どうしても自信が持てなかったブルックナー
2024年に生誕200年を迎えるオーストリアの作曲家、アントン・ブルックナー。その作曲家像に迫るべく、大井駿さんが人となりにまつわるエピソードを4つのテーマから掘り下げていきます。
第1回は、ブルックナーの半生を追いながら、彼の内気で自信のなかった性格について見てみましょう!
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
ブルックナーといえば、まずは彼の代名詞とも言える、数々の交響曲ですね! 彼のほとんどの交響曲は1時間、もしくはそれ以上の時間を要するほどの大作となっています。1824年生まれのブルックナーですが、おそらくそれ以前の時代でこれほどまでに長い交響曲といえば、有名な作品ですとベートーヴェンの交響曲第9番くらいでしょう。
「きっとブルックナーは、強い信念を持ち続け、自信を持って長大、かつ大きな編成の交響曲を何曲も世に出したのだろう!」と思ってしまいますよね。ですが、どうやらそうでもなかったようです。
この記事では、モンスター級の交響曲を生み出したブルックナーが、どのような人物だったのかを探っていきましょう。そのために、まずは彼の半生を少し紹介させてください!
作曲家志望ではなかった青年時代
1824年、ブルックナーはオーストリアの工業都市リンツ近郊のアンスフェルデンで生まれ、アントンと名付けられました。この名前は、小学校の校長先生だったお父さんと同じ名前です。
そして11人の子どものうち、大人になるまで生き延びたのは、5人。その中でも第一子だったのが、ブルックナーでした。
わりと地味な子供だったブルックナー少年は、勉強よりも友達と遊ぶことが好きで、かくれんぼや鬼ごっこをして過ごしていました。その中で、彼が興味を持ったものが、音楽でした。彼の父も時折オルガンを演奏し、その演奏を間近で見ることの多かったブルックナー少年は、オルガンに加え、ピアノも演奏するようになりました。
しかし弟や妹の夭逝にとどまらず、父を失い、一家の大黒柱を失ったことで苦しい生活となります。そして1836年(12歳)、近くの聖フローリアン修道院に聖歌隊の一員として入学します。ここでブルックナーは音楽理論、作曲法、オルガンを学びます。
このときには、音楽こそ学んでいたものの、音楽家として生計を立てる道は考えていませんでした。
まずは1851年(17歳)、田舎町で補助教員の仕事に就きつつ、村の結婚式でヴァイオリンを演奏する仕事を(半ばアルバイトのような形で)する生活を送ることに。どうやら、子どもたちと接することが好きで、かなりユーモアのある先生だったそうです。
続いて1845年(21歳)、母校の聖フローリアン修道院の正規教員となり、そして1851年(27歳)に聖フローリアン修道院のオルガニストのポジションを得ます。彼にとって初めて音楽家としての仕事です。
祝典歌「聖ヤコブは気高き家系より出でたもう」 WAB15
ブルックナーが聖フローリアン修道院のオルガニストとして最後に作曲した作品(1855年)
これを契機に、1855年(31歳)にリンツ大聖堂のオルガニストに就任し、だんだんとブルックナーの名前が世に出ていきます。この頃から、「作曲家を目指そう」という思いが募っていきます。そして、同年よりジーモン・ゼヒターという作曲家の戸を叩き、1863年(39歳)になるまで作曲のレッスンを受け続けたのです。
さて、ここまでブルックナーの半生をご紹介しましたが、ほかの作曲家のものと比べてしまうとかなり地味な人生です。これは、やはり父の仕事が堅実であったことに加え、父が早くに亡くなったことで、長男として家計を支えなければいけなかったため、作曲家になるという夢を持つことなど考えもしなかったのでしょう。
このような生き方をしてきたブルックナーは、なかなか自分の作品に自信が持てる機会がなかったのです。
不器用で自信がない性格のブルックナー
自分に自信を持てなかったブルックナーですが、まずは1866年(42歳)、交響曲第1番を完成させ、翌々年の初演は成功します。「もしかして作曲家としてやっていけるかも」と機運に乗ったブルックナーは、交響曲第0番を作曲。そして、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者フェリックス・オットー・デッソフの元へ楽譜を持っていき、初演を依頼します。
しかしここで、「この曲のテーマはどこにあるのか?」と言われたことで自信をなくしてしまい、初演することを諦めました。そのため、この曲は交響曲第1番のあとに書かれたものの、ある意味で番号を持たない《交響曲第0番》と呼ばれています。
