読みもの
2023.01.31
体感シェイクスピア! 第22回

『お気に召すまま』の“この世は舞台”という名セリフが表すシェイクスピアの世界観

文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第22回は『お気に召すまま』を名セリフから読み解きます。ウィリアム・ホッジズの絵画とクィルターの歌曲から見えてくるシェイクスピアの世界観とは?

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

ウィリアム・ホッジズ《ジェイクイズと手負いの牡鹿》(1790年、イェール大学英国美術研究センター蔵)

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名セリフの語り手は意外と知られていない脇役・ジェイクイズ

この世はすべて ひとつの舞台、

男も女も 人はみな役者に過ぎぬ。

All the world’s a stage,

And all the men and women merely players:

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これはシェイクスピアの喜劇『お気に召すまま』に登場する大変有名なセリフ。誰もがどこかで聞いたことがあるような、「シェイクスピアの名言」の最たるものといっていい。

世界は劇場、人間は役者——。いかにも芝居が生業のシェイクスピアらしい率直な比喩は、説得力大でわかりやすく、そのままストンと腑に落ち印象に残る。しかし、これが果たして誰のセリフなのかは、案外知られていないというか、にわかには思い出せない人も多いのではないだろうか。

無理もない。「生きるべきか死ぬべきか」を筆頭に、シェイクスピアの名セリフは、主役のそれがほとんど。けれど『お気に召すまま』第2幕第7場で「この世はすべてひとつの舞台」と語るのは、邪悪な兄に迫害されながらも懸命に生きる主人公オーランドーでもなければ、彼の恋人となる男装のヒロインのロザリンドでもない。

この世は舞台というシェイクスピアの名言の語り手は、とことん斜に構えた脇役のジェイクイズなる登場人物。彼はロザリンドの父である追放された前公爵に仕える身の上で、実の弟に領地を奪われアーデンの森に移り住んだ前公爵に付き従い、華やかな宮廷を去った廷臣のひとり。忠義者といえば忠義者だ。

しかし実のところ、ジェイクイズは忠義者というよりは変わり者。少なくとも芝居の第2幕第1場、仲間たちが目撃し前公爵に語って聞かせる「憂鬱なジェイクイズ(The melancholy Jaques)」の様子は、いわゆる折り目正しい、どこに出しても恥ずかしくない忠臣のそれとはかなり異なる。

毒舌が止まらないジェイクイズ

同場面を絵画化した18世紀イギリスの画家、ウィリアム・ホッジズの《ジェイクイズと手負いの牡鹿》を見ればよくわかる。画面右前景、男がひとり森の木陰の川べりに身を横たえ、狩りの矢で傷を負い、群れからはぐれて川で四肢を休める牡鹿をじーっと、ずーっと見つめている。己のその姿を、背後から仲間たちに見られているのもまるで気づかずに……。これがジェイクイズ、そして彼の日常のひとコマだ。

ウィリアム・ホッジズ《ジェイクイズと手負いの牡鹿》(1790年、イェール大学英国美術研究センター蔵)

しかし、ひとしきり思索したあと、毒を吐かずにいられないのがジェイクイズなのである。それも一言二言ではなく、よくもまあというレベルで次から次へポンポンと……。なので、主君である前公爵にはひたすら面白がられ、周囲には呆れ返られるばかり。

実際、矢で傷を負った鹿を前にしたジェイクイズは、自分たちを養うためにこんな鹿狩りをする前公爵はひどいと、これではある意味「簒奪者(さんだつしゃ)」で、欲しいままにすべてを奪う悪辣な現公爵の弟君と同じではないか、とやにわに毒づき出す。

