悪妻か自業自得か? 結婚したら波乱が巻き起こった作曲家トップ3
結婚をめぐる波乱の物語は古今東西いろいろあれど、作曲家の人生もなかなかドラマチックです。ここでは、幸せな結婚ではなかったであろう3人の作曲家と、そのいわくつきの作品を、音楽ライター室田尚子さんが紹介します。
東京藝術大学大学院修士課程(音楽学)修了。東京医科歯科大学非常勤講師。オペラを中心に雑誌やWEB、書籍などで文筆活動を展開するほか、社会人講座やカルチャーセンターの講...
結婚は人生の墓場なのか
「結婚は人生の墓場」結婚を否定的に象徴したこの言葉は、『悪の華』などで有名なフランスの詩人シャルル・ボードレールが言ったもの。
ただし本当は、当時フランスで梅毒が流行していたため「自由恋愛はやめ、体を清めて、墓のある教会であなたが愛する唯一の人と結婚すること」と警鐘を鳴らしたものだそうです。
本当に結婚が墓場かどうかは、みなさまそれぞれの結婚生活の中で考えていただくとして、作曲家の中には、実際に「結婚が人生の墓場だった」人がいます。ここでは、「結婚したために人生がたいへんなことになった」作曲家を独断に基づくランキング形式で、偉人の格言とあわせてご紹介してみたいと思います。
第3位 結婚式から20日後に逃げたピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
愛情のない結婚は悲劇である。しかしまるで愛情のない結婚より、一層悪い結婚がひとつある。それは愛情はあるが片一方にだけ、という場合だ
——オスカー・ワイルド
よく知られているように、チャイコフスキーは同性愛者でした。しかし彼は、仕事や家族への影響から結婚を考えるようになります。
そんなチャイコフスキーの前に現れたのが、アントニーナ・ミルコーヴァという8歳年下の女性。アントニーナが書いた回想録によれば、ふたりが初めて出会ったのは、まだチャイコフスキーがペテルブルクの法律学校に通っていた頃だそうですが、チャイコフスキーのほうはまったく覚えていなかったよう。ずっと彼に思いを寄せていたアントニーナは、1877年の5月に意を決して彼に手紙を書き、そこから文通がスタート。そして「この娘の犠牲の上に自分の自由を守るか、それとも結婚するかという困難な選択に迫られ」た結果、「彼女を愛していないけれども、どんなことがあっても、忠実で感謝の気持ちのある友人となること」を打ち明けてプロポーズ(ナデージダ・フォン・メック夫人への手紙。森田稔訳)。
ふたりは1877年7月6日に結婚式を挙げますが、チャイコフスキーはすぐに結婚生活が自分の音楽性をダメにしてしまうということに気づき、20日後には療養と称してカメンカに逃げてしまいます。
その後、9月にはモスクワに戻ってきますが、妻との同居生活は1週間も耐えられず、モスクワ川で入水自殺めいたことをした挙句に、弟のアナトーリイに電報を打って助けを求め、9月24日、ペテルブルクへと汽車で去ったのが妻との別れになりました。
この結婚騒ぎの前後にチャイコフスキーが書いていたのが、歌劇《エフゲーニ・オネーギン》と交響曲第4番です。
アントニーナは「オネーギン」について、「これは私たちのことをそのまま書いたものです。オネーギンは彼自身で、タティヤーナは私です」(森田稔訳)と、自分たちの愛情から生まれた作品だといっています。おそらくアントニーナは最後までチャイコフスキーの愛情を信じていたのではないでしょうか。せつない……。
プーシキンの小説をチャイコフスキーがオペラ化した《エフゲーニ・オネーギン》
チャイコフスキー「交響曲第4番」Op.36
第2位 新聞に載るほどのスキャンダルを巻き起こしたクロード・ドビュッシー
恋のない結婚のあるところには、結婚のない恋が生まれることだろう
——ベンジャミン・フランクリン
その作品からちょっと想像できませんが、ドビュッシーはすごい肉食系男子、いや、恋多きオトコでした。
10歳でパリ音楽院に入学。18歳の頃に14歳年上の美貌の人妻マリー・ブランシュ・ヴァニエと不倫関係になったのが、彼の表に出ている最初の華やかな恋。
右:マリー・ブランシュ・ヴァニエ(ジャック=エミール・ブランシュ、1888年/パリ市立美術館)
