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2024.02.07
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.39

猫にシェーンベルクは弾けるのか?〜「恵比寿映像祭2024 月へ行く30の方法」

日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、“ラクガキ”に帰結する連載。今回は愛らしい猫が、20世紀を代表する作曲家シェーンベルクの無調音楽をピアノで演奏する? 映像作品をご紹介。猫とシェーンベルク、思いもよらないコラボレーションの意図を小川さんが読みときます。

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

コリー・アーケンジェル《3つのピアノ小品 作品11》(2009年) 展示風景

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東京都写真美術館(東京・恵比寿)で始まった「恵比寿映像祭2024 月へ行く30の方法」で、驚くべき作品に出会った。アルノルト・シェーンベルクのピアノ曲を、何と猫が弾いているのである。コリー・アーケンジェルによる《3つのピアノ小品 作品11》(2009年)という映像作品だ。

アーケンジェルは、1978年米ニューヨーク州バッファロー生まれ。現在はノルウェーのスタヴァンゲルに住み、アーティスト、作曲家として活動しているという。《3つのピアノ小品 作品11》という作品名は、シェーンベルクが1911年に作曲した楽曲の名前をそのまま借用したものと見られる。

シェーンベルクのピアノ曲に合わせて猫の映像を切り貼り

シェーンベルクのピアノ曲を弾いている猫は、往年の米国のアニメ作品『トムとジェリー』(1940年)でピアノ協奏曲などを弾いた猫のトムのようなキャラクターなどではない。作品は実写映像であり、実物の猫が本当にピアノの音を出しているのだ。
とはいっても、もちろん仕掛けがある。猫がピアノの鍵盤の上を歩いたり、たたいたりしている約170種類の映像からシェーンベルクの曲に合わせて該当する音が出ている部分を拾い出し、つなぎ合わせて一つの演奏に仕立て上げているのだ。それゆえ、映像はどんどん切り替わり、たくさんの猫を目で愛でることができる。
コリー・アーケンジェル《3つのピアノ小品 作品11》(2009年) 展示風景
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しかし、そもそもなぜ猫が弾いている曲がシェーンベルクなのか。弾いている猫に聞いても、おそらく「にゃあ」としか答えてくれないだろう。しかし、理由はあるはずだ。ここでは、筆者の類推を少しだけ記しておきたい。まずは、いかにも猫が弾きそうな曲であることだ。展示作品の解説パネルには、次のように記されている。
シェーンベルクの作品11は、最初の「無調」音楽作品と言われ、伝統的な西洋の和声から完全に離れた、「調」で書かれていない音楽と考えられている。
猫にピアノを本当に弾かせるとなれば、確かにこうした前衛的でランダムに鍵盤を押しているように聞こえる曲のほうがもっともらしいということもある。
だが、筆者は必ずしもそれだけが理由ではないだろうと考えている。音を映像で切り貼りしているのだから、編集した作家の作意次第でヨハン・シュトラウス2世の《美しく青きドナウ》にすることも、クイーンの《ボヘミアン・ラプソディ》にすることも不可能ではないはずだ。しかしやはり、シェーンベルクには猫が似つかわしい。しばしば人間の思いを無視するかのような、時には無秩序を感じさせる猫の動きが、それまでの音楽の常識を大きく外れた「無調」と微妙に響き合っているのではないかと思うのだ。

「十二音技法」への道を開いた重要作

コリー・アーケンジェル《3つのピアノ小品 作品11》(2009年) 展示風景
コリー・アーケンジェル《3つのピアノ小品 作品11》(2009年) 展示風景

作者のアーケンジェルは作曲家でもあるので、シェーンベルクの作曲史における重要性は十分にわかっていただろう。シェーンベルクは「十二音技法」を創ったことで知られており、確立した時期は《3つのピアノ小品 作品11》の10年以上後の1920年代までくだる。だが、その十二音技法はおおむね「無調」と受け止められている。

つまり、「無調」を特徴とする《3つのピアノ小品 作品11》は、十二音技法への道を開いた重要な作品だったのである。もし動物にこの重要な曲の演奏を担わせるとしたら……ペットとして愛玩される長い歴史を持ちながらも、人間には動きの想像がつかないことが多い猫に託したのは、なかなか自然なことではないだろうか。

