ショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》は包囲戦を生き抜く人々のリアル
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる900日にも及ぶ包囲戦を耐えた街レニングラード。そんな極限状態の中で作曲の筆を取ったのがドミトリ・ショスタコーヴィチでした。
現在では愛国心ばかりでなく、「裏の意味」があるのではとも語られる交響曲第7番《レニングラード》。構想、作曲から初演までを時系列で追うことで、レニングラード市民ショスタコーヴィチの想いが見えてきます。
ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...
このところ、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》が演奏される機会が目立つ。新型コロナウィルスで、カミュの『ペスト』が急に生々しい物語になったのと同様、侵略者に対する戦いと勝利をテーマとするこの曲が、ロシアのウクライナ侵攻以来、リアルで切実なものと感じられるようになったからかもしれない。もちろん、この曲が書かれたときは侵略される側だったロシアが、今度は侵略する側になっているというのは大きな違いだが。
ところでこの曲は、戦中、戦後、そして現在と、世界情勢の変化につれて、受容のされ方が変わってきた作品だ。発表当初は、天才作曲家がファシズムに対する抵抗を表現した傑作として熱狂的に受け入れられたこの曲だが、戦後になると、特に西側では、扇情的で底の浅い作品と見られるようになった。しかし現在では、実はこの曲は、ナチス・ドイツだけではなく、ソ連体制の恐怖を含めた、より普遍的なテーマを描いた作品として再評価されるようになっている。
音楽はどう聴こうと自由なのだが、これだけブレると、いったいどれが本当なのかと思ってしまう。ということで、ショスタコーヴィチがどのような思いでこの曲を書いたのかを知るために、一度あらためて、作曲当時の彼に起こったことをたどってみたい。
レニングラード包囲戦の進行とともに作曲
1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に宣戦した。ドイツ軍の勢いは凄まじく、あっという間にソ連第2の都市レニングラードに迫った。この町に住んでいたショスタコーヴィチ(34歳)は、祖国防衛のため、2度も軍隊に志願するが、2度とも断られたので(目が悪かったためとも言われる)、愛国的な歌などを書きながら、塹壕を掘ったり、音楽院を守る消防隊で活動したりしていた。
音楽院の屋根で警戒している彼の写真は、アメリカの雑誌などに掲載され、世界的に有名になった。
交響曲第7番に彼が着手したのは7月19日のことだ。8月上旬、ショスタコーヴィチは、第1楽章の前半を友人たちにピアノで聞かせた。一つの主題をひたすら音量を上げながら繰り返すというアイディアは、ラヴェルの《ボレロ》にそっくりだ。発表すればそこは必ず批判されるだろう。しかし彼は「言わせておけばいい。ぼくには戦争はこう聞こえるんだ」と言った。だが、戦争の行く末と同様、この曲がどう展開していくのか、この時にはまだ彼自身にもわからなかった。
ドイツ軍の作戦は、レニングラードを正面から攻撃するのではなく、水道や電力の施設を破壊して町全体を包囲し、食料の供給を断って住民を餓死させ、その後爆薬で町全体を更地にするというものだった。8月末、ショスタコーヴィチが第1楽章を書き終えたころには、もう飢餓が迫っていた。芸術、教育機関は疎開を進めていた。レニングラード・フィルハーモニーはノヴォシビルスクへ、音楽院はタシケントへ。しかしショスタコーヴィチは疎開を断り、レニングラードに残った。
混乱、脱出、困窮する故郷
9月17日、彼はラジオ放送に出演する。途中で爆撃があったせいで放送時間ぎりぎりにスタジオにたどり着いた彼は、マイクに向かってこう語りかけた。「私は1時間前に交響曲の2楽章を書き終えました。完成できれば交響曲第7番となります。私がこのことを話しているのは、われわれの町の生活は正常に進んでいることを伝えるためです。全員、おのおのの防衛任務を果たしています。みなさん、われわれの芸術が大きな危機に瀕していることを忘れないでください。音楽を守りましょう。誠実に、無私に働きましょう」
「生活は正常に進んでいることを伝える」とはどういうことか。実はそのころ、レニングラードはすでに占領されたという偽の情報を、ドイツがさかんに流していたのだ。新聞には、ネフスキー大通りで親衛隊隊員が警備に立っている偽造写真が掲載されていた。そのような状況で、必死に放送を続けるレニングラードの放送局が、交響曲を書き続けるショスタコーヴィチのメッセージを伝えたことは、多くの人々にレニングラードの健在を伝え、勇気づけた。
9月29日、ショスタコーヴィチは第3楽章を完成した。その翌晩、共産党から避難命令の電話があった。10月1日、彼は妻と二人の子どもを連れて、まず飛行機でモスクワへ脱出する。モスクワでは、空襲警報におびえ、地下防空壕に避難して、不安な夜を何度か過ごした。2週間後、彼らは、さらに東へと避難するため、列車に乗り込む。極度に混雑した列車に7日間耐え、彼らはクイビシェフ(現サマーラ)に落ち着いた。
アパートはひどく寒く、紙は不足していた。そして、母や姉や甥はまだレニングラードに残されている。レニングラードからたまに届く手紙には、町には犬も猫も一匹もおらず、彼が飼っていた犬も食べられてしまったこと、栄養失調の親類も何人かいることが記されていた。
作曲に専念するには心配事が多すぎたが、11月27日、交響曲第7番はついに完成した。3か月後に行なわれた初演は大成功し、この曲はレニングラードに捧げられた。
エフゲニー・ムラヴィンスキーとレニングラード交響楽団によるショスタコーヴィチ:交響曲第7番《レニングラード》
いままさに苦しんでいるすべての同胞のための交響曲
あらためて確認しておきたいことは、ショスタコーヴィチの《レニングラード交響曲》は、愛する故郷が危機に瀕し、自分も命からがら逃げ出した作曲家が、現在継続中の戦争をテーマに作品を書いた曲であるということだ。
描写的でわかりやすいのも当然だろう。この曲で作曲者が勇気づけようとしたのは、いままさに苦しんでいるすべての同胞であって、平和な場所、あるいは平和な時代に、他人事としてこの音楽を聴く人たちではなかったからだ。
裏の意味を見つけようとするのも、ドイツの侵略「だけ」を描いた音楽ではないと考えるのもいいだろう。しかし、この曲を聴くときに、飢えと寒さに苦しみながらも厳しい封鎖戦を生き抜いたレニングラードの人々に思いを馳せることを忘れてしまうなら、それはやはり本末転倒だし、失礼なことではないだろうか。
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