読みもの
2023.02.25
体感シェイクスピア! 第23回

『シンベリン』の隠れた名歌曲〜アガサ・クリスティも引用した葬送歌の魅力に迫る

文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第23回は『シンベリン』。シェイクスピア作品で既視感のある要素が多々あり、上演機会も少ない本作品ですが、第4幕第2場に登場する歌曲は、アガサ・クリスティをはじめ、錚々たる詩人や作家が引用してきた傑作なのです! ドーの絵画とフィンジの歌曲からも深掘りしてみましょう。

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

ジョージ・ドー《ベレーリアスの洞窟で発見されたイモジェン》(1809年頃、テイト美術館蔵)

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家族離散、身分違いの恋、ヒロインの男装……数多くのシェイクスピア作品の要素が詰め込まれた『シンベリン』

シェイクスピアや文学研究より、もっと観光やビジネスで役に立つ実用英語を——。

巷でよく聞く(耳の痛い)話。お説ごもっともで、シェイクスピア作品をいくら読んだり観たりしたところで、海外事情に明るくなれるわけでもなければ、他人様より儲かるわけでもない。それどころかシェイクスピアをまったく知らなくても、娯楽や英語学習の手段なら他にごまんとあるし、現実社会で立派に生きていくぶんには一向に差し支えない。

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ただし、知らなくても別に困らないが、知っていると案外助かって、ほっと安らげることもあるのがシェイクスピア。あるいは真の古典とはそうしたものなのか、アレンジ無限大の通奏低音として、今日のさまざまな事物の底流にかなりの確率で深々と横たわっているのがシェイクスピアなのである。

その良き一例となってくれそうなのが『シンベリン』。あまり上演されないせいでマイナーな作品かもしれないけれど、これはいかにもシェイクスピアらしいロマンス劇。古のブリテン島の王シンベリンの子どもたちが、親の勝手な都合で生き別れとなるも、それぞれ度重なる試練を乗り越え、最後は家族の再会と和解を果たすという悲劇のちハッピーエンドの物語である。

いかにもシェイクスピアらしい……といえば聞こえはいいが、はっきりいってしまうと、『シンベリン』にはどこかで見覚えがあるような既視感を覚えてやまない。それもそのはず。家族の離散という悲劇に始まり、森を舞台とした牧歌的場面を経て赦しと和解の大団円となる話の筋としては、『シンベリン』は本連載第21回で扱った『冬物語』に実によく似ている。あるいは芝居冒頭、シンベリンの美しい娘イモジェンが親の反対を押し切って身分違いのポステュマスと秘密裡に結婚し、その夫から貞節を疑われることで物語が展開することを考えれば、嫉妬の悲劇『オセロ』にもかなり似ているといえるだろう。

いや、『冬物語』や『オセロ』だけではない。フィディーリと名乗って男を装い、父王により追放された夫を追ってウェールズまで逃避行の旅に出たイモジェンは、かつて元貴族ベレーリアスに連れ去られ生き別れとなっていた兄ふたりと、道中そうとは知らずに運命の再会を果たす。それも束の間、今度は継母の王妃の策略により、飲んだ薬のせいで洞窟の中で仮死状態に陥ることになる(が、その後ちゃんと息を吹き返す)。これら途中経過も考慮に入れれば、『シンベリン』は本連載で扱ってきた数多くのシェイクスピア作品それぞれに、どこか似通っている。

たとえばヒロインの男装なら、『お気に召すまま』や『ヴェニスの商人』、それに『十二夜』で何度もお馴染みのパターン。薬をあおっての仮死状態に至っては、これはもう誰がどうみても『ロミオとジュリエット』に瓜二つ。

他作品との夥しい重複。くわえて正確な制作年代は不明ながら、シェイクピアの作家人生後期にあたる1611年の上演記録の存在。これらの事実に鑑みて、『シンベリン』を一種の総集編ないし要約的作品と位置づける研究者もいれば、「セルフ・パロディ」とまでいってのけるハロルド・ブルームのような批評家もいる(『シェイクスピアのロマンス劇』)。

20世紀を代表する文学研究者のひとりであったブルームは、一貫してシェイクスピアをもっとも主要な西洋文学、正典中の正典とみなしていた。しかしその彼ですら、『シンベリン』に関してはシェイクスピアの以前の作品やキャラクターを一部パロディ化したものと、擁護論としてはいささか苦しい説を唱え、後期の彼の「芸術への関心は恐らく衰えていたのだろう」と認めざるを得なかった。

別格の趣を漂わせる仮死状態のイモジェンを前に兄弟たちが歌う葬送歌

実際、古代ブリテン島にはまだ存在しないはずの貴族が登場したり、ヒロインの男装に物語構成上の意味がほとんどなかったりと、『シンベリン』は歴史やジェンダーの面で明らかな問題を抱えている。正直何より問題なのは、他作品に既出のモチーフが散りばめられているせいで、一種のマンネリズムが漂うこと。だから上演機会にもあまり恵まれない。

