読みもの
2022.03.23
特集「教科書の音楽」

黒澤明が「かっこうワルツ」を映画に使った理由——教科書クラシックの栄枯盛衰

平成10年まで存続していた学習指導要領の「鑑賞共通教材リスト」。そこには今は懐かしい、そしてあまり聴かれることがなくなったクラシック音楽が並んでいます。かつては誰もが口ずさめたメロディ。黒澤明監督『酔いどれ天使』でも使用された、愛らしい「かっこうワルツ」もその中の一曲。
音楽評論家の増田良介さんが、リストから消えると同時に、人々の心からも消えつつある音楽の栄枯盛衰を語ります。

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

ドイツの銅板彫刻家スセミールが描いたかっこう(1800-1812頃)

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長く愛されながら、教科書から消えた音楽たち

「かっこうワルツ」(ヨナーソン)、「森のかじや」(ミヒアエリス)、「ガボット」(ゴセック)、「おもちゃのシンフォニー」(ハイドン。現在はアンゲラーまたはL.モーツァルト作曲説が有力)、「金婚式」(マリー)……。昔は音楽の教科書に載っていて、誰もが知っていたこれらの作品は、現在、どれぐらい知られているだろうか。今でもたまにCMに使われることなどがあるから、完全に忘れられたとは言えないが、聴く機会はめっきり少なくなっている。若い世代だと、 聴いたことがないという人も少なくないかもしれない。

かつて日本の音楽教育では、戦前は国定教科書、戦後は学習指導要領の「鑑賞共通教材」として、何年生のときはこの曲を聴きましょうということがだいたい決められていた。シューベルトの「魔王」や、スメタナの「ブルタバ」(《我が祖国》〜「モルダウ」。いまの教科書ではこう書くそうだ)を、誰もが学校の授業で聴いているのはそのためだ。この曲目リストは、ときどき改訂されながら長きにわたって存続してきたが、平成10年(1998)告示の学習指導要領で廃止された。

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最初に挙げた名曲たちは、昭和33年(1958)の鑑賞共通教材リストからピックアップしたものだ。

その中でも「かっこうワルツ」(ヨナーソン)は、戦前の国定教科書にすでに掲載され、戦後も昭和52年(1977)のリストまで残っていた定番曲のひとつだ。つまり、昭和生まれの人の大半は、音楽の時間にこの曲を聴いていることになる。平成元年(1989)のリストで姿を消した理由は不明だが、この曲や「森のかじや」のような、「セミ・クラシック」と呼ばれる作品が、当時すでにあまり演奏されなくなっていたことが原因かもしれない。

戦前から教科書に載っていた「かっこうワルツ」〜黒澤明『酔いどれ天使』での効果的な使用

作曲者(別の人の旋律を使ったという説もある)のヨハン・エマヌエル・ヨナーソン(1886-1956)は、軍楽隊や映画音楽で活動したスウェーデンの作曲家だが、現在では「かっこうワルツ」以外知られておらず、情報も少ない。

しかし、彼が1910年代の初頭に書いたこの曲は、欧米で大ヒットしたようで、録音も、戦前から戦後にかけて大量に行なわれている。ちなみに、1913年に行なわれた最初の録音はアコーディオン・デュオによるものだったらしい。「鑑賞共通教材」に載ったのも、かっこうの鳴き声を模した明るく覚えやすいメロディが、音楽の授業にはうってつけだったことに加え、このような世界的人気を反映してのことだっただろう。

ところで、映画ファンの方なら、「かっこうワルツ」が、黒澤明監督の映画『酔いどれ天使』(1948)の中で使われていたのをご記憶かもしれない。『酔いどれ天使』は、黒澤監督が三船敏郎をはじめて起用した記念すべき傑作だ。

結核を病む若いヤクザ松永(三船)は、この映画の終わり近く、兄貴分と対立し、病気も悪化し、目が落ちくぼんだ凄まじい形相で闇市を歩く。この場面で拡声器から騒々しく流れるのが、「かっこうワルツ」だ。無神経なほどに明るい「かっこうワルツ」と、絶望に満ちた松永との対比は強烈で、映画史において屈指のコントラプンクト(悲しい画面にわざと明るい音楽を付けるような技法)として名高い。

「時代の一コマ」としてのクラシック音楽

さて、1948年当時、この場面を見た人々は、ああ、にぎやかな闇市に、誰もが知っている「かっこうワルツ」が流れている、と気づき、それと鋭いコントラストをなす三船の孤独を痛切に感じたはずだ。しかし、「かっこうワルツ」が、街に飽和するほど流れている通俗的な音楽だという感覚を持たない現代の人には、当時の人が聴いたのと同じように「かっこうワルツ」を感じることは、もうできなくなっている。

だが、当時と同じ見方ができないのは、結核という病気や、ヤクザや、闇市についても同じことだ。そういう意味で、この映画における「かっこうワルツ」は、外国の曲ではあるが、戦後日本の風俗の欠かせない一コマだったと言える。

「不滅の名曲」がずっと聴かれ続けていると思われがちなクラシック音楽の世界だが、実はレパートリーの栄枯盛衰はかなりある。ただ、過去に流行した音楽が、「懐メロ」としてしばしば回顧される流行歌の世界と違って、クラシック音楽の世界では、一度人気が落ちた曲はほぼそれっきりで、思い出されることはほとんどないように思う。

しかし、「かっこうワルツ」に限らず、クラシック音楽でも、ある時代、誰もが知っていた音楽(たとえば、教科書に載っていた音楽)については、ときどき意識的に振り返ってみるとおもしろい。映画に限らず、それらはまぎれもなく、その時代の日本文化の一部だったのだから。

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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