読みもの
2024.06.12
留守keyによるマンガとコラム12回で制覇!

マンガでたどるラフマニノフの生涯#9 ラフマニノフ、故郷を離れる

作曲家の創作マンガを数多く手がけてきた創作マンガユニット・留守keyが、ラフマニノフの生涯を全12回でたどるマンガ連載。今回は、「十月革命」を機に故郷ロシアを離れ、アメリカへ渡るまでをお届けします。

留守key
留守key 創作マンガユニット

http://rusukey.blog.jp主な作品:『B(ベー)〜ブラームス二十歳の旅路』コミックス全3巻(DeNA/小学館クリエイティブ)、学研マンガジュニア名作...

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「ピアノ協奏曲第3番」を初演したアメリカへ

1905年の「血の日曜日事件」を発端にロシアの世情は日に日に混乱の度合いを深め、ついに帝政打倒を旗印とした革命へと発展していく。

ラフマニノフは貴族層の出身でもある。市民階級による革命には、いずれ自身も巻きこまれていくことが十分に予想された。

ここはいったん国外に出て……。

そう決断を下したラフマニノフとその一家は、1917年の「十月革命」を機に、ストックホルムからの依頼を受けて、緊張と混乱が続くロシアを離れ、演奏旅行へと出かけた。

ラフマニノフは、ロシアの国内情勢が落ち着けばすぐに帰国する心づもりであったという。

しかし、その間さまざまな情報がラフマニノフのもとに届く。どの内容もラフマニノフにとって望ましいものではなかった……。

決断がつかぬまま、ラフマニノフとその一家は北欧各国を回り、翌18年にアメリカへと渡ることになる。

なお、ラフマニノフが故郷を離れることになった前の年の1916年に、父親が亡くなっている。決して親しい仲ではなかったかもしれないが、このことがラフマニノフの決心に影響を与えただろうか? いまは想像をするしかないのだが、果たして……。

また、この時期ストラヴィンスキーとプロコフィエフも国外へ出て、やがてフランス・パリに落ち着いた。しかしラフマニノフはパリではなく、ニューヨークを選んだ。ラフマニノフにとってアメリカは、1909年に「ピアノ協奏曲第3番」の初演で一度音楽活動の足跡を残した国だった。そのことが作用したのか。

前後して1914年、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパ全体に戦火が広がり、世情の混乱は世界規模へと広がり始めていた。

一方ロシア国内は、1917年以降内戦・内乱の嵐が吹きまくり、1922年に新しい国家体制としてソビエト連邦が樹立。ロシアは新しい国家体制へと突き進んでいくことになる。

奇しくもラフマニノフが大西洋を船で渡り、ニューヨークへ到着した時期に、第一次世界大戦終結のニュースが入っていた。ニューヨークは一転して終戦の祝賀ムードで沸き返っていた。

そこでラフマニノフを待っていたものとは? (次回に続く)

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留守key 創作マンガユニット

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