あの大作曲家はガチのサッカーファンだった!?

サッカー狂としてのショスタコーヴィチ

読みもの
2018.06.21

FIFAワールドカップがロシアで開催中ですが、かの地の名作曲家 ショスタコーヴィチが、実は大のサッカーファンだったことはご存知でしょうか? いつもしかめ面のイメージがあるショスタコーヴィチの意外すぎる一面をご紹介します。

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ショスタコーヴィチが熱心なファンだったチーム「ディナモ・レニングラード」(1947年)
増田良介 音楽評論家
増田良介
増田良介 音楽評論家
ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

FIFAワールドカップ、今年の舞台はロシアだ。ロシアでサッカーは、アイスホッケーとともに最も人気のあるスポーツで、熱心なファンも多い。
だがONTOMOなら、サッカーを熱烈に愛したあの人について書かないわけにはいかない。ドミトリー・ショスタコーヴィチ、言わずとしれた大作曲家だ。

ショスタコーヴィチ氏のサッカーへの異常な愛情

ショスタコーヴィチがサッカー好きになったのは20歳のころ、天才演出家メイエルホリドとの出会いがきっかけだった。彼の劇団で音楽担当として仕事をするようになったショスタコーヴィチは、高い身体能力をもつ俳優たち(中にはボクシングのソ連チャンピオンもいたらしい)との交流を通じて、いろいろなスポーツ、特にサッカーに関心をもつようになった。
少年時代、あまり活発ではなかった彼だが、ときには自分でゲームに参加することもあったし、審判をすることも好んだ。特に試合の観戦は生活の大きな部分を占めるようになった。ひいきのチームは1922年に創設されたディナモ・レニングラード。音楽院で教えるようになってからは、授業を早めに切り上げてスタジアムに向かうこともあったという。

上:17歳頃のドミトリー・ショスタコーヴィチ
右:フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)

彼のサッカー観戦のようすを紹介しよう。まず、スタジアムへ行くときは、少しでも高い位置から見るために、座布団がわりに古い書類カバンを持って行く。試合中は感情を表に出さず、声を上げることもなく、唇を固く閉じ、青ざめた顔でひたすらボールを目で追う。ボールがゴールに近づくと、緊張のあまり書類カバンの端をぎゅーっと握りしめる。

そう、この人はガチなのだ。スタジアムで騒いでストレス解消とかのレヴェルではない。その証拠に、サッカーを通じて仲良くなった友人は多かったが、音楽関係の友人をサッカー観戦に誘うことはほぼなかったという。何かの趣味にのめり込んだ人ならおわかりだろう。周りの人を誘って同好の士を増やそうなどという気持ちは、ある「濃度」を突破すると消えてしまうのだ。

ただ見るだけではない。彼は試合の進行を細かく記録し(並外れた記憶力が大いに役立っただろう)、誰がゴールしたか、得失点差はどうだったかなど、さまざまな統計を取り、分析した。自分が見られない試合でも、多数の新聞を購読し、各地のサッカー仲間と電話や手紙のやりとりをして情報を集めた。
ショスタコーヴィチがサッカーについて書いた手紙は大量に残っているが、その詳細さと熱の入り方(自作についてもこれだけ書いてくれていたら!)には驚く。戦前のソ連ではサッカーの記録が不十分で、新聞にも試合の結果やゴールを決めた選手の名前が載っていなかったり、戦時中はそもそも新聞が発行されなかったりした。だから、戦後、サッカーの研究家がソ連のサッカー史をまとめる際、ショスタコーヴィチの記録は重要な資料となったという。

サッカーが作品に与えた影響

そうなると、サッカーを扱った曲はないのかということになる。有名なのは1929年のバレエ《黄金時代》だろう。これは、ソ連のサッカー・チームが、とある外国で開催される博覧会「黄金時代」に招待され、陰謀に巻き込まれる物語だ。組曲には入っていないが、このバレエの第2幕に〈サッカー〉という曲がある。

バレエ《黄金時代》より〈サッカー〉の場面(1930)

それから、1945年に作曲された《ロシアの河》という劇音楽にも〈サッカー〉という曲が含まれている。どちらもめまぐるしく駆け回る動きでサッカーの試合を描く小品だ。ただ、筆者の知る限り、直接的にサッカーと結びつく曲はこれだけだ。たった2曲とは少ないが、彼はサッカーを仕事に持ち込まない主義だったのかもしれない。とはいえ、ショスタコーヴィチにはこういうスピーディに動く曲がたくさんある。たとえば交響曲第6番の疾走するフィナーレで、作曲家の念頭にサッカーがあったということも、ひょっとするとあるかもしれない。

戦後、ソ連を代表する作曲家となり、多忙になっても、ショスタコーヴィチは時間を作ってサッカー観戦を続け、友人たちとサッカーを熱く語り、雑誌にも寄稿した。晩年には健康を害し、スタジアムへ行くことは難しくなったが、サッカーへの愛は変わらなかった。1943年以来モスクワで暮らしていたショスタコーヴィチだが、応援していたのは変わらずレニングラードのチームだったようだ。1975年8月9日、ショスタコーヴィチは病院で亡くなったが、その当日もテレビでサッカーの中継を見ていたという。

1940年代後半、息子のマキシムとサッカーに興じるショスタコーヴィチ
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