読みもの
2025.07.29
オペラになった歴史のヒロイン#13(最終回)

R.シュトラウス《エレクトラ》~現代のヒロインとなったギリシャ神話の伝説的人物

オペラには、歴史に実在した有名な女性が数多く登場します。彼女たちはオペラを通じて、どのようなヒロインに変貌したのでしょうか? 最終回の主人公は、リヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》の題名役となったギリシャ神話の伝説的人物。オペラにおいて、どのようにして現代に通ずるヒロインとなったのでしょうか?

加藤浩子
加藤浩子 音楽物書き

東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン...

フレデリック・レイトン「アガメムノンの墓前のエレクトラ」(1869)

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エレクトラ

 

ミケーネの王女。アガメムノンとクリュタイムネストラの娘。母が愛人のアイギストスと組んで父を殺したので母を憎み、弟のオレステスを手伝って復讐を果たす。

 

エレクトラが実在したかどうかは不明だが、古代ギリシャ劇では人気のキャラクターで、「三大詩人」(アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス)の全員によって劇化された。オペラはエレクトラの心理により切り込んだソポクレスの『エレクトラ』に基づいている。

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「エレクトラ・コンプレックス」に名を残すギリシャ神話の人物

「エレクトラ・コンプレックス」という言葉をご存じだろうか。

女の子が、父に異性としての愛を抱き、ライバルである母を憎む、という傾向だ。このような心理傾向を最初に指摘したのは、世紀末のウィーンで活躍した心理学者、ジークムント・フロイトである。

ちなみに男の子が母に異性愛を抱き、父を憎む傾向を「エディプス・コンプレックス」という。

「エレクトラ」も「エディプス」も、ギリシャ神話の伝説的な人物である。エレクトラは父を殺した母を殺し、エディプス(オイディプス)は父を殺して母と交わる。ただしオイディプスは何も知らないでそうなってしまったのだが。

だがエレクトラは明確に父を愛し、母を憎んだ。紀元前5世紀のギリシャ悲劇に描かれたその心理は、2000年以上経ってもモダンだったのである。

母に殺された傲慢な父

エレクトラの「父」は、ミケーネの王アガメムノンである。古代ギリシャを代表する都市国家ミケーネの全盛期の王の一人で、トロイア戦争ではギリシャ側の総大将を務めた、「王の中の王」とも呼ばれる人物だ。

だがアガメムノンが人間として立派だったか、と言われればそうではない。カリスマ性はあったが気性が激しく傲慢で、神々や人間との間にトラブルが絶えなかった。

妻に殺されるという無惨な死に方も、彼自身の傲慢さが招いたものである。トロイア開戦を前に、ギリシャ勢が集まっていたアウリスで狩猟に出かけたアガメムノンは、狩りの女神アルテミスに仕える聖なる鹿を殺してしまった。

怒った女神は風を止め、ギリシャ軍が出航できないようにしてしまう。アルテミスは、アガメムノンの長女イピゲネイアを生贄に要求した。イピゲネイアは泣く泣く父の求めに従うが、これに激怒したのが妃のクリュタイムネストラである。

愛娘を殺された(実際は絶命する直前に女神にさらわれた)ことを恨んだクリュタイムネストラは、アガメムノンの不在中にいとこのアイギストスと恋仲になり、彼の助けを借りて、凱旋してきたアガメムノンを風呂場に連れ込んで殺害に及んだ。すべては、アガメムノンの不遜さから発したことだった。

眠るアガメムノンの殺害をアイギストスに促され、ためらうクリュタイムネストラ

血塗られたアガメムノン一族

アガメムノンの悲劇には前段がある。そもそも彼とクリュタイムネストラの結婚は、最初から血塗られたものだった。

クリュタイムネストラは、トロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレネの異父姉であり、その美しさに目が眩んだアガメムノンは、彼女の夫である従兄弟のタンタロスを殺してクリュタイムネストラを強引に娶る。

クリュタイムネストラ(ジョン・コリア画)

クリュタイムネストラの愛人になったアイギストスも、アガメムノンには恨みがあった。彼の父テュエステスはアガメムノンの父アトレウスの弟だったが、兄弟は王座を巡って争い、またテュエステスはアトレウスの妻アエロペと関係を持ったため、激怒したアトレウスはテュエステスの子どもたちを殺して料理し、弟に食べさせるという非道に出る。

逃亡したテュエステスは神託を伺い、娘と交わって子どもを産ませればその子が復讐を果たすと告げられ、巫女だった娘ペロピアを犯してアイギストスを産ませた。

長じたアイギストスはアトレウスを殺して父の仇を討つが、ミケーネの王座はアトレウスの息子アガメムノンが継いだため、アイギストスは王座を奪う機会をうかがっていたのだった。クリュタイムネストラと通じたのは、その野望を果たすためでもあった。