ただ、そのなかにあって別格の趣を漂わせ、前後の文脈と切り離して引用されることしばしばの輝きを放つのが、第4幕第2場に登場する歌曲である。近代イギリスの画家、ジョージ・ドーが《ベレーリアスの洞窟で発見されたイモジェン》で描いているように、薬のせいで仮死状態に陥った男装のイモジェンを前にして、本当に死んでしまったと思い込んだ兄弟たちが歌うこの挽歌だ。

Fear no more the heat o’ the sun,

Nor the furious winter’s rages;

Thou thy worldly task hast done,

Home art gone, and ta’en thy wages;

Golden lads and girls all must,

As chimney-sweepers, come to dust.

 

Fear no more the frown o’ the great;

Thou art past the tyrant’s stroke:

Care no more to clothe and eat;

To thee the reed is as the oak:

The sceptre, learning, physic, must

All follow this, and come to dust.

 

Fear no more the lightning-flash,

Nor the all-dreaded thunder-stone;

Fear not slander, censure rash;

Thou hast finished joy and moan;

All lovers young, all lovers must

Consign to thee, and come to dust.

 

No exorciser harm thee !

Nor no witchcraft charm thee !

Ghost unlaid forbear thee !

Nothing ill come near thee !

Quiet consummation have;

And renowned be thy grave !

 

もう恐れるなかれ 灼熱の太陽を、

吹きすさぶ冬の嵐も。

この世のつとめを為したお前は

家路につき、報酬(むくい)を得る。

輝ける若者も 乙女らも

煙突そうじの人のように 塵にかえる。

 

もう恐れるなかれ、お偉方のしかめた眉を。

暴君の一撃はもう お前には届かない。

もう案じるな 着るものも食べるものも。

お前にとっては なよやかな葦もオークの大木。

王様も、学者も、医者も

皆んなこうなる、塵にかえる

 

もう恐れるなかれ 光る稲妻を、

誰をも震え上がらせる雷鳴も。

中傷を恐れるな、分をわきまえぬ非難をも。

お前は 喜びも悲しみも味わい尽くした。

すべての若き恋人たち、恋する者すべてが

お前に倣って、塵にかえる。

 

悪魔祓いは祈祷をするな!

魔女は魔法をかけるな!

さまよえる亡霊は控えていろ!

悪しきものはいっさい近づくな!

今は静かに眠れ。

そして この墓に誉れあれ!

ジョージ・ドー《ベレーリアスの洞窟で発見されたイモジェン》(1809年頃、テイト美術館蔵)

ドーの絵が示すように、ウェールズの暗い峩々とした山中での、不幸な思い込みでしかないはずのこの場面は、意外にも『シンベリン』のなかでもっとも美しい。それはたぶん、ここに理屈を超えた人の真情というものが感じられるから。

旅の途中の少年フィディーリことイモジェンを見たとたん、血のつながった妹とは知らずに、「弟」のような不思議な親近感を覚えた実の兄ふたり。さすが人物描写を極めるべく解剖学まで学んだ画家ドーだけあって、画中のイモジェンは体の預けかたや首の角度、力なくだらりと下がる腕や指まで、まさに死んだように昏々と眠る人のそれ。同様の姿を目にしたために、兄弟たちもまだ生きているものを死んでしまったと勘違いしたわけだが、彼らはせめて亡母(本当は乳母であったベレーリアスの亡妻)のときと同じように、心を尽くして弔いたいと願った。そして声変わりをものともせず、少年の日に生みの母と信じてベレーリアスの妻を見送ったのと「同じ節、同じ歌詞」で、「もう恐れるなかれ 灼熱の太陽を」と歌いだすのである。

すなわち、『十二夜』の道化フェステや『お気に召すまま』の貴族アミアンズとは違って、主君や周囲に請われるでもなく、誰に命じられるでもなく、兄弟たちが目に見えぬ確かな絆に気づかぬままに、それに突き動かされて歌うのがこの葬送歌。だから、これまで紹介してきたシェイクスピアのどの歌曲よりも深く重く響きわたり、それでいて穏やかな安らぎに包まれる。

心揺さぶる詩行と整った詩形

重々しい挽歌に安らぎを覚える理由は、もちろん歌詞の内容にもある。この歌は死をいたずらに嘆き悲しむものではない。むしろ、あらゆる悲しみを克服する唯一の手立てとして、静かに受け容れるための道筋をつけているに等しい。

「輝ける若者も乙女らも」、「すべての若き恋人たち、恋する者すべてが」「塵にかえる」。そのとおりで、どんなに若くても美しくても、死はいつか訪れる。わざわざ自分から擦り寄っていかずとも、待っていればいつか必ず訪れて、わたしたちを苦しめるあらゆるものを取り除き、平等に、そして永遠に守ってくれるのが死だ。暑さ寒さはもちろん、「煙突そうじ」のように苦しいだけの仕事や、「王様」のように重たいばかりの責任からも。身勝手な権力者による制裁や、世間様の無責任な中傷からも。

