井内美香の「すべての道はオペラに通ず」第9回

文学少女の無垢な希望は打ち砕かれて......理想と現実、夢と諦めを美しく描いたチャイコフスキーの名作《エフゲニー・オネーギン》

読みもの
2019.08.14

「夢見る少女じゃいられない」なんてヒット曲もありましたが、いつの時代も若者は夢をみて、憧れ、それが叶わなかったときに強くなるのかもしれません。
ロシアの文豪プーシキンの名作「オネーギン」をもとに、チャイコフスキーが作曲したオペラ《エフゲニー・オネーギン》は、そんな揺れ動く繊細な若者たちの心をとらえた作品。多くのオペラのように主人公が死ぬわけでもないのに、見終わったあとになんともいえない苦しさが残るのは、自分にも覚えがあるから? 井内美香さんがナビゲートいたします。

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ロシアの女流画家エレナ・サモキッシュ=シュドコフスカヤ作『タチヤーナ』(1899)
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井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
井内美香
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井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

無垢な少女と虚無な青年のすれ違い『エフゲニー・オネーギン』

暑い夏にはついつい涼しさを求めてしまいます。田舎の白樺林に立つ邸宅や、雪の降る川辺などが登場するロシア・オペラはいかがですか? それはチャイコフスキー作曲《エフゲニー・オネーギン》です。

詩人プーシキンの韻文小説を元にしたチャイコフスキー作曲のオペラ《エフゲニー・オネーギン 》は、ロシアの田舎とサンクトペテルブルグの上流社会を舞台に、若い主人公たちの恋愛における心の綾を描き出します。

大上段に振りかぶった歴史絵巻的なオペラが主流だった当時のロシアとしては異例な題材。チャイコフスキー自身は、1879年モスクワで初演されたこの作品を「叙情的情景」と呼びました。

アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)。プーシキン自身もオネーギンと同じく貴族階級であり、『スペードの女王』『青銅の騎士』など近代ロシアのリアリズム文学の確立者。
プーシキン自身が描いたエフゲニー・オネーギンの横顔。
《エフゲニー・オネーギン》の物語

ラーリン家の田舎の領地。姉のタチヤーナは物静かで読書好きな夢見る乙女。妹のオリガは活発な娘。ある日、オリガの許婚である詩人レンスキーが隣人オネーギンをラーリン家に連れてくる。一目でオネーギンに恋するタチヤーナ。夜になってタチヤーナはオネーギンへの思いをこめた手紙を書く。彼女は夢中になって書いた手紙を朝一番で届けさせる。しかし、オネーギンは礼儀正しい口調ではあるが「自分は結婚には向かない男」とタチヤーナを拒み、彼女に「あなたは自分を抑えることを学ばなければ」と説教する。

 

恋に破れたタチヤーナ。季節は冬となり、彼女の命名日のお祝いにレンスキーがオネーギンを誘う。無理に連れてこられたオネーギンは腹いせにレンスキーの婚約者オリガに踊りを申し込む。侮辱されたレンスキーはオネーギンに決闘を申し込み、彼に撃たれて若い命を落とす。後悔にさいなまれたオネーギンは旅に出る。

 

何年か後のサンクトペテルブルグ。タチヤーナは戦場で名誉の負傷をした退役軍人グレーミン公爵の妻となっている。タチヤーナと再会したオネーギンは成長した彼女の美しさに打たれ愛を告白。しかしタチヤーナはオネーギンへの愛情を残していながら、妻としての義務を優先し彼を拒絶する。

チャイコフスキーが共感を寄せた〈手紙の場〉

閉塞した田舎での暮らし。文学少女タチヤーナは、自分が生涯愛することのできる男性との出会いを夢見ています。そしてそこに現れたオネーギンを理想の恋人と思ってしまうのです。

確かにオネーギンは傷つきやすく、タチヤーナと似たところがあります。彼もおそらくはもっと若い頃、タチヤーナが彼に抱いたような初恋を経験したのかも知れません。

しかし、タチヤーナと出会った頃のオネーギンはすでに数多くの恋愛遊戯を経験した、虚無的な人生観を持つ男でした。彼は年若い田舎の少女の純愛を打ち砕くことに、皮肉な喜びしか感じなかったのです。

『オネーギン』と『タチヤーナ』(どちらもエレナ・サモキッシュ=シュドコフスカヤ作1899年のイラスト)

タチヤーナの愛の予感、人生への期待は、まさに青春の美しさと焦燥感を秘めています。チャイコフスキーはタチヤーナというヒロインに深い共感をもっていました。

このオペラは、タチヤーナがオネーギンへの手紙を書く〈手紙の場〉から作曲されました。彼女の長大なモノローグは、このオペラ全体が凝縮している名場面なのです。

〈手紙の場〉が描いているもっとも大切なこと、それはオペラ《エフゲニー・オネーギン》全体にも通じることですが、若く夢見る時代はあっというまに過ぎ去る、そして人生は夢想したとおりには決してならない、ということではないでしょうか? 現代も同じです。本や音楽、あるいは映画や漫画、そしてアニメを通して私たちは広い世界と、素晴らしい未来に思いを馳せます。でも大人になってわかることは夢と現実は違うということ。もちろん現実は、夢にも思わなかった素晴らしい経験をもたらしてくれることがあるとはいえ……。

タチヤーナは夢見ることを知っている娘でした。彼女の空想が描いていた自分が生涯をかけて愛することのできる理想の相手は、オネーギンを一目見たときに現実に重なったのです。

〈手紙の場〉でのタチヤーナは、自分の大胆さに驚きながらもオネーギンにこう呼びかけます。

ああ、あなたは何者なのです? ――私の守護天使なのですか、狡猾な誘惑者なのですか。私の疑惑を晴らしてくださいまし。ことによると、こうした一切は空しい幻、うぶな魂の迷いかも知れません。そうして全く別の違う運命が待ち受けているのかも……。でも、それならそれでいい!

