マンガでたどるラフマニノフの生涯#7 ラフマニノフ、復活する
ラフマニノフの生誕150周年にちなみ、その生涯を12ヶ月、全12回でたどるマンガ連載がスタート! 作曲家の創作マンガを数多く手がけてきた創作マンガユニット・留守keyが、ラフマニノフの音楽について綴るコラムとともに、その劇的な人生をお届けします。
http://rusukey.blog.jp主な作品:『B(ベー)〜ブラームス二十歳の旅路』コミックス全3巻(DeNA/小学館クリエイティブ)、学研マンガジュニア名作...
最初の交響曲の不発から長い沈黙へ
長い沈黙が続いた。そして、そのまま音楽史の舞台から消えていくと思われていたラフマニノフは、ある楽曲と共に奇跡の復活を果たす。
その楽曲こそ、「ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18」にほかならない。ラフマニノフといえばまずはこの曲、といわれるほど人気のある作品。失意の1897年から約3年、「ピアノ協奏曲第2番」は1901年に初演されるやいなや絶賛の拍手で迎えられた。
有名な曲だけにエピソードも多い。それらをすべて検証することは難しいが、それでもいくつかのものはやはりこの時期のラフマニノフを表しているのだと思う。
自信作だったに違いない「交響曲第1番二短調」の初演(1897)が不評に終わり、想定外の悪評も浴びてラフマニノフは深く傷ついた。だれもが尊敬するあの偉大なチャイコフスキーに絶賛されたわたしが! モスクワ音楽院を最優秀で卒業したわたしが!あのズヴェーレフ先生のレッスンに耐えたわたしが!
まだ若手の売り出し中であったとはいえ、ロシア音楽界の明るい将来を約束され意気揚々と構えていただけに、大きく世に問う最初の交響曲が不発に終わったことは、ラフマニノフ自身はもとより、ラフマニノフをよく知り支えてきた周囲の人々にとっても予想外の出来事だったにちがいない。
指揮活動やシャリアピンとの出会い
よく言われているように「精神衰弱になり何も手につかなかった」とはいえ、病床に伏してただ時が過ぎ行き、傷が癒やされるのを待っていたわけではあるまい。実際、この時期のラフマニノフは確かに作曲家としては沈黙の期間であったが、それ以外の活動はむしろ積極的だった。
まず、モスクワの私設劇場マーモントフにオペラの副指揮者として就任する。ダルゴムィジスキー《森の精》、リムスキー=コルサコフ《5月の夜》といったロシアの作曲家による作品から、ビゼー《カルメン》、サン=サーンス《サムソンとデリラ》といったヨーロッパで人気のオペラもこなしている。なお、この時の指揮者の経験はその後もラフマニノフ自身を大いに助けることとなった。
また、この劇場で生涯の友となるオペラ歌手のフョードル・シャリアピンとも出会う。クリミア方面へ旅行した際にはシャリアピンとの交流が縁で、劇作家のチェーホフとも知遇を得た。
さらに演奏旅行でロンドンにもでかけた。これは、すでに作曲していた室内楽曲やピアノ曲が海外でも高い評価を得ていた、その証でもあった。そのロンドンで「ピアノ協奏曲第1番」が演奏され好評を得ると、当然のように聴衆は続く2番目のピアノ協奏曲を期待するものだ。
ラフマニノフ自身もそのことは十分に感じ取っており、はやく次のピアノ協奏曲に着手しなくてはとの思いを抱くようになっていたらしい。しかし、そのプレッシャーこそが逆にラフマニノフの筆を重くした。同じ時期にシャリアピアンらとともに会うことができた文豪トルストイとの会話で、重いプレッシャーを感じていたという記録もある。
タイミング悪く、長く公認の交際相手であったアンナ・ロディジェンスカヤとの離別も重なった。意欲はあれど筆は進まず。焦りとプレッシャーに苛まれているラフマニノフを周囲の人々は気遣い、また力になりたいと思い、ここに至ってはなにか外側からの力を頼るしかないと精神科医に相談をする。
「ピアノ協奏曲第2番」で不死鳥のごとく復活
ニコライ・ダーリ医師(1860〜1939)は心理学・精神医学を学び、モスクワで開業医として治療にあたっていた。とくに催眠療法などの評判が高かった。そこへ相談に出向いたところ、ダーリ自身もヴィオラを弾くなど音楽の素養があり、さっそく医師と患者の関係でラフマニノフと対峙することになった。
ここから先はあまりにも有名なエピソードだ。ダーリ医師の根気強い治療と周囲の人々による献身的な励ましを受け、ラフマニノフは新しいピアノ協奏曲に取り組むことができた。
待望の新しいピアノ協奏曲は、シャリアピンとイタリアに行っていたときから作曲を始めたという。グリンカしかり、チャイコフスキーもまたしかり。ロシアの作曲家たちはいつも、イタリアの地で新しい曲のアイディアを得てきた。寒い雪の国ロシアと明るい太陽の国イタリア。その違いがこうも作曲家のインスピレーションを刺激するものか。
長いトンネルを抜けたかのように作曲は進み、まずは第2楽章と第3楽章がまとまる。従兄のジロティに相談し、第1楽章を欠いた未完成のままの身内での公演は好評で、気を良くしたラフマニノフは高揚した気分で(しかし慎重に!)冒頭の第1楽章を完成させた。
「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」の全曲初演は、1901年11月にモスクワ交響楽協会でラフマニノフ自身のピアノ独奏とジロティの指揮で行なわれた。大喝采で迎えられ、ラフマニノフはここに不死鳥のごとく復活したのだった。
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