ローマ賞とは?19世紀フランスで絶大な権威を誇った作曲家の登竜門の歴史と審査方法
19世紀以降、フランスの作曲家がこぞって挑戦した「ローマ賞」。いったいどのような意味のある賞で、どのような審査が行なわれていたのでしょうか? その歴史と審査方法を、参加した作曲家のエピソードを交えながら紹介します!
愛知県立芸術大学名誉教授。東京藝術大学大学院修了。論文博士。パリ・ソルボンヌ大学修士課程修了。専門は近代フランス音楽史、万国博覧会史、日本の洋楽器受容史。著書に 『パ...
1803年に作曲部門も加わった学士院芸術アカデミー主宰のコンクール
19世紀以降のフランスの作曲家の伝記を読むと、必ずといってよいほど出てくるのがローマ賞の話である。1803年、ナポレオンはアカデミーを再編し、そのときに作曲部門が芸術アカデミーに新たに加えられた。この年から作曲部門でもローマ賞コンクールが始まり、以来、ローマ大賞を獲得した作曲家は画家、彫刻家、建築家、版画家と共にローマに行って、ローマの留学生会館、ヴィラ・メディシスで制作に励むことになった。
作曲の場合、ローマ賞のもつ重要性は19世紀を通じて変わらず、ローマ賞コンクールは若手作曲家の登竜門として絶大な権威をもち続けた。ローマ大賞受賞者は奨学金を与えられたが、物質的な面もさることながら、何よりも、ローマ大賞を受賞することには特別な意味があった。学士院芸術アカデミーはフランスの芸術をつかさどる機関であったことから、その芸術アカデミーが主宰するコンクールには絶大な権威があり、「ローマ大賞受賞」ということはまたとない“お墨付き”になったのである。
ローマ大賞を受賞した有名な作曲家としては、アレヴィ(1819)、ベルリオーズ(1830)、トマ(1832)、グノー(1839)、ビゼー(1857)、ギロー(1859)、デュボワ(1861)、マスネ(1863)、ピエルネ(1882)、ドビュッシー(1884)、ギュスターヴ・シャルパンティエ(1887)、フロラン・シュミット(1900)、イベール(1919)、デュティユー(1938)などがいる 。
実は19世紀から20世紀にかけて、ローマに行っても、音楽的にはあまり見るべきものはなかった。イタリアならば、時代にもよるが、ナポリやミラノのほうがまだしも見るべきものがあった。なぜ、作曲家がわざわざローマに行かなければならなかったかといえば、芸術アカデミーが絵画と彫刻から始まったアカデミーに、作曲があとから加わる形で成立したからである。
画家や彫刻家がローマに行って得るものはもちろん多い。だが、作曲家の場合、グノーやビゼーのように、大喜びでイタリアに「人生の春」を謳歌しに行った者もいたが、後ろ髪を引かれる思いで、いやいやローマに旅立った例も少なくなかった。ベルリオーズやドビュッシーなど、パリに恋人を残していく場合はとくにそうだった。
ビゼーがイタリア留学をきっかけに作曲した交響曲《ローマ》
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