通訳は見た!? 舞台裏から見るオペラの魅力
ゴージャスで、美しいオペラの舞台。クローズアップされるのは舞台上の歌手たちですが、その舞台裏にいる大勢の人々によってオペラは作り上げられます。そんなオペラの裏側に通訳として潜入? した井内さんが公演で起こった仰天エピソードも交えて、舞台裏から見たオペラの魅力を語ってくれました。
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
私はオペラを深く愛している。オペラのCDを聴いたり映像を観たりするのも好きだし、劇場に行って生の舞台に触れるのも喜びだ。
劇場でオペラを観ているときには歌や演技を楽しみ、舞台の裏側で出演者やスタッフたちがどのように働いているのかを想像することはまずない。だが実はオペラの舞台裏というのは、かなりいろいろな事が起こっている場所なのである。
イタリア語の通訳、それもオペラに関係する通訳の仕事が多い私は、舞台裏で働くこともある。今年の6月にもバーリ歌劇場初来日公演で通訳として働いた。バーリ歌劇場は近年、成長著しいと高い評価を得ている劇場で、確かにチームワークが良く、オーケストラや合唱団の団員たちも若い世代が多くて溌剌としていた。
私が担当したのは、大道具を中心とした舞台の通訳だった。歌劇場から各セクションの代表者たちが来日し、日本側のスタッフと協力して舞台を作り上げる。日本の技術スタッフはとても優秀で、初日が開くまでにプロダクションを完全に把握してしまうのはさすがである。バーリ歌劇場がもってきたのはヴェルディ作曲《イル・トロヴァトーレ》とプッチーニ作曲《トゥーランドット》という2つの人気演目だった。
《イル・トロヴァトーレ》は手描きの背景幕を使用したイタリアの伝統的な舞台美術。最近は背景幕(ドロップ)も機械で絵をプリントすることが増えているそうだが、やはり手描きの絵は奥行きを感じさせて美しい。
もう1つの演目《トゥーランドット》は背景幕と立体的な階段などを組み合わせた舞台で、西安の兵馬俑の立像群が美術の要として使われており、合唱団員たちも兵俑の衣裳を着ていた。
潜入! オペラの舞台裏
この2つの演目を、東京、名古屋、びわ湖、大阪などで上演したのだが、次々と違う劇場で上演するツアーは常に時間との戦いである。舞台セットを組み立てた後、照明を作る。楽器をケアし、会場に合わせて音響を整える。現地で合流する児童合唱団のリハーサルもある。大勢の衣裳を直し、着せつけ、メイクをする。イタリア人スタッフも含め、朝9時から本番が終わるまで劇場に入りっぱなしの仕事である。
技術スタッフだけで仕事をしている間の作業は整然と進んでいくが、リハーサルや公演の数時間前になってオーケストラ、合唱団、ソリスト、そしてエキストラと呼ばれる俳優たちが入ってくると、劇場は一気に賑やかになる。
自分たちがいつも仕事をしているイタリアならともかく、慣れない日本の劇場で、しかも毎回違う場所で公演をするのだから、イタリア人たちも大変だと思う。
実はせわしない上演中の舞台袖
私が目にするのはイタリアの歌劇場だけなので、他の国の歌劇場はまた違うかもしれないが、喜怒哀楽が豊かなイタリア人たちのこと、上演中の舞台裏風景もそれなりに賑やかである。
舞台袖ではステージマネージャーが目を光らせて、オーケストラをピットに呼んだり、合唱団員たちのおしゃべりがうるさいと注意したりしている。そのかたわらでは、衣裳係や小道具係が歌手や俳優らの世話を焼いたり、歌手の出番や舞台転換のきっかけを教える音楽スタッフが忙しそうに楽譜をめくったりしている。時代物の衣裳をつけた合唱団員が舞台袖からソリストのアリアをじっと聴いていることもあるし、時には、その日に歌わない歌手が音楽に合わせてダンスを踊っていることだってあるのだ。
Photo:佐川敦
Photo:佐川敦
通訳は、オペラの本番中は通常あまりすることはないのだが、やはり仕事なのでうっとりと音楽に聴き惚れているわけにはいかない。
