読みもの
2023.08.11

鈴木淳史の「なぜかクラシックを聴いている」#1 雲を眺めるように変奏曲を聴く

音楽評論家の鈴木淳史さんが、クラシック音楽との気ままなつきあいかたをご提案。膨大な音源の中から何を聴いたら分からない、という方へ。まずは五感をひらいて、音のうつろいにゆったりと身を委ねてみませんか?

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...

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クラシック音楽がなぜ好きなんだろう

数あるジャンルのなかで、お前さんはなぜクラシック音楽を聴いておるのか、などと尋ねられることがある。余の返答はこうだ。まあ、色々と理由はあるかもしんないけど、帰するところは自分がアホだからじゃないですかね?

こんなことを書くと、わしもクラシックを聴くが、お前と一緒のアホでなはい、と憤る人だっておられるだろうが、これはあくまでも個人的なケースだ。さまざまな人がいるなかで、こんな人もおるのだ、ということを示しているにすぎぬ。

阿呆者たる余が、なぜクラシック音楽を好むかと申すと、ひたすら面倒なものを好まぬということに尽きよう。まず、歌詞があるものはいけない。言葉の意味が強くて、音楽がすんなり頭のなかに入ってこない。たとえ歌詞があっても、外国語だったりして、意味がダイレクトに伝わってこないほうがよい。

ライヴに行くと、それが当たり前のように踊らされるのも面倒だ。オタ芸などと称して、こちらからアクションを起こすのも御免蒙る。椅子に腰掛け、のんびりだらけきって、ひたすらチルしてたい。

ちょっとずつ変わっていくものを頭を空っぽにして眺めているのが好きな性分だ。遠くに見える山の色調が変わっていったり、木の枝が風で揺れていたりするのを、アホな顔をしたままボーッと見ているときの至福感。音の色合いが変わっていくさまや、メロディが転調したり崩れていくのを耳にしているのと同じように。

だったら、風がそよぐ音や、工場の機械音などを堪能してればいいんじゃね? などとアドバイスなさる方もでてこよう。さよう、そうした音に耳を傾けていることも多いのだけれど、やはり人間が設計し、人間が奏でているところに、面白味がある。楽譜という同一のメディアを媒体にしているのに、演奏家によって音楽の印象がガラリと変わってしまうのも、じつに楽しい。

それも3分や4分で終わってしまうのではなく、なるべくなら、長い時間そういう気分を味わっていたいと思う。こうなると、音楽を聴くなら、やはりクラシックということになってしまうわけで。

変奏曲を弾かせたらこの人

そのなかでも、変奏曲というジャンルにはとりわけ愛着を覚える。もとになる主題があり、そのリズムや拍子、和声などが次々と変わり、装飾をまとったりもしつつ、それらが綿々と連なっていく形式だ。パラパラ漫画的な興趣もある。

かねてから変奏曲を弾かせたらこの人と思っていたピアニスト、セドリック・ティベルギアンが、変奏曲をテーマにしたシリーズを開始した。第1弾はベートーヴェン、モーツァルト、シューマン、ウェーベルンの作品を集め、変奏曲の奥深さを余すところなく伝えてくれる。

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ティベルギアンは、それぞれの変奏の縁取りをきっちり描く。リズムや音色を精妙に弾き分ける。ただ、変奏の一つひとつに過剰なキャラを与えることはしない。強烈なギアチェンジを繰り返しながら、畳みかけるような流れを作ることもない。どちらかといえば、落ち着いたアダルトな演奏といったらいいか。

細やかな変化に身を委ねていく心地良さ

ふっと力が抜けきったようなベートーヴェンの《エロイカの主題による変奏曲》が、異彩を放つ。しんみりとした表情で始まる序奏には、声部の重なりを立体的に聴かせようという演奏家の心意気がよく現れている。なんといっても、各変奏の変化の妙をじっくり味わえる演奏だ。一つひとつの細やかな変化に身を委ねていく心地良さ。日常的な細やかな差異――武田百合子の『富士日記』を読み進めていくような心地に近い。

 

武田百合子の『富士日記』は、夫で小説家の武田泰淳、娘との3人で富士山荘ですごした日々を綴った日記。とりたてて大きな事件が起こることもなく、日々の出来事、献立や天気などが淡々と書かれているが、書き手の奔放な人柄がやんわりと伝わってくる文章に、不思議な中毒性がある

即興性豊かなベートーヴェンの才能がもっとも発揮されたのが変奏曲だ。彼が若い頃に書いた作品もこのアルバムには収められているのだけれど、こちらはどうも勢いのなさが目立ってしまう。若さゆえのギラギラ感よりも、しっかりくっきり、時間をかけて個々の変奏の差異を丁寧に描いていきましょうよ、という方針らしい。評価がわかれるところだが、その優雅な時間の流れが、余にはたまらなく素敵に思われる。その背景に、ベートーヴェンの野望がちらりと顔を覗かせるのもいい。

それはウェーベルンの変奏曲でも同じ。こちらは12音技法による、すこぶる把握しにくい主題(音列)なのだけれど、それが形があるようなないような、雲が流れていくかのごとくの変化が風流そのものである。ひんやりとした抒情性も伴って。

そして、シューマン。アルバム最後に収められた《主題と変奏》(最後の楽想による幻覚の変奏曲)は作曲家最後の作品だ。どこか変奏曲らしからぬ、不思議なまでに落ち着いた質感。ボーッとその音に浸っているだけで、内面にぐいぐいと食い込こんでくる。じつにヤバい音楽である。

鈴木淳史
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1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...

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