井内美香の「すべての道はオペラに通ず」第4回【8月「ホラー」特集に寄せて】

グリム童話、落語、そしてオペラに現れる〈死神〉は最後に何を笑うのか?

読みもの
2018.08.20

今も昔も変わらない人間の「死」への恐怖。
似た筋書きをもつグリム童話と落語が存在する〈死神〉を題材にしたオペラ『クリスピーノと死神』。ユーモラスな中にも、人間の深部を描き出す隠れた名作を井内さんが紹介してくれます。クリスピーノの前に現れる代母は、はたして「女神」なのか「死神」なのか......。

井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

今年の東京はとにかく異常に暑かった。そこで、猛夏を忘れさせてくれる怪談の要素があるイタリア・オペラは何かあるだろうか? と考えたとき、ある作品が頭に浮かんだ。それはルイージ&フェデリーコ・リッチ兄弟作曲の《クリスピーノと死神》である。
台本作家は、ヴェルディの《椿姫》と同じフランチェスコ・マリア・ピアーヴェだ。1850年にヴェネツィアで初演されている。

《クリスピーノと死神》のあらすじ【前半】

17世紀のヴェネツィア、靴直し職人クリスピーノは身を粉にして働いているのに、生活は楽になるどころか借金だけが増えていく。女房のアンネッタも恋愛小説や歌集を売り歩いて家計を助けているものの、夫婦と子どもたちが食べる物にも事欠く生活だ。絶望したクリスピーノはついに井戸に身を投げようとする。
その時、井戸の中からひとりの女が現れる。「わたしはお前の代母(キリスト教の名付け親)だよ」代母はクリスピーノを助けると約束する。「医者になりなさい。病人を診たとき、その場にわたしの姿が見えたら、その病人は死ぬ運命にある。見えなかったら命は助かるから、お前はそれを告げればよい。名医と敬われ、金持ちになるだろう」

この話、聞いたことがあるなぁ。と思った方はいるだろうか? 実は《クリスピーノと死神》は、グリム童話「死神の名づけ親」、もしくは日本の落語の「死神」にとてもよく似たストーリーを持っているのだ。

「死神」の作者、初代 三遊亭圓朝(1839 - 1900)。江戸時代末期から明治にかけて活躍した落語家。「芝浜」「牡丹灯籠」など、人情話や怪談に多くの名作をもつ。
ヤーコプスとヴィルヘルムのグリム兄弟による『グリム童話』1815年第2版の表紙絵。「死神の名づけ親」は初版から収録されている。

以前はこのオペラが落語「死神」の原作だと言われていたが、最近では内容のいくつかの特徴から、落語「死神」の筋はグリム童話から来ていると言われている。

グリム童話と落語に共通する部分は、死神が頭の近くに立ったら病人は助かり、足元に立ったら死んでしまう(頭と足が逆になっているパターンもある)という設定だ。

どちらの話でも、主人公が大きな報酬に目がくらみ、寝ている病人の頭と足の方向をくるっとひっくり返して死神をあざむき、死ぬはずの患者を助けてしまう。怒った死神は男の命のロウソクを消してしまう、という結末になっている。

一方、《クリスピーノと死神》では、代母が姿を見せれば病人は死ぬし、姿を見せなければ助かるという設定だ。患者の頭と足の向きをひっくり返すという描写も出てこない。そして物語の結末もハッピーエンドである。オペラのストーリーの後半はこうだ。

《クリスピーノと死神》のあらすじ【後半】

クリスピーノが医者の看板を出すと、町の人々は彼のことをあざ笑う。しかし、彼の見立てどおりに人々が息を吹き返したり死んだりするので、皆はクリスピーノを名医と奉るようになる。金と名声を手にいれたクリスピーノは傲慢になり、苦労を共にしたアンネッタまでじゃけんに扱うようになる。
ついには代母が現れ、地の底にある人間の命を司る場所へと彼を連れて行く。代母は実は〈死神〉だったのだ。死神は現世を写す鏡に、死にそうなクリスピーノのために心から祈りを捧げているアンネッタの姿を写す。クリスピーノは悔い改め、〈死神〉は彼の命を助ける。急に息をふきかえしたクリスピーノを囲み、アンネッタと皆は喜びを歌う。