主君に対して明らかに言葉が過ぎるが、まだ毒舌は止まらない。次は瀕死の牡鹿に対する他の鹿たちの無関心ぶりを己が人間世界に重ね合わせ、「まさに今風だな」と吐き捨てるように揶揄するのだから、「憂鬱なジェイクイズ」は世にも皮肉な諷刺家にして厭世家。逆境にあっても決して世を拗ねることなく、吹き付ける冬の風をも「一切の追従なし」に「今の自分の姿を教えてくれる」と真摯に受け止め、「この生活を変えようとは思わぬ」とまで語る前向きな前公爵とはすこぶる対照的だ。

どんな明るい曲でも後ろ向きになるジェイクイズ

実際、ジェイクイズは何事にも後ろ向きで、仲間のひとりアミアンズが歌うこんな素朴な牧歌からも、「イタチが卵の中身を吸い取るように」、つまりはごくしぜんに憂鬱な気分を汲み取れるとうそぶく始末。

Under the greenwood tree

Who loves to lie with me,

And turn his merry note

Unto the sweet bird’s throat,

Come hither, come hither, come hither:

Here shall he see

No enemy

But winter and rough weather.

 

Who doth ambition shun,

And loves to live i’ the sun,

Seeking the food he eats,

And pleas’d with what he gets,

Come hither,come hither,come hither:

Here shall he see

No enemy

But winter and rough weather.

 

緑の森の木のしたで

ともに寝そべり

楽しい歌を

鳥の声に合わせて歌いたきゃ

ここへ、ここへ、ここへおいでよ。

ここにはいないよ

敵なんて

冬のひどい天気は別だけど。

 

野心を捨てて

お天道様の下で暮らして

食べるものも自分で見つけて、

足るを知って喜べるんなら、

ここへ、ここへ、ここへおいでよ。

ここにはいないよ

敵なんて

冬のひどい天気は別だけど。

「緑の森の木のしたで」とはじまるこの歌は、近現代イギリス歌曲の王ロジャー・クィルターが《5つのシェイクスピア歌曲》(1921年)でとびきり陽気な曲をつけているせいもあり、何とものどかで楽しい歌に聴こえる。でも本当にそれだけだろうか。

なるほど、全体としてはたしかに田園生活を謳歌する喜びが歌われてはいる。しかし、1番はともかく2番までくると、もはや足るを知るしかあるまいに……というくだりが何とも切ない。繰り返しのサビの部分も、よく考えれば惨めな話で、今や世の中の最前線から退いて、敵もいなけりゃ冬の寒さをしのぐ手だてもないというわけである。これは正直、煌びやかな名前も過去も何もかも失くした追放者が、自分で自分を慰めるための歌だろう。

ロジャー・クィルター:《5つのシェイクスピア歌曲》より「緑の森の木のしたで」

元は立派な廷臣だったアミアンズにもっともっと! とせがんで、1番だけでなく2番まできっちり歌わせたジェイクイズに二言はない。たしかに彼はどんな歌からも憂鬱を引き出し、人をげんなりさせる能力に長けている。その後自分でも、「ここへ来れば大馬鹿どもに出会えるさ」という一節を含む詩を披露するのだから、意地悪で自虐的な皮肉屋だ。

でも、そんなジェイクイズだからこそ見えるものがある。言える言葉がある。都ではなく森に、この世の中心ではなく片隅にいて初めて気づけることがあり、嘘偽りなく書けることがあるように——。

前公爵のひとことが名セリフを引き立たせる

「この世はすべてひとつの舞台、男も女も人はみな役者に過ぎぬ」。あらためて振り返ってみれば、これは巧みでありながら、いささか厭世的な響きの比喩だ。この直後に続く「それぞれに出があり引っ込みがある(They have their exits and their entrances)」というセリフも、最初から最後までほとんど出ずっぱりで恋の駆け引きに忙しいオーランドーやロザリンドではなく、第2幕になって初めて登場し、第3幕ではそれこそ出たり引っ込んだりする脇のジェイクイズであればこそ、現実味があってサマになる。

