描かれた風景の世界に和歌がこだまする
日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、“ラクガキ”に帰結する連載。今回はサントリー美術館「歌枕 あなたの知らない心の風景」と、三井記念美術館「茶の湯の陶磁器 “景色を愛でる”」、2つの展覧会をとりあげます。和歌に詠まれた景勝地「歌枕」が描かれた大和絵や、茶器から音のこだまを聴く、雅な世界をご紹介。
1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...
平安時代に貴族の生活の中で育まれ、屏風や工芸品に描かれて雅やかな味わいをもたらした大和絵は、和歌と密接なつながりを持っている。和歌に詠まれた場面が描かれることがしばしばあったのだ。
和歌は、「五・七・五・七・七」の音による、優雅な響きとリズムを持つ「歌」である。平安時代以来、貴族の生活空間ではしばしば和歌を詠む機会があり、邸宅の中を美しい声がこだましていた。現代でも皇室の「歌会始め」などの催しで続けられているので、知っている人もいるだろう。今日は、江戸時代以前の美術品を見ながら、そんな雅な世界を覗いてみる。
東京・六本木のサントリー美術館で、「歌枕 あなたの知らない心の風景」と題した展覧会が開かれている。「歌枕」は一般に、和歌に詠まれた景勝地のことを言う。歌枕となった風景を描いた絵画や工芸品を集めて検証・考察を進め、これまでになく深い味わい方を導き出したユニークな試みである。
絵画のなかの雅やかな「歌枕」
清原雪信と英一蝶は、絵画の画面上に文字が載せられた例だ。日本の絵画ではしばしば行なわれることで、和歌が書き込まれる例も多い。それだけでも何と雅やかなのだろうと思う。
さらには、和歌に詠まれた場面、すなわち「歌枕」が文字なしで描かれた作品も、少なからずある。
江戸中期の絵師、山本探川(たんせん)が描いた『宇津の山図』という屏風作品で「歌枕」として描かれた「宇津山」は、『伊勢物語』第九段に登場する駿河国、すなわち今の静岡県の名所という。
京の都から関東に「東下り(あずまくだり)」をしている主人公が険しい山を越えることを示唆した絵画なのだが、まずは山の緑の美しさが目に飛び込んでくる。ちらほらと紅葉が見られるので、季節は秋である。確かに険しいのだが、この絵の美しさはむしろ旅情を誘う。テレビもネットもない時代に、こうした絵画は大いに人々の好奇心を刺激したのではなかろうか。
重要なのは、『伊勢物語』が歌物語、すなわち和歌が散りばめられた物語であることだ。屏風には和歌が書かれているわけではないのだが、景色は和歌と共にある。平安時代の大和絵の心は江戸時代にも受け継がれ、絵を前にした人々は、場面を表す和歌を心の中で響かせながら、描かれた世界へと入り込んだのだ。
駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人はあはぬなりけり
頭の中でかまわない。ぜひ、言葉の響きとリズムを意識しながらゆっくりと詠じてみてほしい。駿河の国の山中を歩きながら、うつつ=現実と夢のあいだを行き来し、妻を残した京の都への思いを寄せる主人公の気持ちになることができるだろう。
工芸品から浮かびあがる光源氏のエピソード
工芸品にもたくさんの「歌枕」がモチーフとしてあしらわれた。この室町時代の硯箱は、『源氏物語』「須磨」の光源氏の侘び住いを象徴しているという。
まずは、『源氏物語』「須磨」の中で光源氏が詠んだ和歌を紹介する。
恋ひ侘びて泣く音(ね)にまがふ浦波は 思ふかたより風や吹くらん
箱を眺めつつ、ゆっくりと詠じてみてはいかがだろうか。文様化された波はなかなか荒く、「思ふかた」すなわち、京の都の方向から源氏の心に吹き荒ぶ風を思い起こさせる。
それにしても、海を背景に、なぜこんなにも桜の花が咲いているのか。そこには、須磨に蟄居(ちっきょ)していた光源氏が庭に植えた「若木の桜」の姿を見ることができるのである。『源氏物語』を知る所有者が墨を擦ろうとこの箱を開けるときには、この絵を目と耳で味わいつつ持ち上げて、脇へ置いたのではなかろうか。
茶器からあふれ出る和歌のファンタジー
工芸品の世界をもう少し見ていこう。
東京・日本橋の三井記念美術館で、「茶の湯の陶磁器 “景色を愛でる”」という企画展が開かれている。茶碗などの器を眺めて発見した「景色」を愛でるという、器の作者が意図していなかった鑑賞法を検証し、新たな楽しみ方を提示した企画展だ。そして、ここでも折に触れて和歌が登場する。
独特のゆがみと色合いが美しいこの『志野茶碗』には、「卯花墻(うのはながき)」という銘がある。箱の蓋裏に、片桐石州(1605〜73年)という人物の筆によるという和歌が記されている。
やまさとのうのはなかきのなかつみちゆきふみわけしここちこそすれ
卯の花と垣根の景色を器に見出し、雪を踏み分けるという想像の世界に飛翔した内容だ。石州は、器を眺めているうちに景色を発見し、「卯花墻」という銘を付けたのだ。
朝鮮半島伝来の茶碗に日本の風景を想像した例もある。この『呉器茶碗』には、「小倉山」という銘がついている。京都の小倉山は、平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人で小倉百人一首の選者の藤原定家が暮らした地だ。著名な歌枕の一つであり、秋の紅葉が美しい景勝地として知られる。
器に紅葉の色を見て付けられた銘が「小倉山」だった。箱の蓋裏に書き記された次の和歌に、その思いが込められている。
おほろけの色とや人のおもふらむ おくらのやまをてらす紅葉は
茶碗の中に見た風景を愛でる。根底には、美しい音の響きを持つ和歌がある。何と風流なことだろうと思う。
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