妖怪から音楽を見る Vol.2

音楽の合成獣~鵺(ぬえ)とマーラー

読みもの
2019.10.07

「妖怪」をキーワードに音楽を見ると、新たな発見があるかも? 「妖怪から音楽を見る」シリーズ第2段は、さまざまな動物を合成した日本のキマイラ・鵺(ぬえ)と、マーラーの音楽について。
時代は、あらゆる異質なものを闇で覆い隠す「夜の音楽」から、すべて白日のもとに晒す「昼の音楽」へ。その変革をリードしたマーラーの音楽を分析します。

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ナビゲーター
一色萌生 作曲家
一色萌生
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一色萌生 作曲家
愛媛県生まれ。都留文科大学社会学科にて社会学・民俗学を学び、その後、東京音楽大学、および給費奨学生として同大学院に進学、作曲を学ぶ。在学中、作品《胎児の夢》で東京音楽...

日本の合成獣「鵺(ぬえ)」

皆さんは“鵺(ぬえ)”という妖怪をご存知だろうか?
頭は猿、胴体は狸、手足は虎、そして尻尾は蛇という、なんとも奇妙な形をしている。せっかくこのようなインパクトのある姿をしていながらやることは地味で、夜な夜なトラツグミ(当時はトラツグミを“鵺”と呼んでいた)のような不気味な声で鳴き、それを聞いた人を精神的に病ませるというものだった。

そして、その被害者が時の天皇だったため大問題となった。源頼政が退治を命じられ、声がする方向の黒雲を矢で射ると、声の主が落ちてきた。その姿というのが、上に書いたような、いろんな動物が組み合わされた「混合生物」だったのだ。

このように、鵺がその異様な姿を初めて現すのは、退治されたあとのこと。西洋にも似たようなキマイラという怪物がいるが、そのキマイラのように堂々と姿を見せて戦うのではなく、夜の闇と黒雲で覆い隠し、最後まで姿を見せようとしなかった。
日本人はシャイだとよくいうが、妖怪もそれは変わらないらしい。夜の闇と黒雲に身を隠し、声だけを響かせていた鵺。夜は、あらゆる異物を優しく覆い隠し、同化させてくれる。

「京都 鵺 大尾」(歌川国芳、1852年10月)

鵺は自身の姿に宿る各動物の部位の「分離と距離」から逃れ、鵺(トラツグミ)の声という聴覚的な融和を選んだのだ。しかしそれは退治され、人々のもとに「混合生物」としての姿を晒すこととなった。

この鵺の退治譚は、あらゆる「分離と距離」を半音階的に融解した“夜の音楽”であるロマン派音楽と、その後現れる、マーラーの「分離と距離」を晒した“昼の音楽”との対比を、僕に思い起こさせる。

夜の音楽――ロマン派音楽

「混合生物」「分離と距離」という言葉は、中沢新一の『虹の理論』から抜き取ったキーワードだ。
『虹の理論』では、南米インディアン神話の、バクと結婚した人間の男の話が語られている。その2人(1人と1匹?)は交わり、子どもを産む。バクと人間、まったく姿形も違う2つの異質なもの。その2つを同化させてくれるものは“夜”だという。「夜の闇のなかでは見るのではなく、ただ聴きとらなくてはならない」。夜は「おたがいを分離する視覚」にかわり、「繊細な聴覚」をもたらしてくれる。
中沢は、夜の象徴として、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の物語を挙げている。トリスタンとイゾルデという関係の複雑な男女が、夜の闇の中で同化するのだ。

トリスタン「トリスタンはお前、僕はイゾルデ、もうトリスタンじゃない」
イゾルデ「あなたはイゾルデ、トリスタンは私、もうイゾルデじゃない」

第2幕で2人はそう歌い合う。
ワーグナーの音楽もまた、その2人の溶け合っている様子を巧妙に描いている。「半音階的なるもの」と中沢が表現するその音楽は、あらゆる「分離と距離」を、溶かして同化させていく。そんなワーグナーをはじめとする“ロマン派音楽”を中沢は夜の音楽とした。こうした夜の音楽の延長にシェーンベルクの《浄められた夜》があることも興味深い。ロマン派において、夜は浄める作用を持っているのだ。

