読みもの
2021.04.16
高坂はる香の「思いつき☆こばなし」第57話

没後50年ストラヴィンスキー~パリで出会ったピカソとのエピソード

高坂はる香
高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

メイン写真:バレエ・リュスの公式プログラムより、ピカソが描いたストラヴィンスキー(1921年5月)©フランス国立図書館

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今年はロシアの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーの没後50周年。ちょうど今月、4月6日が50年目の命日です。

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イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)。ロシアの作曲家、指揮者、ピアニスト。

20世紀前半を生きたロシアの作曲家たちには、祖国を離れて暮らした人が多くいます。ストラヴィンスキーも、第一次世界大戦が勃発するとスイスへ、その後1920年にはフランスに移りました。

今から100年前のフランス、パリというのは、芸術の黄金時代。映画『ミッドナイト・イン・パリ』で描かれた、まさにあの時代です。

すでに、バレエ・リュスの《火の鳥》や《ペトリューシュカ》、《春の祭典》で名声を得ていたストラヴィンスキーは、パリで最先端のアートを牽引していた芸術家たちと交流を深めていきます。短い間ながら、ココ・シャネルと恋愛関係にあったのもこの頃のこと。

ココ・シャネルと親交のあった芸術家たち。ストラヴィンスキーの姿も

当時のストラヴィンスキーのビッグアーティストとの交友関係で、ちょっと好きな話があります。

ストラヴィンスキーは1917年、ローマでパブロ・ピカソと知り合って意気投合。のちに、新古典主義時代の作品のひとつ、バレエ《プルチネルラ》で、ピカソが衣装舞台セット、ストラヴィンスキーが音楽を担当する形で共同作業もしました。これは、ストラヴィンスキーは原始主義から、ピカソはキュビズムから、ともに新古典主義に作風を変えていった時期でもあり、互いに芸術的な影響も与え合っていたことがよくわかります。

バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を創設し、パリで活動したプロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)。数多くの傑作バレエや音楽の誕生に貢献した。
パブロ・ピカソ(1881-1973)。《パラード》や《三角帽子》に引き続き、《プルチネルラ》の美術、衣装を担当。
ディアギレフの依頼でピカソが手がけたバレエ《パラード》の美術と衣装。こちらの音楽はエリック・サティ。

ストラヴィンスキーが担当したバレエ《プルチネラ》の音楽

それで、私が好きなエピソードは、彼らが知り合ってすぐ一緒にナポリを訪れ、数週間を共にした後の話。

イタリア滞在を満喫し、スイスに戻ろうとしたストラヴィンスキー。しかし、国境の荷物検査でトラブル発生。なんと、彼の荷物の中にあった、ピカソが描いたストラヴィンスキーの肖像画を軍の役人が見つけ、なにか秘密の軍事用の図面かもしれないと疑いだしたというのです。

1917年にピカソが描いたストラヴィンスキー。複数存在する肖像画の一つ

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結局、絵をそのまま持ち込むことは許可してもらえず、あとから、外交官郵便物として届けてもらえたそうな。

戦時中の緊迫した時代だったにしても、肖像画が軍事用の図面に疑われるって……さすがキュビズムの祖たるピカソっていう感じですよね。

荷物検査場で、なにバカなこと言ってんだ、これは友達が描いたオレの顔だ!って主張するストラヴィンスキーの姿を想像するとおもしろくて、好きなエピソードなのでした。

高坂はる香
高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

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