だがアガメムノンを殺したことでアイギストスもまた仇討ちの対象となり、オレステスによって殺されてしまうのである。

アガメムノンの悲劇を作品化したギリシャ3詩人

なんとも凄まじい話である。「復讐」は当時の氏族社会では是とされていたが、これでは止まることを知らない。

アガメムノン王家の悲劇は、紀元前5世紀に全盛期をむかえた古代ギリシャ劇の三大詩人、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスによってそれぞれ劇化された。切り口も取り上げる人物もそれぞれ異なるが、復讐の連鎖を断ち切ろうと試みたのはアイスキュロスである。

アイスキュロスは、『仁慈なる女神たち』で、母殺しの罪で復讐の女神たちに追われているオレステスを裁判の場に引き出し、神アポロや女神アテナの助けも借りてオレステスを勝たせた。しかし裁判官の票は半々に割れた。「復讐」を支持するか「母殺し」を糾弾するか、意見が分かれたのである。

とはいえ「裁判」という形で復讐の連鎖を終わらせたのは画期的だった。当時のギリシャ劇は、アテネ市民の教育の場でもあったが、「裁判」を通じて復讐と母殺しを天秤にかけたのはかつてない考え方だったのである。

エレクトラは三大詩人全員が詠んでいるが、作者によってキャラクターが異なるのが興味深い。

アイスキュロスは復讐劇の中心をオレステスに据え、エレクトラはどちらかというと脇役だ。一方エウリピデスは、復讐を恐れたクリュタイムネストラが、エレクトラを貧しい農夫に嫁がせるという設定にした。仇討ちをはたした後、エレクトラにはオレステスの親友ピュラーデスと結婚せよという神託が下りる。烈女もここではかなり柔らかいのである。

ちなみにエウリピデスは、生贄にされた(実は女神に救われた)エレクトラの姉イピゲネイアをめぐる劇を二つ書いており、いずれもグルックによってオペラ化されている(『アウリスのイピゲネイア』および『タウリスのイピゲネイア』)。二つともグルックの円熟期を飾る作品で、古典的な格調高さとドラマティックな場面が融合した傑作だ。

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)

▼グルック『アウリスのイピゲネイア』

▼グルック『タウリスのイピゲネイア』

R.シュトラウス《エレクトラ》におけるヒロイン像

だがソポクレスは、『エレクトラ』で彼女を完全な主役にし、父を愛し、母を憎み、復讐に燃える心理をドラマティックに描いた。他の作品では重要な役割を果たす、オレステスの母殺しへの葛藤も削られている。

フーゴ・フォン・ホーフマンスタールはそこに惹かれた。ホーフマンスタールはソポクレス作品を戯曲に翻案する。この中でエレクトラは各登場人物と順番に対峙し、自分の心を剥き出しにしていく。その息詰まる心理描写は、フロイトを通じて「人間の心理」への興味が高まっていた時代と無関係ではない。

フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)

ソポクレスではエレクトラは死なない。だがシュトラウスのオペラでは、エレクトラは歓喜のあまり踊りまくって息絶える。激烈な音楽と強烈なセリフで描き尽くされるエレクトラの母への「憎しみ」と父への「愛」は、「エレクトラ・コンプレックス」の源を、圧倒的な形で納得させてくれるのである。

リヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》のあらすじ

(劇中の固有名詞は、ギリシャ劇で慣例的に使われるものに従う)

古代ギリシャのミケーネ。トロイア戦争のギリシャ側の総大将としてギリシャ軍を率いたミケーネの王アガメムノンは、開戦を前に自らが起こした不祥事のため、娘のイピゲネイアを生贄に要求された。

アガメムノンの妻クリュタイムネストラはそれを恨み、またアガメムノンの留守中に情を通じたアイギストスと共謀して、凱旋したアガメムノンを殺害する。

王家の次女エレクトラは復讐を志して弟のオレステスを国外に逃し、自分は家に残って機会をうかがっていた。不眠に悩まされるクリュタイムネストラに助言を求められたエレクトラは、死んでしまえと母を罵る。

そこへオレステスが死んだという噂が届いた。絶望したエレクトラは妹のクリュソテミスを引き込んで復讐を果たそうとするが拒否され、では一人で志を果たすとアガメムノンの命を奪った斧を掘り起こす。

だがオレステスは生きていた。姉弟は再会し、オレステスは復讐を果たす。エレクトラは狂喜のあまり踊り出し、倒れて絶命する。

【リヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》必聴アリア】

♪第1幕「ひとりぼっちだ!」:エレクトラ登場のモノローグ。父への思いを吐露する

♪第1幕「私は夜も落ち落ち眠れない」:エレクトラとクリュタイムネストラの息詰まる対話

♪第2幕「エレクトラ、姉さま!」:オレステスが復讐を遂げた後のフィナーレ

 

加藤浩子
加藤浩子 音楽物書き

東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン...

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