昼の音楽――マーラーの音楽

一方で、夜の音楽に相対するものについて中沢は書いている。
夜の闇に守られたトリスタンとイゾルデが一番恐れたものは何か。それは、お互いの「分離と距離」を乱暴に照らす、朝・昼の光だ。
南米インディアン神話のバクと男も、夜が明けることで「分離と距離」が復活する。昼の暴力的な光の中に姿を現した彼らは「奇妙な混合生物」となって横たわっていることだろう。

夜はやがて明けなくてはならない。
その新たな一歩を進んだのが、マーラーであった。中沢はマーラーの音楽について「異質なものどうしが接近し、触れあい、そしてけっして同一化されてしまうことなくふたたび分離していく」と述べている。「異質なコードどうしの横断現象」がもたらす「グロテスクなユーモアにまで、成長」した音楽。「コード横断のカタストロフィ」が生んだ「奇妙な混合生物」。それがマーラーの世界だ。一つの交響曲の中に、カッコーの鳴き声や狩りのラッパ、〈フレールジャック〉のような俗謡から真面目なソナタや宗教音楽まですべてをそれとわかるままにぶち込んでしまう。

楽章単位で見ていくと、交響曲第3 番の第1楽章や、交響曲第7番の第5楽章などで感じられると思う。

交響曲第3番は、30分を超える第一楽章の中で、わざとらしいマーチや厳粛な音楽、ブラームスの引用やディズニーっぽいものまでがごった煮になっている。マーラーはこの交響曲第3番に、当初「真夏の“昼”の夢」という表題を付けようとしていた。マーラー自身もこれが、暴力的な昼の光に照らされた「異質なコード」がぶつかり合う世界であることを自覚していたのだろうか。

また、交響曲第7番は「夜の歌」と呼ばれている。この愛称はマーラー自身が付けたものではないが、第2、4楽章に「夜曲」という副題が付いており、第1、3楽章にも怪しい夜の雰囲気が漂うことからそう呼ばれている。

しかし、この曲のフィナーレである第5楽章は、明らかにこれまでの雰囲気をぶち壊すほど「異質」な音楽であり、今までの夜の世界に急に暴力的に“昼”がやってくるような、または、朝からカツ丼をガッツリ食べさせられるような、そんな感覚に襲われる。この楽章の内部も、あらゆる「異質なコード」が横断し合う。アドルノは、『マーラー―音楽観相学』の中で、マーラーの交響曲に対する「巨大な交響的寄せ集めメドレー」という批評を載せているが、実に的を得ているように思う。

昼の音楽の後継者たち

中沢が『虹の理論』を書くに至ったのは、作曲家ルチアーノ・ベリオが彼に、かの歴史的名曲《シンフォニア》に使うテクストの選択を依頼してきたからだと本文に書いてある。
中沢はそのオーダーを見事にこなし、ベリオは《シンフォニア》で、中沢の選んだテクストをコラージュするとともに、その第3楽章ではマーラーの《交響曲第2番》の第3楽章をそのまま引用し、そのキャンバス上に古今のさまざまなクラシック音楽もコラージュした。コラージュされた音楽は、決して一体化することなく、それぞれの原型がわかる形で、ごちゃごちゃと響く。

こうした引用の音楽は、これまでのトータル・セリエリズムなどのモダニズム音楽にかわって、20世紀後半の音楽界を席巻していく。ポスト・モダニズム時代の到来である。

その代表的な作曲家であるシュニトケもまた、あらゆる様式をあからさまにそれぞれの原型を留めたままで融合していった。彼の交響曲第5番では、その第2楽章に、彼が補筆完成させたマーラーの《ピアノ四重奏曲》の第2楽章がオーケストレーションされてまるまる挿入されている。日本におけるポスト・モダニズムの巨匠、水野修孝は、その記念碑的な作品《交響的変容》の第4部で、マーラーの《第8交響曲》を重要な箇所で引用した。