リッチ兄弟のオペラで今日まで残っているのはこの《クリスピーノと死神》くらいだが、当時は兄弟共作、もしくは個別にも活動する人気作曲家だった。特に《クリスピーノと死神》は初演してすぐに大ヒットとなり、世界中で上演された。このオペラには、ドニゼッティなどによく似たメロディをもつ軽快で楽しい曲が目白押しで、クリスピーノはバリトン、アンネッタはコラロトゥーラ・ソプラノ、そして死神はメゾ・ソプラノ歌手が歌う。テクニックがしっかりしていて演技力がある歌手たちが出演すれば、とても面白いオペラになる。

ルイージ・リッチ(1805-1859)ナポリ生まれの作曲家・指揮者で、フェデリコの兄。スカラ座で主に喜劇の作曲家として成功を収めた。弟との共作は全部で4作残されている。
フェデリコ・リッチ(1809-1877)ナポリ生まれの作曲家で、ルイージの弟。悲劇で成功を収めていたが、兄との共作「クリスピーノと死神」以降、喜劇にも進出する。

楽しいオペラの中にもヒヤリとさせられる〈死神〉の存在

イタリアの夏の野外音楽祭で、珍しいオペラを紹介することで広く知られているマルティーナ・フランカ音楽祭が、2013年に《クリスピーノと死神》を上演した。この舞台が映像になっている。

アレッサンドロ・タレヴィの演出は、17世紀ヴェネツィアを現代に移したものだ。バールでおしゃべりしている人々、お洒落をして歩く男女、イタリアの広場で本当に見かけるような人たちがたくさん登場する楽しいプロダクションだ。ヤデル・ビニャミーニ指揮のイタリア国際管弦楽団の演奏もキビキビしているし、出演者も主人公クリスピーノ役のドメニコ・コライアンニ、妻アンネッタ役のステファニア・ボンファデッリ、ゴージャスなドレスで登場する死神役のロミーナ・ボスコロなど、一流の歌役者たちが芸達者なところをみせている。

クリスピーノ役のドメニコ・コライアンニ
©Mimmo Laera
アンネッタ役のステファニア・ボンファデッリ
©Mimmo Laera
死神役のロミーナ・ボスコロ
©Mimmo Laera

当時どこにでもいたであろう庶民たちを主人公に、自分がクリスピーノだったら、アンネッタだったら、きっとあのように行動してしまう、と思わせる人間くさいドラマが魅力的な『クリスピーノと死神』。

21世紀の今も、未だに命がどこから来て、どこに行くのかを知らない私たちは、落語の最後で死神が冷酷に笑うとき、もしくは、オペラの最後に死神が優しく微笑むとき、とても身近にある〈死〉の存在を思い出して、ヒヤッと冷たいものが胸をよぎるのである。

DVD情報
ルイージ&フェレリコ・リッチ:歌劇《クリスピーノと死神》【DVD、日本語字幕】

収録:2013年7月13日・29日 マルティナ・フランカ デュカーレ宮殿

商品番号: DYNDVD37675

クリスピーノ:ドメニコ・コライアンニ(バス)
アンネッタ : ステファニア・ボンファデッリ(ソプラノ)
死神:ロミーナ・ボスコーロ(メゾ・ソプラノ)

演奏:イタリア国際管弦楽団、バーリ・ペトゥルッツェッリ劇場合唱団(合唱指揮:フランコ・セバスティアーニ)
指揮:ヤデル・ビニャミーニ

演出:アレッサンドロ・タレヴィ

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