その後、1893年から5年間、ドビュッシーはガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)という女性と同棲生活を送っています。その間にも婚約破棄とか、まあいろいろあり(!)、ドビュッシーに振り回されたギャビーは自殺未遂騒動を起こしてしまいます。
ちなみにギャビーと同棲期間中に生まれたのが歌劇《ペレアスとメリザンド》で、このあと彼は押しも押されもせぬ巨匠作曲家となっていきます。1903年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。名声はいや増し、収入も上向きに。
禁断の恋を描いたメーテルリンクの戯曲をもとにした、ドビュッシー唯一のオペラ《ペレアスとメリザンド》(ルーアン歌劇場)
そんなギャビーと1898年に別れた翌年、ドビュッシーはロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚。ですが、ここで落ち着かないのが、肉食系男子の肉食たるところ。
ドビュッシーは、裕福な銀行家の夫人だったエンマ・バルダックと恋に落ちます。エンマは優れたアマチュアの歌手であり、かつてはフォーレが「優しい歌」を捧げた恋人でもありました。1904年7月、ふたりはイギリスのジャージー島へ逃避行の旅に出ますが、ここで書かれたのがピアノ曲「喜びの島」です。
ピアノ曲「喜びの島」
10月にリリーがピストル自殺を図り、これが新聞に載って大スキャンダルとなってしまいます。結局ドビュッシーはリリーと離婚してエンマと再婚。1905年には娘クロード=エンマ(シュシュ)が誕生。ドビュッシーはシュシュを溺愛し、1908年にピアノ曲「子供の領分」を捧げています。この後ドビュッシーの恋愛癖がピタリとおさまったのは、エンマが運命の相手だったからなのか、それとも「子はかすがい」ということだったのでしょうか。
ピアノ曲「子供の領分」
第1位 アルバン・ベルク
もし君が良い妻を得るならば、君は非常に幸福になるだろう。もし君が悪い妻を持つならば哲学者となるだろう
——ソクラテス
1935年、ベルクは歌劇《ルル》第3幕のオーケストレーションを残したまま、この世を去ります。
ヘレーネ未亡人はベルクの師だったシェーンベルク、ウェーベルン、ツェムリンスキーに補筆を頼みますが、いずれも断られたため、1937年の《ルル》初演は2幕版で行なわれました。以後、未亡人は補筆を禁じ、同時に、ベルクが残したさまざまなスケッチなどが入った金庫に鍵をかけてしまったそうです。
これは指揮者の故・若杉弘氏から聞いた話なのですが、ピエール・ブーレーズなどは「いつ鍵を捨てたり金庫ごと燃やしたりするか、心配でたまらなかった」とのこと。ヘレーネ夫人が亡くなった3年後の1979年、ブーレーズ指揮でフリードリヒ・ツェルハの補筆による3幕完全版の初演が行なわれました。
ピエール・ブーレーズがアルバン・ベルクの歌劇《ルル》完全版を指揮した際に語っている動画(パリ・オペラ座)
さて、ヘレーネ夫人の死後、ベルクのある作品にまつわる大きな謎が明らかになっています。
それは、ベルクが1927年に発表した弦楽四重奏のための「抒情組曲」。この作品の手稿譜と、ベルク自身の書き込みがある初版のポケットスコアが公開されたのです。
弦楽四重奏のための「抒情組曲」
1925年、ベルクは第3回国際現代音楽祭に出席するために訪れたプラハで、ハンナ・フックス・ロベティンという女性と出会います。ハンナは、マーラーの妻だったアルマの3番目の夫フランツ・ヴェルフルの姉で、当時すでにふたりの子どもを持つ裕福な家庭の主婦でした。
ふたりは深く愛し合うようになり、ベルクはこの許されざる愛の記念として、アルバン・ベルクの頭文字「A(ラ)」と「B(シ♭)」、ハンナ・フックスの「H(シ)」と「F(ファ)」の4つ音と、ふたりの運命数である10と23を元に、この「抒情組曲」を書いたのでした。手稿譜はハンナに贈られたもので、そこにはボードレールの『悪の華』から「奈落よりわれは叫びぬ」という詩句が書き込まれていました。
ヘレーネ夫人は生前、ふたりの関係に気づいていたのでしょうか。ベルクとハンナとの恋愛からは「抒情組曲」という芸術が生まれましたが、ヘレーネとベルクの結婚からはいったい何が生まれたのか。それを思うと、ヘレーネ夫人を悪妻と断罪する気持ちにはなれないのです。
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