「妖怪」から音楽を見る

妖怪と音楽の意外な親和性! 形のない恐怖を檻に閉じ込めると……?

読みもの
2018.10.22

妖怪と音楽には実は親和性がある!? 妖怪愛好家でありながら作曲家でもある一色萌生さんが、妖怪と音楽の意外なつながりをご紹介。なぜ「妖怪」が生まれたのでしょうか。その発生要因を探ってみると、どうやら音楽と近しいものがあるらしい……? 美しくも恐ろしい、若手作曲家たちの妖怪音楽とともにお楽しみ下さい。

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ナビゲーター
一色萌生 作曲家
一色萌生
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一色萌生 作曲家
愛媛県生まれ。都留文科大学社会学科にて社会学・民俗学を学び、その後、東京音楽大学、および給費奨学生として同大学院に進学、作曲を学ぶ。作曲を、池辺晋一郎、北爪道夫、土屋...

妖怪と音楽には親和性がある。私は日頃からそう考えてきた。

幼少の頃から妖怪の虜だった。本棚には妖怪関係の書籍が溢れ、小学校や中学校にも妖怪の図鑑などを持ち込んでは、四六時中眺めていた。私は音楽も同じくらい愛しており、子どもながらに、その両者に妙な近親性というか、親和性というようなものを感じていたのだと思う。

今年の9月に、私の所属する作曲グループで、妖怪レクチャーと新作初演演奏会を兼ねた『サロン・DE・百鬼夜行』というコンサートを行なった。この演奏会を行なったことで、子どもの頃から感じていたその両者の親和性について、一層確信を強めたのだ。

9月22日、妖怪をテーマにした新作発表演奏会の様子(於 キュービック)

1. 鵺(ぬえ)/門田和峻・作曲

2. 姑獲鳥(うぶめ)/服部伶香・作曲

3. しらぬい/一色萌生・作曲

4. 貘(ばく)の吸った3つの夢/茂木宏文・作曲

演奏: 迫田圭(ヴァイオリン)、仁科友希(ヴィオラ)、布施公崇(チェロ)

“日本三大妖怪”はなんでしょう?

さて、“妖怪”と聞いて皆さんはどんなものを想像するだろうか?
私はいつも初めて妖怪の話をする人に「日本を代表する三大妖怪ってなんだ?」という質問をする。そこで返ってくる答えとして多いのは、まず、“塗り壁”や“一反木綿”など『ゲゲゲの鬼太郎』で有名になった妖怪たちだ。他にも“傘お化け”や“ろくろ首”など有名どころが出てくる。
妖怪をよく知っている人の中では、三大妖怪と言えば、“鬼”、“河童”、“天狗”なのだが、意外とこれらの名前は出てこない。

さて、これら“妖怪”とは、いったいどんなものなのか知るには、その発生を探らなければならない。私は、発生要因の一つとして“恐怖のキャラクター化”を挙げている。

恐怖のキャラクター化 名前と形を与える

人間は、自分の身体、もしくは精神を脅かすような何かに出会ったとき、恐怖する。人間の恐怖の対象は、つねに自分が管理し得ないものだ。それは街にたむろする不良かもしれないし、獰猛な犬かもしれない。厳しい上司かもしれない。しかし、それらには“形”がある。なんとかすれば返り討ちにできるかもしれないし、相手が人なら、話し合いで解決できるかも。
しかし、その相手が、自分の今まで見たこともない、得体の知れないものだったらどうだろう。例えば、生きているものでなかったら? 科学では証明できないような超常現象だったら? 姿も形も見えない“何か”だったらどうだろう。人は成す術なく、恐怖にうちひしがれるだろう。

人は正体不明の恐怖に陥ったとき、想像力を働かせ、説明しようとする、“防衛本能”が働く。形がなければ姿を与え、呼び名がなければ名前を付ける。その正体不明のものを、少しでも感覚で捉えられるようなものにしていくのだ。こうして人格化されていったものを“妖怪”と呼ぶのである。

例えば、九州の八代海(やつしろかい)や有明海には、ある特定の日の夜に火の玉が出る。人々はそれに“不知火(しらぬい)”と名付け、不知火の出る日には漁へ行くなと伝えてきた。現在では、蜃気楼と同じ大気光学現象の一種だと解明されているが、昔の人たちは名前と設定を与え“妖怪”とすることで説明したのだ。

これは日本に限ったことではなく、西洋も同じだ。 ペストが大流行した14世紀に現れた“死の舞踏”と呼ばれる一連の創作活動も、まさにその一例だ。迫りくる“死”という目に見えない恐怖を、骸骨や老人などに象徴し、コミカルに描くことによって、恐怖を和らげたのだ。

ハンス・ホルベイン『死の舞踏』
鳥山石燕/『今昔画図続百鬼』より「不知火」

このように、目に見えない、得体の知れない恐怖に、人格や名前、姿形を与えることを“恐怖のキャラクター化”と呼んでいる。
こうして発生した“妖怪”と、一見まったく関係なさそうな“音楽”。筆者が感じた親和性とはいったいなんだろう。

三島由紀夫が語った音楽への恐怖

音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕えられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を私に惹き起す。

――三島由紀夫『小説家の休暇』より「六月二十九日(水)」

音は人間が本来管理し得ないものだ。しかし、音楽家たちは、それらの「音という形のないもの」を“音楽”とすることで管理下に置くことに成功した(ようにみえる)。音の高さそれぞれに「ドレミファ……」と名前をつけ、リズムや拍をもたせて時間的に統制した。それらを文法のように組み合わせることによって、音は性格をももつようになった。我々は今、こうしてできあがった“音楽”をエンターテイメントとして扱っている。

三島由紀夫もまた「形のない」音というものが、我々の精神を翻弄する力をもっていることを知っていた。『小説家の休暇』では、別の「六月二十五日(土)」の項で原子力の恐怖にも触れているが、音も原子力も、三島にとっては変わりがないものに思えていたのだろう。見ることも触ることもできないけど、確実に存在し、人体や精神に影響を与える“何か”がそこにあるのだ。
どちらも、一歩間違えると、人間を恐怖のどん底に突き落としかねないものになるだろう。三島は先に引用した「六月二十九日(水)」の項で、「檻」を「作曲家の精神」とした上で、こう述べている。

「作曲家の精神が、もし敗北していたと仮定する。その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでしまう。聴衆は自らそれと知らずに、深淵に突き落とされる。……」

このように見てみると、“妖怪”と“音楽”の両者には、大きな類似点がある。それは形のないものに性格や名前を与えた、というところだ。そして、両者とも人間が潜在的に感じる“恐怖”を内包している。
最高のエンターテイメントというのは、つねに“恐怖”と隣り合わせにあるのかもしれない。人は、音楽を聴くときも妖怪話を聞くときも、“得体の知れない恐怖”を知らず知らずのうちに読み取り、心理的緊張感を楽しんでいるのだろう。そうでないと、あの本当に良い音楽を聴いたときの、鳥肌が立ちゾクッとする感覚は説明がつかない。

筆者による「妖怪」たち

鵺(ぬえ)
姑獲鳥(うぶめ)
不知火(しらぬい)
獏(ばく)
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