「オネーギン」プーシキン作、池田健太郎訳 岩波文庫より引用

チャイコフスキーと台本を手がけたシロフスキーは、この〈手紙の場〉において、いくつかカットはしながらもプーシキンの名台詞をそのまま歌詞に採用しています。

オペラ《エフゲニ・オネーギン》には、この〈手紙の場〉以外にも聴きどころがたくさんあります。レンスキーが、雪の中で決闘相手のオネーギンを待ちながら歌うアリア「青春は遠く過ぎ去り」

ロシアの自然や風土を活写した合唱の数々、登場人物たちの心理を描く重唱、第3幕の冒頭で奏でられる華麗なポロネーズ

そしてタチヤーナとオネーギンの決別を描く最後の場面まで、美しい旋律と、多彩なニュアンスに満ちたオーケストラが魅力的な作品です。

イリヤ・レーピン作『オネーギンとレンスキーの決闘』

タチヤーナとオネーギンの恋は名作バレエも生みだした

20世紀にはこの物語を使った名作バレエも生まれました。ジョン・クランコ振付の《オネーギン》です。

1965年にシュトゥットガルトで初演されて以来、物語バレエの傑作として上演され続けています。このバレエの音楽はチャイコフスキーの楽曲で構成されています(ただしオペラ《エフゲニー・オネーギン》からは1曲も使用されていません)。

バレエでもやはり〈手紙の場〉、そして最後のタチヤーナがオネーギンを拒否する場面がよく知られています。

タチヤーナがオネーギンを拒絶する最後のパ・ド・ドゥで使用されているチャイコフスキー作曲の幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』

バレエ《オネーギン》の〈手紙の場〉が面白いのは、タチヤーナの想像するオネーギンが鏡の中から登場し、彼女とパ・ド・ドゥを踊ることです。

オネーギンに何度も高くリフトされるタチヤーナを見ていると、彼女がオネーギンによって魂の飛翔を味わいたいのだ、ということを感じます。バレエならではの魅力的な表現です。

愛と諦めを描いた名作を舞台で

原作、オペラ、バレエ、それぞれ違った良さのあるオネーギンの物語。いずれも、現代の私たちにとっても身近に感じられる題材を、ロシアという風土の中に描いた傑作です。

今年は8月に開催されるセイジ・オザワ 松本フェスティバルで、ファビオ・ルイージ指揮、ロバート・カーセン演出の《エフゲニー・オネーギン》が上演されますし、10月の新国立劇場のシーズン開幕にはアンドリー・ユルケヴィチ指揮、ドミトリー・ベルトマン演出の《エウゲニ・オネーギン》が新制作で上演されます(オペラ名はそれぞれの主催者の表記)。また、2020年2月にはパリ・オペラ座バレエが来日して《オネーギン》を上演することが発表されています。

数あるロシア・オペラの中でも人気が高い《エフゲニー・オネーギン》。それはこのオペラが、誰もが心の中に持っている純粋な愛への憧れと諦念を、見事に表現しているからなのかもしれません。

リディア・ティモシェンコ作『公爵夫人タチヤーナとオネーギン』
セイジ・オザワ 松本フェスティバル
《エフゲニー・オネーギン》

日時:
2019年8月20日(火)18:30開演
2019年8月22日(木)15:00開演
2019年8月24日(土)15:00開演

会場: まつもと市民芸術館・主ホール

 

演目:チャイコフスキー作曲オペラ《エフゲニー・オネーギン》

出演:

エフゲニー・オネーギン:レヴァント・バキルチ(8/20公演は大西宇宙)
タチヤーナ:アンナ・ネチャーエヴァ 
レンスキー:パオロ・ファナーレ 

合唱:東京オペラシンガーズ
ダンサー:東京シティ・バレエ団

演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
指揮:ファビオ・ルイージ 
演出:ロバート・カーセン 
再演演出:ピーター・マクリントック 

料金: SS席 30,000円  S席 26,000円 A席 22,000円 B席 18,000円 C席 10,000円 D席 5,000円

新国立劇場〈新制作〉
《エウゲニ・オネーギン》

上演期間:
2019年10月1日(火)~10月12日(土)

会場: 新国立劇場オペラパレス

 

演目:チャイコフスキー作曲オペラ《エウゲニ・オネーギン》全3幕

出演:

オネーギン:ワシリー・ラデューク
タチヤーナ:エフゲニア・ムラーヴェワ
レンスキー:パーヴェル・コルガーティン
合唱:新国立劇場合唱団

 

演奏:東京フィルハーモニー管弦楽団
指揮:アンドリー・ユルケヴィチ
演出:ドミトリー・ベルトマン

料金: S席 27,000円 A席 21,600円 B席 15,120円 C席 8,640円 D席 5,400円 Z席 1,620円

パリ・オペラ座バレエ団 2020年日本公演 
ジョン・クランコ《オネーギン》

演目: 

《ジゼル》  振付:ジャン・コラーリ/ジュール・ペロー 音楽:アドルフ・アダン 
《オネーギン》 振付:ジョン・クランコ 音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 

公演日: 2020年2月27日(木)~3月8日(日)

会場:東京文化会館(上野)

 

公演概要発表: 9月初旬予定

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