彼らがこぞってマーラーを引用したのは偶然ではあるまい。自らがマーラーの精神上の後継者であることを示す、オマージュなのではないかと、僕は考えている。

ポスト・モダニズムの音楽による「奇妙な混合生物」は、何もクラシックに限った話ではない。60年代といえば、ロック界では“プログレッシブ・ロック”が流行った時代だ。クラシックやジャズなど、あらゆるものが混ざり合ったロックの時代。

イタリアのバンド、New Trollsは、シュニトケと同じように《コンチェルト・グロッソ》を作り、バロック音楽とロックを組み合わせた。イギリスの有名なバンド“エマーソン、レイク&パーマー”は、その楽曲の中に多くのクラシックの要素を詰め込んだ。
2ndアルバムである『タルカス』では、その傾向は頂点を極めている。タルカスとは、彼らが考えた想像上の生き物。アルマジロと戦車の「混合生物」である。そのタルカスが、有名な伝説上の怪物マンティコアと戦うという設定だ。マンティコアもまた、人間の頭にライオンの体、サソリの尻尾をもつ代表的な「混合生物」である。

鵺の時代

ロマン派音楽の夜は、あらゆる「分離と距離」を夜の闇の中で融和し、一体化してきた。
“引用”という観点からも、ロマン派とポストモダンでは、その意味合いは随分と違う。
例えば、チャイコフスキーの大序曲《1812年》のフランス国歌〈ラ・マルセイエーズ〉やロシア帝国国歌〈神よツァーリを護り給え〉は、明らかにこの曲のあらすじを助ける役割を果たしている。ブラームスの《大学祝典序曲》の中の各学生歌は、“大学祝典”というテーマのもと、見事ブラームスの音楽として統一され、消化されている。

一方で、マーラーの交響曲第1番に突如として現れる〈フレールジャック〉はどうだろう。交響曲という格式高い形式の中で、明らかに異物のように響く。それは、その曲の大テーマを強化したり同化したりするロマン派の“引用”ではなく、ポスト・モダニズムの音楽におけるコラージュのような、むしろあえて同化させないことを狙った演出なのだと感じる(それをマーラーが狙ったかどうかは別として)。

鵺は、夜の闇にまぎれ、「奇妙な混合生物」としての姿を黒雲で隠し、不吉な声で鳴き続けていた。夜はあらゆる「分離と距離」を覆い隠し、融解し、同化してくれる。トリスタンとイゾルデをつつむ夜。人間の男とバクをつつむ夜。鵺の姿を隠す夜。本来決して混ざることのない「分離と距離」を覆い隠し、夜はその境目を半音階的なインターバルで埋めてくれる。しかし、そんな夜も長くは続かない。20世紀の夜明けとともに、音楽は「分離と距離」をものともしない、新たなステップへと進んだのだ。鵺は討伐され、その奇妙な姿を白日のもとに晒した。その「奇妙な混合生物」としての姿は、異様ではあるけれど、実はクセになるほど魅力的なものだったのだ。

『虹の理論』で引かれた南米インディアン神話、バクと結婚した男の話には続きがある。
男とバクは、一人の子どもを産んだが、その子どもは、水につけると毒を吐く子どもだった。その毒は一見有害ではあるけれど、魚を大量に獲るのに役立ち、人々はその力を奪い合うほどに惹かれていった。

マーラーの音楽にも、毒が流れている。マーラーの音楽の魅力を表す言葉として“毒気”という言葉はよく使われる。“毒気”こそがマーラーをマーラーたらしめる、魅力だ。その毒気の源泉は「分離と距離」を敢えて際立たせた「奇妙な混合生物」たる音楽世界である。
日本の妖怪退治譚と南米インディアンの神話、そして西洋音楽の変遷。この奇妙なシンクロニシティを感じる時、この我々が住む世界全体が一つの「奇妙な混合生物」なんだな、と思う。

鵺(筆者)
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