ショスタコーヴィチの生涯と主要作品
ドミトリー・ショスタコーヴィチの生涯と主要作品を音楽学者の森田稔が解説!
文―森田稔(音楽学者)
ショスタコーヴィチの生涯
卒業作品の交響曲第1番で一躍有名に
ロシアの作曲家。父親はポーランド系でペテルブルク大学(サンクトペテルブルク大学)理学部を卒業したインテリ,母親はサンクトペテルブルク音楽院卒業の本格的ピアニスト。姉マリヤ(ピアニスト)と妹ゾーヤ(科学者)がいる。9歳から母親にピアノを習い異常な進歩を見せた。1919年ペトログラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)に入学,ピアノを母の師でもあるアレクサンドラ・ロザノヴァ(A. Rozanova,1876-1942)とレオニード・ニコラーエフ(L. Nikolayev,1878-1942)に,作曲をマクシミリアン・シテインベルク(M. Steinberg,1883-1946)に師事した。
1922年に父親が死に経済的困難に陥ったが,母親の献身的な努力,自らのアルバイト,音楽院院長グラズノフの強力な援助などがあって勉学を続け,23年ピアノ科,25年作曲科を卒業した。卒業作品の交響曲第1番(1924-25)はソヴィエトだけでなく,西欧各地でも演奏され,新生ソヴィエトの生んだ天才として彼の名を一躍有名にした。27年の第1回ショパン国際コンクールに出場して名誉賞を与えられ,ピアニストとしても認められる。20年代後半には交響曲第2番(1927),第3番(1929)もあるが,当時多くの人材を集めていた演劇や映画の世界に近づき,その方面での作曲が多い。またこの時期,前衛的な技法にも興味を持った。
《ムツェンスク郡のマクベス夫人》で作曲家としての地位を確立
ショスタコーヴィチの作曲家としての地位を,最終的に確立させた作品は,オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Lėdi Makbet Mtsenskogo uyezda》であった。これは34年1月にレニングラードとモスクワでほぼ同時に初演され,いずれも大成功でロングランになった。また翌年以降,クリーヴランド,ニューヨーク,リュブリャナ,コペンハーゲン,チューリヒ,ザグレブ,ブラティスラヴァと,外国の諸都市でも上演され大評判になる。しかし,36年1月28日付の《プラウダ Pravda》紙に,このオペラについて「音楽ではなくデタラメだ」という論評が出て,その悲劇的な運命が始まった。彼は交響曲第4番(1935-36)を練習の途中で撤回し,しばし作曲の筆を休めた。
交響曲第5番のまれにみる成功と第7番《レニングラード》の完成
1937年4月18日から7月20日までの3カ月間に一気に作曲され,ムラヴィンスキーの指揮で初演された交響曲第5番はまれにみる成功を収め,作曲家の名誉を回復した。この年からレニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)教授に迎えられ,生涯にわたって続く彼の後進指導の活動が始まった。第二次世界大戦が始まり,41年にはレニングラードもヒトラーの軍隊の攻撃を受けた。10月にはクイビシェフ(現サマーラ)に疎開し,12月27日には交響曲第7番を完成。これは戦火にさらされているレニングラード市に捧げられ,ソヴィエト全土に放送された。また,アメリカにもスコアがマイクロフィルムで空輸されて,トスカニーニなどの指揮で繰り返し演奏され,連合国側の士気をも高めた。交響曲第8番(1943)も戦争交響曲であるが,第7番のように戦闘を描く絵巻物というよりは,戦争の苦悩を表した内面的なものであったので,第7番のような大評判は取っていない。
ジダーノフ批判に応えた《森の歌》と、その後の交響曲
勝利の直後に発表された交響曲第9番(1945)は,戦争からの解放の喜びを表すかのような軽快なウィットにあふれる室内楽的な作品であったが,勝利をたたえる壮大な交響曲を期待していた人々からは不評であった。戦後のイデオロギー的な締めつけは音楽界にも及び,48年1月の悪名高いジダーノフ批判は,ショスタコーヴィチを含む指導的な作曲家のほぼ全員に及んだ。ショスタコーヴィチはこの批判に対して,オラトリオ《森の歌 Pesn’ o lesakh》(1949)や映画音楽で応え,4回目のスターリン賞を得る。