だから、死が訪れても悲しまないで。それは解放の合図だから、もう恐れないで何も……と、死者に、遺された者に、そしてわたしたちに、詩人でもあったシェイクスピアは言葉を選び、整え、真摯に伝えてくれている。

芝居としては途中から兄弟がかわるがわる歌うかたちになっているが、事実上各6行・全4連からなる詩形からもそれは明らか。とくに各連の最後2行はすべて、カプレットと呼ばれる綺麗な二行連句(2行が続けて韻を踏んでいて、意味のうえでもひとつながりの文)になっている。二行連句の前の4行部分も、第3連までは1行おきに完璧に韻を踏み、最後の第4連にいたっては4行全部がthee! の語で終わる潔さ。

心揺さぶる詩行と整った詩形ゆえに、マンネリズム漂う『シンベリン』のなかにあって、この歌は抜群に印象に残る。ヴァージニア・ウルフやT.S. エリオット等、後世の錚々たる詩人や作家に引用されてきたのもむべなるかな。

アガサ・クリスティも小説『死との約束』の最後に引用

ただし、『シンベリン』にもっとも大きな影響と恩恵を受けている後世の作家は、もしかすると「ミステリーの女王」アガサ・クリスティかもしれない。名探偵ポワロが富豪ボイントン夫人殺害事件の謎を解く小説『死との約束』のラストは、《もう恐れるなかれ、灼熱の太陽を》の冒頭4行の引用で締めくくられている。横暴な母親だったボイントン夫人の死により、彼女の支配からようやく解放されたボイントン家の次女ジネヴラが、「お母さんは可哀想な人だった」とその一生を振り返り、シェイクスピアの詩を暗唱するのだ。優しく、震えるように。

次女にかぎらずボイントン家の子どもたちは皆、今風にいえば「毒親」のボイントン夫人から精神的虐待を受けて育った犠牲者だった。そして、殺人というひどく不幸な形ではあったものの、夫人の死を経てそれぞれがようやく自由と幸福を手に入れる。

このクリスティの『死との約束』のプロットは、親の気まぐれで苦労した子どもらが最後に幸せになる『シンベリン』にある意味そっくり。そう考えると、劇中もっとも有名な歌を最後の最後で引用するというのは、小説自体の種明かしそのものだ。デイヴィッド・スーシェ主演の人気TVドラマシリーズでは改変多々で、『シンベリン』からの引用は見事にカットされているが、これは痛恨の極み。クリスティの原作における「もう恐れるなかれ」のエピローグは、単に歌詞の内容ゆえではなく、シェイクスピアへの大いなるオマージュとして小説の最後に置かれているに違いないのだから。

歌詞の内省的内容を際立たせた20世紀イギリスの「音の詩人」フィンジ

シェイクスピアの書いたもっとも美しい挽歌であり、ゆえに後世の才能と響き合ってやまない《もう恐れるなかれ 灼熱の太陽を》。これを戯曲から切り離した純粋な声楽として、つまり音楽そのものとして、過去や同世代の誰より粛々と完成させたのは、20世紀イギリスの「音の詩人」ジェラルド・フィンジだろう。

原作では兄と弟がかわるがわる歌うこの歌を、フィンジはバリトンのソロにして、シェイクスピア歌曲集『さあ花冠を(Let Us Garlands Bring)』に収めた。ふたりではなくひとりの独唱、そして高すぎず低すぎない心地よい男声のなせる業か、フィンジの曲で聴くと歌詞の内省的内容が一層際立つ。

ソステヌート(sostenuto)で始まる冒頭部、抑制を効かせた少し弱めのピアノが奏でる調べも、フィンジの代表曲『エクローグ』をどこか髣髴とさせる優しさと穏やかさだ。しかし、曲調は歌詞と相まって次第に重々しさを増し、件の「塵にかえる」の二行連句で繰り返し厳かに締めくくられてゆく。あたかも、愛する人たちを失い続けるのが人生であるかのように。

幼時に父と死別したのを皮切りに、戦争で大事な恩師や兄たちを次々と亡くし、自身も音楽家として世界的名声を博する機会を奪われ、南イングランドでリンゴ作りに励みながら作曲を続けたフィンジ。彼の音楽には、そこはかとない死の匂いと、何かを諦めた人間特有の枯れた優しさとが、常に一緒になってつきまとう。

けれど、死を見つめることで生まれるその哀しい美しさは、彼が愛してやまなかったトマス・ハーディーやクリスティーナ・ロセッティ、ウィリアム・ワーズワスらの優れた抒情詩と同じもの。そして、彼らのはるか先を歩いていたシェイクスピアの詩とも同じだ。フィンジの音楽もまたイギリスの詩歌そのもので、「もう恐れるなかれ」と、向き合うたびに人生の安息を与えてくれる。

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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

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