よく上演されるプッチーニの《トスカ》では、第1幕の途中に、アンジェロッティの脱獄が発覚したことを知らせる大砲が鳴る。これは舞台袖の大太鼓で大砲の音を再現するのだが、スペースが小さい劇場ですぐ近くで太鼓を叩かれ、耳をつんざく音にびっくりして飛び上がってしまったことがあった。音というより衝撃波といったほうがふさわしい音圧だったのだ。こんなに大きな音だなんて客席で聴いているときには想像もできないことだった。
今回のバーリ歌劇場来日公演の《イル・トロヴァトーレ》では、マンリーコ役に世界的なテノール歌手フランチェスコ・メーリが来日し、舞台裏でハープ伴奏で歌う場面ではあまりの美声に思わず聴き惚れてしまったが、その間にも周りでは皆が忙しく仕事をしているのだ。
オペラを鑑賞するにはやはり客席からが一番なのである。
通訳は見た! オペラ事件簿
これまで関わってきた引越公演で出会ったエピソードをいくつか紹介したい。
かなり昔に、あるイタリアの劇場が《イル・トロヴァトーレ》を上演したときのことだ。梅雨時でとても蒸し暑かったのだが、ソプラノ歌手は喉を守るために舞台上の冷房を切って欲しいと頼んできた。ところがテノール歌手は暑すぎて歌えないから冷房を最強にしてほしいという。仕方がないのでスタッフは、それぞれの登場の場面で冷房をつけたり切ったりする羽目におちいった(二重唱のときは一体どうしていたのだろう……)。歌手の出番を指示する役目のイタリア人スタッフが、冷房をONとOFFにするきっかけを楽譜に書き加えて、指示を出していたことを思い出す。
また別の来日公演では、ヴェルディの《椿姫》を伝統的な衣裳で上演した。合唱団の楽屋が舞台よりも上の階にあり、階段で行き来する必要があった。ところが19世紀半ばのパリのファッションである、骨組みの入ったペチコート(クリノリン)で大きく膨らんだロングスカートでは、日本の狭い廊下や階段をすれ違うのが不可能に近いのだ。
ただでさえ体格がいい歌手たちが、体を極端に捻じ曲げて一生懸命すれ違っていた。では、イタリアの歌劇場では廊下も楽屋も広々としているかというと決してそんなことはない。古くからの劇場は、階段などもかなり狭いことがある。
イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』1856年8月号より「クリノリンの断面図」
オペラ歌手といえば喉を大切にするのは当然だろう。日本はホテルでも劇場でも空調があるのが彼らの悩みの種だ。歌手にとって一番ありがたいのは窓を開けられることなのだが、窓を開けられるホテルや楽屋は少ないのである。
いまでは世界のトップテナーとなったあるテノール歌手が来日したときは、ホテルの部屋や楽屋に必ず加湿器を入れてほしいという要求があり、あまり何度も言われるので、事務局のみなで彼のことをこっそり「加湿器くん」と呼んでいたことがある。
また別の大歌手(やはりテノールである)は、楽屋に入るとすぐに天井を指差し「あの空調の排気口をいますぐ塞いでください!」とリクエストし、若いスタッフが椅子の上に昇ってガムテープを一生懸命貼ったこともあった。
オペラは最高の異文化交流!
舞台裏を垣間見て実感するのは、舞台は大勢の努力によって成り立っているものだ、ということである。オペラ歌手、合唱団、オーケストラ、指揮者、大道具、小道具、照明、音響、音楽スタッフ、衣裳、履物、ヘアメークなど、すべての部門がうまく機能してこそ良いオペラが完成する。
通訳の仕事をしていて嬉しいのは、イタリアと日本の劇場人が心を通わせる現場に立ち会えたときだ。ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場が来日したときに、舞台裏のスタッフの1人が言っていた言葉が印象的だった。「これまで自分にとってヴェネツィアの街で出会う日本人は、顔のない〈観光客〉でしかなかった。日本に来て共同の仕事をするうちに、知人や友人ができた。日本公演に参加できて良かった」。彼らを迎える日本人スタッフ側も、異文化との交流によって学ぶことは多いのではないかと思う。オペラをきっかけにした文化交流は、大変な仕事を共にした同志に与えられる大きな報いなのかもしれない。
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