
クライスラーとナチス政権〜ユダヤ系音楽家としての立場をめぐって

今年生誕150年を迎えた“ヴァイオリニストの王者”フリッツ・クライスラー。その輝かしいキャリアの裏には、ユダヤ系の出自やナチス政権の台頭という、複雑な問題がつきまとっていました。
特集「戦後80年と音楽」では、大戦の影響を受けた作曲家やアーティストのエピソードを通して、改めて歴史を振り返ります。クライスラーがどのように自分の立場と向き合ったのか、たどってみましょう。

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...
クライスラーの出自
今年(2025年)生誕150年を迎えた「ヴァイオリニストの王者」フリッツ・クライスラーは、20世紀前半におけるもっとも著名な音楽家の一人であり、比類なき音色と温雅な人柄で世界的名声を博した。しかしクライスラーは、特にその後半生において、ユダヤ系の出自とナチ・ドイツの台頭、そして第二次世界大戦にまつわる複雑な問題につきまとわれた。
クライスラーは、1875年にウィーンで生まれた。医師であった父のザムエル・クライスラー、そして母のアンナもユダヤ系だったが、家族は早くからユダヤ教の宗教的慣習から距離を置いていたとされる。クライスラー自身も宗教的意識は薄く、必要に迫られない限り、自身のこうしたルーツについて語ることはほとんどなかった。1902年にアメリカ人女性ハリエット・リーズと結婚し、彼女がマネージャーの役割を担うようになると、この傾向はさらに強まった。

ウィーンで生まれ、4歳からヴァイオリンを始める。7歳で特例でウィーン楽友協会音楽院に入学し、10歳で首席で卒業。さらにその後、パリ音楽院に入学し12歳で首席で卒業。大学では医学を勉強し、その後は徴兵制によりオーストリア帝国陸軍に入るも、音楽の道に進むため除隊。ベルリン・フィルとの共演がイザイに絶賛されるなど、演奏活動も軌道に乗り、1923年には来日公演も行なった。
ユダヤ人の定義とは?
ところで、ユダヤ人とはどのような人々をさすのだろうか。誤解されがちだが、ユダヤ人とは生物学的なカテゴリーではなく、宗教的なカテゴリーである(よって先述の「ユダヤ系」とは、代々ユダヤ教を信仰してきた家系という意味である)。ユダヤ教の法的規定の集成であるハラハーは、ユダヤ人を「ユダヤ人の母から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した者」としている。
またイスラエル政府はユダヤ人を、母親がユダヤ人で他の宗教に改宗していない人、もしくはユダヤ教に改宗した人、と定義している(よって、たとえば自身および確認できる限りの祖先が日本生まれで日本育ちの人であっても、ユダヤ教徒になれば、ユダヤ人と認定される)。
しかし18世紀後半から、人間を生物学的に分類する概念として、「人種」が登場した。現在では人種区分に生物学的根拠はないことが明らかになっているが、19世紀にはユダヤ人もまた人種であるとされ、鼻の形が独特であるなどといった誤謬が蔓延するようになった。
これは中世中期から存在した差別意識と結びつき、ユダヤ人を劣等で有害な人種と断定し、迫害する動きを強めていく(たとえばヒトラーは、「ユダヤ人は常に一定の人種的特性を備えた民族だったのであり、決して宗教ではない」と断じた)。その果てに生じたのがホロコーストであり、こうした誤謬と偏見に由来する反ユダヤ主義は、現在でも根強く残存している。
ベルリン・フィルの出演依頼を辞退
さてハプスブルク君主国の崩壊後、クライスラーはオーストリア国籍を得たが、1920年代からはベルリンを拠点として世界中で演奏活動を繰り広げ、1923年には来日も果たした。しかし1933年1月30日にヒトラーがドイツの首相となり、ユダヤ人を迫害する姿勢を強めると、クライスラーは旗幟(きし)を鮮明にせざるを得なくなる。クライスラー本人がどう意識していようと、ナチスの定義によれば、彼はユダヤ人に他ならなかったからだ。
1933年7月1日にヴィルヘルム・フルトヴェングラーからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートにソリストとして出演するよう招待された際、クライスラーはこれを辞退し、芸術家が「人種」「宗教」「国籍」を理由に迫害されないことが証明されるまで、ドイツでは演奏しないと宣言した。

