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2019.08.29
マリインスキー歌劇場来日公演《スペードの女王》《マゼッパ》

ロシアの作曲家に愛される文豪プーシキン——ゲルギエフが手掛けるチャイコフスキーの隠れた傑作オペラ

2019年11月に来日公演を行なう指揮者ワレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー歌劇場。上演予定のチャイコフスキーのオペラ《スペードの女王》と《マゼッパ》はどちらもプーシキン原作によっています。

ロシアの音楽家たちにとって、いかにプーシキンが特別な存在であるかを、ゲルギエフの来日記者会見の様子とともに音楽評論家の増田良介さんが教えてくれました。

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増田良介
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増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

《スペードの女王》マリインスキー劇場公演より
©N.Razina

画像提供: ジャパン・アーツ

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ロシアの作曲家が取り上げる作家、プーシキン

ロシアの作曲家たちがロシアの文学をもとにして書いた音楽はたくさんある。ところが、面白いことに、われわれにおなじみの文豪たち、たとえばトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフなどの作品は、音楽の題材としてはあまり人気がない。

ロシアの作曲家たちによってよく取り上げられる作家といえば、これはもう、ダントツでアレクサンドル・プーシキン(1799-1837)だ。

言葉の響きに敏感だった彼の文体がもともと音楽的だったことや、巧みなストーリーテリングがオペラ向きだったことなどがその理由として言われているが、やはり重要なのは、37歳の若さで決闘により命を失ったこの天才の作品が、昔からロシア人の心の中で特別な地位を占めていたということだろう。われわれが百人一首を覚えるように、ロシアの子どもたちはプーシキンの八行詩を覚えるのだ。

イリヤ・レーピン作『リツェウムの試験におけるプーシキン』。試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、古典派の大詩人デルジャーヴィンに認められた。

ロシアの作曲家で、プーシキンの作品による音楽を書いたことのない人はいないかもしれない。彼の詩による無数の歌曲を抜きにしてロシア音楽は語れないし、オペラなら、グリンカの《ルスランとリュドミラ》やチャイコフスキーの《エフゲニー・オネーギン》、ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》など、たくさんの名作がプーシキンの原作に拠っている。グリンカから現代の作曲家まで、プーシキンはロシアの作曲家たちにとって汲めども尽きぬ霊感の泉となっているのだ。

グリンカ《ルスランとリュドミラ》:ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場

チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》~ポロネーズ:ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団

ムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》:ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場

プーシキンの作品とチャイコフスキーのオペラ

さて、チャイコフスキーはプーシキンの作品に基づくオペラを3作書いた。《エフゲニー・オネーギン》《スペードの女王》《マゼッパ》だ。このうちでは、《エフゲニー・オネーギン》の上演機会が圧倒的に多い。《スペードの女王》も有名だが、《オネーギン》ほどではない。《マゼッパ》となると、作品の存在さえ知らない人が多いだろう。後の2作も充実した傑作なのに、これはもったいない気がする。

だが、今年の11月から12月にかけて行われる、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラの日本ツアー「チャイコフスキー・フェスティバル」では、この知られていないほうの2曲、つまり歌劇《スペードの女王》と歌劇《マゼッパ》が演奏される。

サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場は、1783年に開設された帝室劇場に起源をもつ由緒ある劇場だ。チャイコフスキー本人ともゆかりが深く、《スペードの女王》はまさにこの劇場でが初演されているし、《マゼッパ》も、モスクワのボリショイ劇場で行われた初演のわずか4日後には上演されている。

そして、1988年からこの劇場の芸術監督を務めるゲルギエフは、両作品をすでに1990年代に録音しているほか、世界各地で指揮している。そんな彼らの演奏によって、日本にいながらこれらの傑作を聴けるのだ。こんなチャンスはめったにない。

子どもの頃、プーシキンの八行詩を暗記していたと話す。
©N.Ikegami

《スペードの女王》は、チャイコフスキーの最高傑作のひとつだ。賭博への情熱に取り憑かれた貧しい青年ゲルマン、謎めいた老伯爵夫人、そして、ゲルマンを愛したために悲劇的な運命に翻弄されるリーザなど、それぞれに陰がある個性的な登場人物を配し、3枚のカードの秘密をめぐるスリリングな物語が進んでいる。そして、それを彩るチャイコフスキーの音楽は、悲愴感があり、暗い興奮に満ちている。