たしかに、よくある古典的な交響曲であれば、わかりやすいメロディがテーマとして使われますが、彼は弱音のトレモロをテーマとして使っていました。そのため、このような返答が来たのでしょう。
ブルックナー:交響曲第0番〜第1楽章
ほどなくして、デッソフの打診により、次なる交響曲(第2番)を初演する運びとなりましたが、団員から不満が続出し、中止となりました。さらに、続く交響曲第3番の初演も大失敗に終わったことで、自らの交響曲に全く自信が持てなくなりました。
この様子を目の当たりにしていた弟子のヨゼフ・シャルクは、友人のフランツ・ツォットマン、フェルディナンド・レーヴェとともに、ブルックナーを擁護し続けたものの、すっかり自信をなくしているブルックナーは、もはや八つ当たりのように、「友人に対して愚か、無礼、そして不遜な振る舞いだった」そうです(弟子フリードリヒ・クローゼの日記より)。
それからは、オーケストラでの初演をする前に、自らの交響曲をまずは2台ピアノで私的に初演する試演会を開き、自分でどんな作品になったかを聴き、そして友人のフィードバックを得ることにします。これにウィーン・ワーグナー協会が協賛し、すべてウィーン市内のベーゼンドルファー・ホールにて行なわれました(ここで指す、私的初演または試演会は2台ピアノによるもの、公開初演はオーケストラによるものです)。
まず、1880年2月4日、交響曲第4番を、フェリックス・モットルとヨハン・パウムガルトナーが私的初演します。この交響曲は、1881年に公開初演され、成功します。
続く交響曲第5番も、1887年4月20日にヨゼフ・シャルクが友人たちと私的初演します。この交響曲は、公開初演の機会になかなか恵まれなかったため、オーケストラでの初演は1894年となります。そのときの指揮者は、なんとこの曲をピアノで初演したシャルク本人だったのです。
交響曲第6番は、1883年に部分的に公開初演されますが、全曲通しての初演はブルックナーの死後となったので、試演会は行なわれませんでした。
ワーグナーの後押しと交響曲第7番の成功
ブルックナーの交響曲の中でも人気を誇る交響曲第7番も、決して例外ではありません。強いていうなら、ほかの交響曲よりも試演会を重ねた作品かもしれません。それには訳があります。ブルックナーにとってのアイドル、ワーグナーの存在です。
1882年7月にバイロイトでワーグナーと面会したブルックナーは、「(私の健康のことは)心配しなくていい。なんなら、これから君の交響曲を全部指揮するつもりだよ」と声をかけてもらい、それに対してブルックナーは恥じらいながら、精一杯感謝の言葉を伝えたとされています。
バイロイトからウィーンへの帰り道、聖フローリアン修道院に立ち寄り、元から書き進めていた第1楽章を手直しし、第3楽章を書き上げます。
1883年2月10日に、第1楽章と第3楽章を、弟子のヨーゼフ・シャルクとフランツ・ツォットマンが、ベーゼンドルファー・ホールにて私的初演します。そんななか、ワーグナーの危篤の知らせ、そして2月13日に亡くなったという知らせを立て続けに受けます。そして深い悲しみに浸りながら、残りの楽章を書き上げます。
そして1884年2月27日、全曲を2台ピアノにて私的初演します。このときのピアノは、シャルクとフェルディナンド・レーヴェが担当しました。
さらに、1884年7月には第4楽章のみ、同じピアニストによって2台ピアノで演奏されます。こうして入念に準備を重ねたブルックナーは、最後の仕上げとして、8月にワーグナーの墓参りをし、同年12月30日のオーケストラによる公開初演は大成功に終わりました。結果、交響曲第7番のレビューは各地に広がり、ブルックナーの名声を確固たるものとしました。
左:ブルックナーがワーグナーの墓参りの思い出として持って帰った葉っぱ(筆者撮影)
交響曲第7番の初演が成功に終わった翌年、1884年に再びバイロイトへ墓参りをします。その際、ワーグナーの墓の上に落ちていた葉っぱを持って帰ってきたものです。
ブルックナーは、交響曲第8番と未完に終わった第9番の私的初演は行なっていませんが、これは交響曲第7番の成功によって自信を得たことの表れでしょう。
ブルックナーの真面目で憎めない人柄は、皆に愛されていますが、その気持ちは筆者も同じです! その人柄に迫るために、ザールブリュッケン州立歌劇場で指揮者を務める、親友のユリウス・ツェマンと、ブルックナーの交響曲第7番の2台ピアノ版を世界初録音し、CDリリースしました!(多くのトレモロに悩ませられながら……)
編曲はブルックナーの弟子ヘルマン・ベーンによるもので、おそら
ぜひ演奏を聴きながら、ブルックナーがドキドキしながら聴いていたであろう私的初演の様子に想いを馳せてみてください!
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