カンディンスキーの前衛とアーケンジェルの前衛

シェーンベルクの《3つのピアノ小品 作品11》には、美術と音楽をつなぐ有名なエピソードがある。

1911年1月2日にドイツのミュンヘンで開かれたコンサートでこの曲を聴いた画家のヴァシリー・カンディンスキーは、シェーンベルクの音楽に感動して《印象Ⅲ(コンサート)》(1911年)という油彩画を描いた。さらには、2人の間で膨大な量の手紙のやり取りが始まったのである。カンディンスキーの絵画には音楽性が多く表れているのだが、シェーンベルクとの文通が大きく寄与していることは間違いない。

【参考図版】ヴァシリー・カンディンスキー《印象Ⅲ(コンサート)》 1911年 ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館蔵

ちなみに、カンディンスキーの《印象Ⅲ(コンサート)》の黄色について、以前は聴衆の熱狂を表すと解釈されていたが、近年は、当時の新聞記事の検証などによって一般の聴衆にはあまり受けがよくなかったことがわかっている。どうやら、熱狂していたのはカンディンスキー本人のみだった模様だ。前衛作曲家だったシェーンベルクの音楽に前衛画家だったカンディンスキーが熱狂し、交流を始めたわけだ。アーケンジェルがシェーンベルクに着目し、猫にピアノ曲を演奏させたのもまた、今日的前衛なのではないだろうか。

植物にアルファベットを教え、猫にインタビューする

ジョン・バルデッサリ《植物にアルファベットを教える》(1972年) 展示風景
ちなみに、「恵比寿映像祭2024」ではアーケンジェルの《3つのピアノ小品 作品11》の隣に、ジョン・バルデッサリという作家の《植物にアルファベットを教える》(1972年)という映像作品が展示されていた。植物に文字を書いた紙を見せることで「アルファベットを教える」風景を延々と映し出した作品だ。それは超現実的でもあり、無駄の極致でもあることを感じさせる。しかし、常識をものともしないこうした作品を見ると、しばしば何らかの束縛によってがんじがらめになっていたり、思考が袋小路に陥っていたりする常人の頭は、新境地に放り込まれるのではないだろうか。
猫を題材とした別の出品作としては、マルセル・ブロータースの《猫にインタビューをする》(1970年)が、やはり常人の意識を覆してくれた。人間が猫にインタビューを試み、語りかけるたびに、猫が「にゃー」と答える場面の録音をひたすらスピーカーで流す作品だ。問答も対話も成り立っておらず、やはり無駄の極致である。しかし、思考を巡らせれば、たとえば対話になっていない対話は、実は言葉が通じ合っている人間同士の世界でもよくあるのではないか、ということに気づかせてくれる。
映像祭の副題「月へ行く30の方法」は、出品作家の一人、土屋信子が2018年に開いた展覧会名を引用したものという。「月へ行く」こと自体はすでに人類は半世紀以上前に達成済みだが、再度の実現は難しい現状がある。一方で、月へ行くことは、相変わらず人類の夢であり続けている。その現状を変えるには、アートとも言えるような破天荒な発想が必要なのかもしれない。
猫がシェーンベルクを奏でる《3つのピアノ小品 作品11》もまた、人間の意識転換の方法として寄与する部分があるのではないだろうか。あるいは、月になんか行けなくてもいい。しかし、ほかのもっと有意義なパラレル・ワールドに連れていってくれるかもしれないな、などと思うのである。
土屋信子《月へ行く30の方法》(2024年) 展示風景

ラクガキスト小川敦生のラクガキ

Gyoemon《猫型ピアノの真実》

猫がピアノを弾くのなら、猫の形のピアノがあってもいいのではないでしょうか。そんなピアノがあったら、世の中が少しだけ豊かになるような気がするのです。Gyoemonは、筆者の雅号です。
展覧会情報
恵比寿映像祭2024 月へ行く30 の方法
会場:   東京都写真美術館
会期:  2024年2月2日(金)〜2月18日(日)
 
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小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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