《クロイツェル》の魔力〜天才の傑作が連鎖反応を引き起こす
人気音楽ジャーナリスト・飯尾洋一さんが、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム。第2回は、音楽史と文学史に名を残した《クロイツェル・ソナタ》。傑作が傑作を呼ぶ、幸福な連鎖反応のきっかけとなった人物は、実は――!? 古典文学の名作に迫ります。
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
クロイツェルの名は永遠に
天才による傑作が、また別の天才にインスピレーションを与えて新たな傑作を生む。そんな幸福な連鎖反応の例として、ベートーヴェンの《クロイツェル・ソナタ》ほどふさわしい例はないだろう。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調《クロイツェル》は1802年から03年にかけて作曲された。クロイツェルとは作品を献呈された名ヴァイオリニストの名前である。作曲者によって「ほとんど協奏曲のように、きわめて協奏風なスタイルで書かれた」と記されたこの曲では、ヴァイオリニストとピアニストが対等な関係で向き合って、ひとつの音楽を作り出す。
緊張感にあふれたスリリングな曲想が影響してのことだろう、この曲に触発されて、ロシアの文豪トルストイは中篇小説『クロイツェル・ソナタ』を書いた。長距離列車のなかでたまたま乗り合わせた乗客による告白という形をとったこの物語では、主人公の妻が《クロイツェル・ソナタ》を共演したヴァイオリニストと恋に落ちる。嫉妬と妄念に苦しむ主人公はやがて妻を刺し殺すことになるのだが、《クロイツェル・ソナタ》の演奏場面を慄きながら思い起こす場面は、まるで音楽論を唱えているかのようだ。
「よく音楽は精神を高める作用をするなどと言われますが、あれはでたらめです、嘘ですよ! 音楽は確かに人間に作用する、それもおそろしく作用します。(中略)音楽は私にわれを忘れさせ、自分の本当の状態を忘れさせ、何か別の、異質な世界へと移し変えてしまうのです」(望月哲男訳/光文社古典新訳文庫より)
おそらく凶行の瞬間にも、彼の頭のなかには忌まわしい《クロイツェル・ソナタ》がこびりついて離れなかったのではないかと想像させる。
そして、このトルストイ作品からインスピレーションを受けたのが、チェコの作曲家ヤナーチェクだ。1923年、ヤナーチェクは弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》を作曲した。作曲当時ヤナーチェクは69歳。38歳年下の人妻カミラに魅了されていたヤナーチェクは、カミラへの手紙のなかで「トルストイが『クロイツェル・ソナタ』で書いたような、哀れな女性への思い」を作品にしたいと記している。
普通、あの小説を読んだ男性は妻の側に共感しないと思うのだが、それはまあいいとして、この弦楽四重奏曲もヤナーチェクならではの独創性と幻想味にあふれる傑作である。
さて、結果的にベートーヴェン、トルストイ、ヤナーチェクの3人に歴史に残る大傑作を書かせたのだから、名ヴァイオリニスト、クロイツェルの功績はどれだけ讃えても讃えきれるものではない……と、言いたいところなのだが、実はクロイツェルはなにもしていない。
というのも、クロイツェル本人は、ベートーヴェンの《クロイツェル・ソナタ》を一度も弾いていない。この傑作ソナタが「クロイツェル」と題されたのには事情がある。本来、ベートーヴェンはこの曲を当時ウィーンで評判を呼んでいたジョージ・ブリッジタワーのために書いたのである。初演ではブリッジタワーがヴァイオリンを弾き、ベートーヴェンがピアノを弾いた。だから本来ならこの曲は「ブリッジタワー・ソナタ」と名付けられるべきだったのだが、女性を巡るいさかいが原因でブリッジタワーとベートーヴェンは仲たがいをしてしまう。
そこでベートーヴェンは別の名ヴァイオリニスト、つまりクロイツェルにこの曲を捧げたものの、クロイツェルはこの曲に関心を示さなかった。
クロイツェル自身もまた作曲家であり、多数のオペラやヴァイオリン協奏曲を作曲しているのだが、これらの作品が現代に演奏されることはほぼない。しかし、彼は一度も弾くことがなかった作品のおかげで、音楽と文学の世界に永遠に名を残すことになった。
トルストイ『クロイツェル・ソナタ』(望月哲男・訳/光文社古典新訳文庫)
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