ベルリンの往来がほぼ自由だったことが大きな問題となる。不自由で貧しい共産主義を嫌った東ドイツ人が、若年層を中心に西ベルリン経由で大量に亡命するようになったのだ。若い国民がいなくなれば国家は成り立たない。そこで東ドイツは、1961年に東西ベルリンの交通を遮断した。初めは鉄条網で、やがて強固なコンクリート製の二重の壁となった。
これが、ベルリンの壁である。
以来、西ベルリン(厳密には西ドイツに属さず、米英仏の分割占領が続いていた)は、共産圏の海の中に浮かぶ、自由主義の孤島となった。
いつ、東側に呑みこまれるかもわからない。しかしそれは、第3次世界大戦の始まりになりかねない。その日まで、東西冷戦の最前線に「執行猶予」のまま置かれている町。それが西ベルリンだった。
当時、「帝王」カラヤンとベルリン・フィルが本拠地とするフィルハーモニーは、壁から遠くない場所にあった。いつか東西が統一されたら、このホールは大ベルリンの中心に建っていることになるといわれていたが、83年の時点では、それは遠い夢としか思えなかった。
壁崩壊! 自由を祝う「第九」に指揮者バーンスタインが込めた想い
ところが、85年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、共産圏を自由化の波が洗いはじめる。
そして1989年11月、ベルリンの壁が崩壊して、28年ぶりに東西の通行が自由化される日が来た。
4か月前に亡くなっていたカラヤンに代わり、東欧革命を象徴するこの大事件を記念する音楽イベントを主導したのが、アメリカの指揮者バーンスタインである。
アメリカは西側世界のリーダーであり、前述したように、西ベルリンは米英仏の占領が続いていたから、ベルリン問題の当事者であった。
バーンスタインは、アメリカの音楽家のなかでも特にベルリン問題と関わりが深かった。ベルリンの壁が構築される前年の1960年9月、東西の緊張がきわめて高まっていた時期には、ニューヨーク・フィルと4日間の日程で西ベルリンに弾丸ツアーを行ない、西側市民を励ましたことがある。
壁の出現後も折に触れてベルリンを訪れていたバーンスタインにとって、分断の終結は、本当に喜ばしい事態だった。そこで、クリスマスの時期にベートーヴェンの「第九」を演奏する記念演奏会が企画された。
出演者は、東西両ドイツとアメリカ、イギリス、フランス、ソ連。つまり、ベルリン問題の当事者である6か国の合同による特別編成。西ベルリンのフィルハーモニーと東ベルリンのシャウシュピールハウスで、それぞれ公演を行なうというものだった。
このときバーンスタインは、終楽章のシラーによる詞の「歓喜(Freude/フロイデ)」を、「自由(Freiheit/フライハイト)」に変更した。これは、シラーの時代には当局の弾圧により用いにくかった「自由」の隠語として、「歓喜」が代わりに使われた、という説によるものである。
現代では、根拠薄弱で史実ではないとされる説だが、指揮者山田一雄も、「自由」のほうが意味を理解しやすいと述べていた。バーンスタインは、歴史的根拠の薄さを承知の上で、あえて使ってみた。壁の崩壊という歴史的な事件の特別さに、この言葉こそふさわしいと考えたからである。
後にライヴ録音がCD化されたさいには、ベルリンの壁のかけらがついた限定盤も発売されたことがあった。
この演奏が、「第九」の最高の「名盤」であるかどうかは、問題ではない。この演奏の熱さと深い感銘は、歴史的な大事件と、それが人々に与えた特別な感激と結びついている。そのことに、はかり知れない価値があるのだ。
1989年12月25日 東ベルリンでのライブ・レコーディング
レナード・バーンスタイン(指揮)
ジューン・アンダーソン(ソプラノ)、サラ・ウォーカー(アルト)、クラウス・ケーニヒ(テノール)、ヤン=ヘンドリク・ロータリング(バス)
バイエルン放送合唱団、ベルリン放送合唱団、ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団
バイエルン放送交響楽団、ドレスデン国立管弦楽団員、ニューヨーク・フィルハーモニック団員、ロンドン交響楽団員、レニングラード・キーロフ劇場管弦楽団員、パリ管弦楽団員
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