読みもの
2018.05.28
音楽ことばトリビア ~イタリア語編~ Vol.9

時よとまれ、お前は美しい!

クラシック音楽と語学は切っても切り離せないもの。「音楽ことばトリビア」は各国語に精通したナビゲーターの皆さんが、その国の音楽とことばをテーマに綴る学べるエッセイです。

イタリア語編ナビゲーターは、20年間イタリア・ミラノに拠点を置いていたオペラ・キュレーターの井内美香さん。第7回はボーイト作曲《メフィストーフェレ》から。

井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

イラスト:本間ちひろ

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Arrestati, sei bello!

アッレスタティ、セイ・ベッロ!

時よとまれ、お前は美しい!

クラシック音楽の作曲家でボサボサ頭の人といえばベートーヴェンがすぐ思い浮かびます。今も昔もアーティストは、髪型などで自由を主張することが可能だったのですね。

19世紀後半のイタリアにも〈蓬髪(ほうはつ/乱れ髪)主義 Scapigliatura〉と称する文学者たちのムーブメントがありました。これまでの約束ごとを反故にして、詩や文学を自由に書くという運動で、フランスの象徴主義の詩人ボードレールなどから影響を受けて生まれたものです。

その中の1人が作曲家のアッリーゴ・ボーイト(1842-1918)でした。ポーランド貴族の母親と画家の父親から生まれたボーイトは、作曲を勉強するかたわら文学を修め、〈蓬髪主義〉の1人として活動していました。ボーイトが自ら台本を書き作曲したオペラは、ゲーテの戯曲「ファウスト」を題材にした《メフィストーフェレ》、そして未完の遺作となった《ネローネ(皇帝ネロ)》の2つがあります。
26歳のときにミラノ・スカラ座で初演された《メフィストーフェレ》は、作品自体が難解で長すぎたことと、反対派の妨害もあり失敗に終わりましたが、ボーイトはその7年後に大幅に手を入れた改訂版をボローニャ歌劇場で上演し成功を収めました。今日までこの改訂版が上演されています。

左:1868年《メフィストーフェレ》作曲当時のアッリーゴ・ボーイト(1842-1918)
上:《メフィストーフェレ》の原作になった戯曲「ファウスト」を著したドイツの文豪 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)

ゲーテの「ファウスト」をオペラ化した有名作品は他にもグノーの《ファウスト》などがあります。グノーの《ファウスト》が原作の第1部にあるファウストとグレートヒェンの恋愛を中心にオペラ化しているのに比べて、ボーイトは原作を広い範囲で取り上げ、プロローグ(オリジナリティに溢れ特に評価が高い)、第1部、第2部、エピローグで構成される大作に仕上げました。その第1部とエピローグにあるのがファウストのこのセリフです。

プロローグで登場した悪魔メフィストーフェレは主との対話の中で、自分の力を示すために年老いたファウスト博士の魂を誘惑することを賭けます。メフィストーフェレはファウストのところに現れ、現世での願いをなんでも叶えるから、あの世に行ったら魂を明け渡す、という契約を結ばせます。世界の真実を極めたいという願いをもつファウストは「もし一度でも自分が時に対して『とまれ、お前は美しい!』と言うような美しい瞬間をもたらしてくれたら、自分は死んで地獄に堕ちてもいい」と約束します。

ドイツのイラストレーター ユリアス・ニーズレ(1812-1850)による戯曲「ファウスト」の挿絵。冒頭のセリフが出てくる、ファウスト博士とメフィストーフェレスの「悪魔契約」の場面を描いている。

イタリア語は「Arrestati 止まれ、sei お前は、bello! 美しい!」です。この場合、呼びかけている対象が「l’attimo 時、瞬間」という男性名詞なのでbelloという形容詞も男性形です。Arrestatiarrestarsiという再帰動詞の命令形で語尾のtiは(君を)という意味です。
発音はアクセントの場所に注意が必要で、アッスタティのレが一番強い音になります。アッレスターティとターにアクセントが来ると「逮捕された人たち」という別の意味になってしまいますのでご注意ください。

ゲーテの原作では、年老いて盲目となったファウストが、メフィストーフェレス(メフィストーフェレの原作における名前)が自分の命令に従って万人のための土地を切り開いていると信じてこの言葉を発します。
一方、オペラの中では天国から降りてきた天使たちの歌声を聴いたファウストが「時よとまれ、お前は美しい!永遠よ我に訪れよ!」と言って事切れます。

ボーイトは蓬髪主義の1人として、言葉に対する深い知識と鋭い感性に支えられたイタリア文学史上重要な詩や戯曲、小説を残していますが、音楽家としても革新的な才能をもっていました。ヴェルディの晩年の《オテッロ》《ファルスタッフ》の台本を書き、これらを不朽の名作にするのに大きな役割を果たしたのも、彼に文学と音楽の両方の才能があったからこそです。
オペラ《メフィストーフェレ》も、ボーイトだからこそ到達し得た、歌詞の内容と音楽の至高の一体感が、ゲーテの文学をかくも美しいオペラに昇華せしめているのです。

1883年に出版された《メフィストーフェレ》楽譜の表紙。この悪魔の名前は14世紀ごろに文学に現れて「近代的な洗練された悪魔の象徴」であるとされる。
得意役のメフィストーフェレに扮するロシアのバス歌手 フョードル・シャリアピン(1873-1938)。シャリアピンステーキはこの歌手が帝国ホテルのシェフに作らせたことからその名がついた。
東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会
ボーイト/歌劇《メフィストーフェレ》(演奏会形式)

第912回 サントリー定期シリーズ
2018.11/16(金)19:00 サントリーホール

第913回 オーチャード定期演奏会
2018.11/18(日)15:00 Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ

メフィストーフェレ(バス):マルコ・スポッティ
ファウスト(テノール):ジャンルーカ・テッラノーヴァ
マルゲリータ/エレーナ(ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ&パンターリス(メゾソプラノ):清水華澄
ヴァグネル&ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団 他

アンドレア・バッティストーニ
メフィストーフェレ(バス):マルコ・スポッティ
ファウスト(テノール):ジャンルーカ・テッラノーヴァ
マルゲリータ/エレーナ(ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

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