クライスラーの演奏を好んだヒトラー
ただ、ヨハン・シュトラウス2世の場合と同じく(関連記事:「反逆者」ヨハン・シュトラウス2世~自らの人生を思い通りに生きようとした男)、ナチスは自分たちが好んだり有用と見なした人々に対しては、いくぶん「寛容」だった(ナチ・ドイツの最高幹部の一人だったヘルマン・ゲーリングいわく、「誰がユダヤ人かは私が決める」)。
ヒトラーはクライスラーの演奏を好んでおり、ナチスは彼にユダヤ系の出自に関する噂があったにもかかわらず、自国の文化宣伝のために当初クライスラーを起用しようとした。一方、クライスラーの妻のハリエットは、ナチスが夫を「名誉アーリア人」に認定することを期待した。またクライスラーは、ムッソリーニやドルフースといったファシストとは交流を持った。
クライスラーの演奏
ナチスが定めたユダヤ人ヒエラルキーの最上位に
ドイツにおける演奏の拒否を表明したあとも、クライスラーはベルリンで暮らすことができ、その作品はドイツでなお販売されて、多額の印税収入をもたらした。彼がプニャーニなどの名前を騙って発表していた作品が自作であることが判明した際には(1935年)、人種的要因のために利益追求に走って悪巧みを弄し欺瞞を働いたのでは、と反ユダヤ主義的な言辞で中傷されたが、それも特に強い影響は持たなかった。
そして1939年にヒトラーは、「帝国人民啓蒙宣伝大臣[ヨーゼフ・ゲッベルス]と協議のうえ、クライスラーの信頼できる保証と個人的な行動に基づいて、彼の半ユダヤ人としての出自は証明済みとし、クライスラーを第一級混血とみなすと決定」して、彼を「完全ユダヤ人」と認定した帝国家系調査局の決定を覆し、ナチスが定めたユダヤ人ヒエラルキーの最上位にクライスラーを位置づけた。
アメリカでも称えられたクライスラー
1938年3月にオーストリアがナチ・ドイツに併合されると、クライスラーがオーストリア国籍の下で得ていたパスポートは無効となった。それでも彼は、なおしばらくドイツに留まっていた(同年5月初旬、ベルリンから妻の親戚に手紙を送っている)。しかしクライスラーは同年中にフランス国籍を取得し、翌年にはアメリカに渡って、1943年5月にアメリカの市民権を得た。この後、クライスラーは二度とヨーロッパに戻ることはなかった。
その理由は定かでないが、ヨーロッパとの精神的な絆まで絶った訳ではない。1950年に75歳の誕生日を迎えた際、世界中から寄せられた祝辞の中で彼をもっとも喜ばせたのは、40年来の知己であるベルギー王妃(当時は王太后)エリザベートからの祝電だった(関連記事:エリザベート王妃ってどんな人? 世界的コンクールに名を残したベルギーの“文化サポーター”)。
クライスラーはアメリカで公演活動をすぐに再開し、チャリティーコンサートを頻繁に催すなど、以前から取り組んでいた慈善活動にも引き続き注力した。1941年4月には、ニューヨークのマディソン・アベニューを横断中に配送用トラックに轢かれて重度の頭部外傷を負ったが、数か月の療養ののちに復帰し、1949年に引退するまで活動を続けた。
クライスラーが1962年1月29日に世を去ったとき、『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のような追悼記事を載せ、その事績に惜しみない賛辞を送った。
クライスラー氏は半世紀以上にわたりヴァイオリン界の征服者たる英雄であった。彼の芸術ほど公衆に親しまれたものはなく、また公衆からこれほど愛された芸術家もいなかった。その芸術性は知的な深みと卓越した技術が融合したもので、まさに「ヴァイオリニストのヴァイオリニスト」と呼ぶにふさわしいものだった。長年にわたり愛され続けたのは、その芸術の輝きだけでなく、芸術家としての謙虚さと素朴さゆえでもあった。
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