ウォルター・デヴァレル《結婚の誓いの練習をするオーランド―とロザリンド》(1850年、バーミンガム市立美術館蔵)
第4幕第1場、男装し正体を隠したままのロザリンド(右)がオーランドー(左)と森で結婚式の練習をする様子。従姉妹のシーリア(中央)が司祭役。

さらに、このあとに長々と続く、人生を赤ん坊から老人までの7つの時代に分け、喧嘩っ早い兵隊や太鼓腹の裁判官に次々と譬えてゆく一連のくだりなど、すっかり人生の現役を降り、醒めた目で世を拗ね眺める「憂鬱なジェイクイズ」ならではの芸当だろう。

ただし、皮肉や諷刺も一種の情熱で、対象が必要。恋に相手が必要なように、皮肉も諷刺もそれだけでは決して存在し得ず、対象となる誰かや何か、あるいは先行する知見があって初めて成り立つ。

事実、「この世は舞台」という厭世的な響きの名セリフにしたって、前公爵という先導者がいなければ、ジェイクイズがこれを語り出すことはなかった。というのも、このセリフの直前には「見るがよい、不幸なのは我々だけではない。この世という広大な劇場(This wide and universal theatre)では、もっと悲惨な見世物が演じられている」と、ジェイクイズに先んじて世界を劇場に譬える前公爵の決定的なセリフが置かれているのである。

見るがよい……とは、誰を指してのことかというと、兄の迫害を逃れ、老僕ひとりを連れて食うや食わずで森にやってきたオーランドー。空腹で理性を失ったオーランドーに、何か食べ物をよこせと剣を抜いて迫られた前公爵は、それなら共に食べようと、やはり空腹で死にそうになっている老僕もここに連れてくればいいと優しく答える。そして自らの非を悔い、感謝しきりでいったんその場を後にするオーランドーの背中を見送りながら「不幸なのは我々だけではない」と、人間世界の不変の真理をポツリと呟くのだ。ジェイクイズはそれを聞いて、件の名セリフを語り出す。

したがって、この世は舞台という比喩そのものは、直前の前公爵のセリフを受けてジェイクイズが繰り出したもの。一言一句同じというわけではないけれど、「この世はすべてひとつの舞台」とは事実上のオウム返しなのであって、前公爵の存在なくしてこの名言の存在はない。

光があって影ができるように、前公爵という至極真っ当な人間がいればこそ、変わり者ジェイクイズの機知もはたと閃き、横から斜めから、自由自在に世を拗ねることができる。

アミアンズが歌う生の讃歌をクィルターの旋律で聴く

ジェイクイズだけではない。前公爵に促されるようにして力を発揮し、わたしたちに大事なことを告げ知らせるのは、既に紹介した仲間のアミアンズも実は同じ。

シェイクスピアの戯曲のなかでも歌や楽曲が多く、音楽的要素が強い『お気に召すまま』において、人知れず重要な役割を担っているのがアミアンズ。一見のどかで牧歌的ながら、本当のところは追放者の慰めの歌である「緑の森の木のしたで」を歌うのが彼であることは先述のとおりだが、第2幕の最後でもう一曲、「吹けよ、吹け、冬の風」という歌も披露する。

Blow, blow thou winter wind,

Thou art not so unkind

As man’s ingratitude;

Thy tooth is not so keen

Because thou art not seen,

Although thy breath be rude.

Heigh ho! sing heigh ho! unto the green holly:

Most friendship is feigning, most loving mere folly.

Then, heigh ho! the holly!

This life is most jolly.

 

Freeze, freeze thou bitter sky,

Thou dost not bite so nigh

As benefits forgot:

Though thou the waters warp,

Thy sting is not so sharp

As friend remember’d not.

Heigh ho! sing heigh ho! unto the green holly:

Most friendship is feigning, most loving mere folly.

Then, heigh ho! the holly!

This life is most jolly.