《スペードの女王》マリインスキー劇場公演より
©N.Razina

ところで、この歌劇の原作は、プーシキンの書いた同名の短編小説なのだが、オペラを知った上でこれを読んでみるとちょっと驚く。歌劇のほうは、幽霊が舞台に現れるし、リーザも死んでしまうし、壮大でドラマティックな悲劇となっているのだが、原作では、幽霊は本当に出たのかゲルマンの妄想なのかわからないような書き方がされているし、リーザも死なず、別の人と結婚したという後日談が書かれている。

全体に、プーシキンの小説では、作家の視点が登場人物たちから一歩引いたところにあって、歌劇のような熱烈な調子はない。両方を読み比べると、起こっている出来事は同じでも、小説は小説らしく、オペラはオペラらしく意味づけがされているのがとても面白い。

台本は、ピョートルの弟で劇作家のモデスト・チャイコフスキー(1850–1916)による。
作曲者チャイコフスキー(中央)と、初演でゲルマン役を演じたニコライ・フィグネル(左)およびリーザ役を演じたメデア・マイ=フィグネル(右)《1890年撮影》サンクトペテルブルク初演(世界初演)1890年12月19日、場所はサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場。

残るひとつ、叙事詩『ポルタヴァ』に基づいて書かれた歌劇《マゼッパ》は、ロシア国外で演奏されることはめったにない。しかしこの作品は、チャイコフスキーが心血を注いで書き上げた、壮大で美しい傑作だ。

マゼッパことイヴァン・マゼーパは、17世紀後半から18世紀初頭にかけて活躍し、ウクライナに繁栄をもたらしたコサックの棟梁だ。彼は、当初ピョートル大帝の治めるロシアと同盟していたのだが、大北方戦争(強国だったスウェーデンと、ロシアを含む反スウェーデン諸国が戦った戦争)が起こると、ピョートルを裏切ってスウェーデン側に付く。しかしスウェーデン軍は大敗を喫し、マゼーパは逃亡、失意のうちに世を去る。

だが、プーシキンの詩で重要なテーマとなっているのは、マゼーパと、美しい若い娘マリーヤとの愛だ。マリーヤの父コチュベイは、年の離れた2人の愛に激怒し、マゼーパがロシアを裏切ろうとしていることをピョートル大帝に密告する。しかし大帝はそれを信じず、逆にコチュベイの処分をマゼーパに任せる。マゼーパはコチュベイを処刑してしまう。マリーヤはそれを知って正気を失う。

これがオペラでは、裏切りや戦争がさらに背景に退き、完全に、恋人マゼーパと父コチュベイの間で苦悩し、破滅するマリーヤの悲劇が主題となっている。原詩の最後では、マリーヤはどこかへ姿を消してしまっているのだが、オペラの最後には狂乱したマリーヤの長大な場面があり、うつろな目のマリーヤが歌う子守歌で全曲が閉じられる。

ゲルギエフは、《マゼッパ》に強い思い入れを持っているようだ。

©N.Ikegami

彼は記者会見で、「《マゼッパ》は、非常にドラマティックな歌手たちがいなければ良い演奏ができないので取り上げられる機会が少ないが、これは非常に力強い名作だ」と語った。ゲルギエフはまた、この作品は「オーケストレーションが豊かで劇的で、オーケストラの役割がとても大きい」とも言っている。

今回、《スペードの女王》は東京文化会館で舞台上演されるが、《マゼッパ》はサントリーホールで、コンサート形式で演奏される。もちろんオペラはオペラとして上演するのが本来の姿ではあるのだが、《マゼッパ》のような作品の場合、オーケストラがしっかり聴こえるコンサート形式の演奏はありがたい。チャイコフスキーが壮年期(交響曲第4番と第5番のあいだに書かれた!)に書いた意欲作をじっくり味わうことのできる、またとない機会をお見逃しなく。

マリインスキー歌劇場 チャイコフスキー・フェスティバル 2019
《スペードの女王》

公演日程: 2019年11月30日(土)15時[開場14時、終演予定18:30]

2019年12月1日(日)15時[開場14時、終演予定18:30]

会場:東京文化会館

指揮: ワレリー・ゲルギエフ(マリインスキー歌劇場芸術総監督)
管弦楽・合唱: マリインスキー歌劇場管弦楽団・合唱団
演出: アレクセイ・ステパニュク

《マゼッパ》

公演日程: 2019年12月2日(月)18時[開場17時20分、終演予定22:00]

会場:サントリーホール

指揮: ワレリー・ゲルギエフ(マリインスキー歌劇場芸術総監督)

管弦楽・合唱: マリインスキー歌劇場管弦楽団・合唱団

ナビゲーター
増田良介
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増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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