1953年3月5日にスターリンが死に,ショスタコーヴィチは同年12月に交響曲第10番を発表して物議を醸した。その悲観的な内容が社会主義的でないとする非難が集中したが,人間の悲劇的性格を誠実に描いたとする評価の声も大きかった。これはやがて始まる「雪解け」への先鞭を付ける作品となる。しかし引き続く交響曲第11番(1956-57),第12番(1959-61)は,「1905年」の革命的事件と「レーニンの思い出」とに捧げられたもので,題材といい大衆的な語法といい,社会主義リアリズムのお手本とでも呼ぶべき作品であった。一転して,交響曲第13番《バービイ・ヤール Babiy Yar》(1962)はエヴゲニー・エフトゥシェンコの反体制的な詩を用い,交響曲第14番(1969)は死を主題とした詩ばかりを集めた形式的にも大胆な作品であった。
58年以後手足のしびれる奇病に悩まされていたが,66年に発作が起こり,心筋梗塞と診断される。71年に2度目の心臓発作があったが持ち直し,不断の作曲活動を続けた。75年夏,ヴィオラ・ソナタ op.147を完成した後再び発病し,8月9日18時30分モスクワで永眠。遺体はノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。その生涯においては,国際平和委員会のソヴィエト連邦代表,ソヴィエト連邦最高会議の議員などを務め,社会的活動も積極的に行った。レーニン勲章をはじめソヴィエト連邦のあらゆる栄誉を与えられると同時に,国際的にもオクスフォード大学博士号をはじめ数多くの称号を贈られた。
ショスタコーヴィチの作品世界
ショスタコーヴィチは交響曲作家として最も高く評価されており,15曲の交響曲全てが現在でも演奏される。特に交響曲第5番は《革命》という俗称も与えられて広く愛好されている。15曲の弦楽四重奏曲や2曲ずつあるピアノ,ヴァイオリン,チェロのための協奏曲も重要であるが,《ユダヤの民族詩より Iz yevreyskoy narodnoy poėzii》(1948)以後,数多くの歌曲を書いており,声楽曲も重要で,ショスタコーヴィチの複雑な内面生活を反映した,極めて興味深い世界を展開している。量的にみれば,映画音楽,劇付随音楽,オペラ,バレエなど劇場音楽が圧倒的に多く,彼の職人的側面を示している。
1920年代には西欧の先進的な技法にも目を向けて,実験的な作品,例えばオペラ《鼻 Nos》(1927-28)も残しているし,晩年には部分的に十二音技法を取り入れているが,技法的にみる限りでは極めて保守的で19世紀的である。79年の秋にソロモン・ヴォルコフ編の暴露的な《Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich》(1979,日本語版:《ショスタコーヴィチの証言》1980)が西欧で出版され,政治の犠牲者として話題になった。しかし彼の作品をみる限り,彼は現実の矛盾に直面しながら誠実に創作活動を続けることのできた芸術家であったといえる。
ショスタコーヴィチの主要作品
【オペラ】
《鼻》 op.15 1927-28 ; 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》 op.29 1930-32 ; 《カテリーナ・イズマイロヴァ》[《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を改作] op.114 1954-63
【バレエ音楽】
《黄金時代》 op.22 1929-30 ; 《ボルト》 op.27 1930-31 ; 《明るい小川》 op.39 1934-35
【付随音楽】
《ハムレット》 op.32 1931-32 ; 《リア王》 op.58a 1941
【交響曲】
No.1 f op.10 1924-25 ; No.2 H《十月革命に捧げる》 op.14(cho, orch) 1927 ; No.3 Es《メーデー》 op.20(cho, orch) 1929 ; No.4 c op.43 1935-36 ; No.5 d op.47 1937 ; No.6 h op.54 1939 ; No.7 C《レニングラード》 op.60 1941 ; No.8 c op.65 1943 ; No.9 Es op.70 1945 ; No.10 e op.93 1953 ; No.11 g《1905年》 op.103 1956-57 ; No.12 d《1917年》 op.112 1959-61 ; No.13 b《バービイ・ヤール》 op.113(B, B-cho, orch) 1962 ; No.14 op.135(S, B, str, perc) 1969 ; No.15 A op.141 1971
【管弦楽曲】