 

吹けよ、吹け、冬の風、

おまえはそんなに冷たくはない

恩知らずほど薄情ではない。

おまえの歯はそんなに鋭くはない

だって 目には見えぬから、

吐く息は 荒くとも。

ヘイホー! ヘイホー! 歌え緑のヒイラギに、

たいてい友情なんてうわべだけ、恋なんて気の迷い。

だから、ヘイホー! ヒイラギ!

この生活がいちばん楽しい。

 

凍れよ、凍れ、冷たい空よ、

おまえはそんなに近くから 噛みつけやしない

忘れられた恩ほどには。

おまえは水を凍らせ水面をひずませるけれど

その棘はそんなに痛くはない

友が 忘れられてしまうほどには。

ヘイホー! ヘイホー! 歌え緑のヒイラギに、

たいてい友情なんてうわべだけ、恋なんて気の迷い。

だから、ヘイホー! ヒイラギ!

この生活がいちばん楽しい。

「吹けよ、吹け、冬の風」と、あたかもリア王のような悲劇調で始まるこの歌は、飢餓状態で森に現れたオーランドーと老僕をもてなすべく、前公爵に「1曲歌え」といわれてアミアンズが歌うもの。やはりクィルターが曲をつけていて、1905年の《3つのシェイクスピア歌曲》に収録されている。

同歌曲集に収められている他の2曲は、本連載第10回で取り上げた『十二夜』に登場する「来たれ死よ(Come away death)」と「おお僕の恋人(O mistress mine)」。どちらも歌い手は道化のフェステで、前者は哀しい響きの失恋ソング、後者は酔っ払いたちにせがまれて歌う「今」を楽しもうという軽快な恋の歌。

これら2つの歌のあと、《3つのシェイクスピア歌曲》の最後に置かれているのが『お気に召すまま』からの1曲、「吹けよ、吹け、冬の風」なのである。生涯に100曲以上の歌曲をのこしたクィルターのこと、最後の1曲だけ毛並みの違う構成にまるで意味がないとは思えない。

クィルター《3つのシェイクスピア歌曲》

「吹けよ、吹け、冬の風」は出だしから薄情な世を嘆いてはいるし、サビの部分でも「友情なんてうわべだけ、恋なんて気の迷い」と、まあまあニヒルを気取ってはいる。けれどこの歌は前の2曲と違って、決して暗くもなければ軽くもない。それはのっけからフォルテで響く重たげなピアノパートが尾を引きながらも、「ヘイホー!」の掛け声とともに曲調が一気に明るく転じ、「この生活がいちばん楽しい」とそのまま陽気に締めくくられるから。

くわえて今いちど最初から最後までよく見なおせば、歌詞全体が目の前の現状を決して否定することなく、あるがまま受け容れる内容となっている。これは「来たれ死よ」や「おお僕の恋人」よりはるかに地に足のついた、眼前の現実受容の歌。これからも生きていくための、さりげなくも力強い自己肯定感に満ちた生の讃歌にほかならない。

この歌でオーランドーが森の新入りとして歓迎され、前公爵の娘であるロザリンドもまた男に身をやつして森にやってきて、やがて不当に虐げられた追放者たち全員の別天地となるのがアーデンの森。事実、父娘の再会に恋の成就、兄弟の和解のすべてが森で叶い、物語はハッピーエンドへ向かってゆく。

すなわち、世界は舞台で、人間は役者であり、森はこの世のどこか片隅にあっていつかたどり着く慰撫(いぶ)と再生の地——これがシェイクスピアの世界観。『お気に召すまま』でそれを体現するのは、前公爵より誰よりジェイクイズだ。なぜなら芝居の最後、前公爵が弟と和解し地位を回復して宮廷に戻ることになっても、彼は森の洞窟に残る道を選ぶ。

今さら浮かれ騒ぎは見たくない、というのが表向きの理由。だが本音では「ヘイホー、ヒイラギ! この生活が一番楽しい」と、世界の片隅からしか見えないものを見て、毒を吐いていたいのだ。前公爵からも誰からも、今度こそ何もかもから自由になって。

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

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