ドレッセルのオペラ《貧しいコロンブス》のための2つの小品 op.23 1929 ; 祝典序曲 A op.96 1954 ; 交響詩《十月革命》 op.131 1967
【協奏曲】
ピアノ協奏曲 : No.1 c op.35 1933, No.2 F op.102 1957 ; ヴァイオリン協奏曲 : No.1 a op.77 1947-48, No.2 cis op.129 1967 ; チェロ協奏曲 : No.1 Es op.107 1959, No.2 G op.126 1966
【器楽曲】
2つの小品 op.11(str八重奏) 1924-25 ; ピアノ五重奏曲 g op.57 1940 ; 弦楽四重奏曲 : No.1 C op.49 1938, No.2 A op.68 1944, No.3 F op.73 1946, No.4 D op.83 1949, No.5 B op.92 1952, No.6 G op.101 1956, No.7 fis op.108 1960, No.8 c op.110 1960, No.9 Es op.117 1964, No.10 As op.118 1964, No.11 f op.122 1966, No.12 Des op.133 1968, No.13 b op.138 1970, No.14 Fis op.142 1973, No.15 es op.144 1974 ; ピアノ三重奏曲 : No.1 op.8 1923, No.2 e op.67 1944 ; チェロ・ソナタ d op.40 1934 ; ヴァイオリン・ソナタ op.134 1968 ; ヴィオラ・ソナタ op.147 1975
【ピアノ曲】
ピアノ・ソナタ : No.1 op.12 1926, No.2 h op.61 1943 ; 3つの幻想的舞曲 op.5 1920-22 ; 格言集 op.13(10曲) 1927 ; 24の前奏曲 op.34 1932-33 ; 子供のノート op.69(7曲) 1944-45 ; 24の前奏曲とフーガ op.87 1950-51 ; 7つの人形の踊り 1952
【合唱曲】
クルィロフによる2つの寓話 op.4(Ms, cho, orch) 1922 ; カンタータ :《祖国の詩》 op.74 1947, 《われらの祖国に太陽は輝く》 op.90 1952 ; オラトリオ《森の歌》 op.81 1949 ; 10の詩 op.88(無伴奏cho) 1951 ; 声楽交響詩《ステパン・ラージンの処刑》 op.119(B, cho, orch) 1964
【歌曲】
日本の詩による6つのロマンス op.21 1928-32 ; プーシキンによる4つのロマンス op.46 1936-37 ; 6つのロマンス op.62(1.息子に 2.雪と雨の降る野原で 3.マクファーソンの最後 4.ジェニー 5.ソネット66 6.王様の出陣) 1942 ; ユダヤの民族詩より op.79(11曲 S, A, T, p) 1948 ; プーシキンによる4つのモノローグ op.91 1952 ; 5つのロマンス op.98(1.巡り合いの日 2.告白の日 3.絶望の日 4.喜びの日 5.思い出の日) 1954 ; スペインの歌 op.100(6曲) 1956 ; 風刺――過去の絵 op.109(5曲) 1960 ; 雑誌《クロコディール》の詩による5つのロマンス op.121 1965 ; ブロークによる7つの詩 op.127 1967 ; ツヴェタエヴァの6つの詩 op.143 1973 ; ミケランジェロ・ブオナッローティの詩による組曲 op.145 1974 ; レビャートキン大尉の4つの詩 op.146(1.レビャートキン大尉の恋 2.アブラムシ 3.家庭教師嬢たちのための舞踏会 4.名士) 1974
【映画音楽】
《新バビロン》 op.18 1928-29 ; 《黄金の山脈》 op.30 1931 ; 《呼応計画》 op.33 1932 ; 《司祭と下男バルダの物語》[未完] op.36 1933-34 ; 《若き親衛隊》 op.75 1947-48 ; 《エルベ川での出会い》 op.80 1948 ; 《ベルリン陥落》 op.82 1949 ; 《団結[別名:《大いなる川の歌]》 op.95 1954
【編曲】
タヒチ・トロット[ユーマンズ《2人でお茶を》に基づく] op.16(orch) 1927
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