読みもの
2020.12.07
週刊「ベートーヴェンと〇〇」vol.40

ベートーヴェンと不滅の恋人 前編:初恋~28歳

年間を通して楽聖をお祝いする連載、「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第40回は、ベートーヴェンの恋について平野昭さんが語ります。「不滅の恋人」は誰だ?! 2週にわたって、恋多きベートーヴェンの恋愛事情を明かします。

ベートーヴェンを祝う人
平野昭
ベートーヴェンを祝う人
平野昭 音楽学者

1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...

初恋の相手とされるエレオノーレ・フォン・ブロイニング(左)と兄弟たち(1780年頃)

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「不滅の恋人」って?

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「僕はいつだって真剣に心の底から恋してた!!」でしょ? ルートヴィッヒのファン、平野昭より!

「不滅の恋人」ってよく言われるけれど、これはベートーヴェンの死後に机のひきだしの奥から見つかった「おはよう7月7日」という日付をもつラヴレターの1枚に書かれた愛する女性(というより恋の相手)への呼びかけ「ベッドのなかにいるうちから、もう私の頭の中は君への思いでいっぱいだ、わが不滅の恋人よ」に由来している。

「不滅の恋人」の原語「Meine Unsterbliche Geliebte」のunsterblichという形容詞は、「不死の、不朽の、不滅の、永遠の」という意味で使われる。

「7月6日朝」に書かれた手紙は「私の天使、私のすべて、私の私(私自身)Mein Engel, mein alles, mein Ich」で始まる。

その夕方「7月6日、月曜日、晩」に書かれたものは「君は苦悩している、君は私にとってもっともかけがえのない存在」で始まる。

これら3通が1812年に書かれたものであり、具体的な名前が書かれていないこの熱烈なラヴレターの相手が、当時11歳から5歳までの4人の子どもをかかえたフランツ・ブレンターノ夫人のアントーニエ(旧姓ビルケンシュトック)であるだろうということはほぼ確定している。

しかし、ベートーヴェンの真剣な恋の相手は6人くらいじゃなかったのかな?(平野案)。でも、瞬間的に心惹かれた女性はもっともっとたくさんいたと思う。

17~21歳、同い年のエレオノーレとの初恋はレモンの味?

ベートーヴェンが17歳ころからピアノを教えに通っていた、ボンの宮廷顧問官でもっとも教養ある貴族ヨーゼフ・フォン・ブロイニング(1777年の宮廷火災で死去)の長女エレオノーレ・フォン・ブロイニング(1771年4月23日~1841年6月13日)が初恋の女性であった。

70年12月生まれのベートーヴェンからすればほぼ同い年の可愛くて聡明なエレオノーレを好きにならないはずがない。ただ、このころ宮廷楽士であったベートーヴェンは、身分の違いをまだまだ意識しないわけにはゆかなかったのだろう。

エレオノーレに献呈されたモーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》のアリア〈もし伯爵様が踊るなら〉による12の変奏曲(1792年作曲)

1792年11月にウィーンに進出して以降は、エレオノーレと再会することはなかった。でも、彼女のことは親友ヴェーゲラーの妻として生涯忘れることなく「淡くて甘酸っぱい初恋の思い出として」心にとどまっていた。

エレオノーレも、夫(1802年3月19日結婚)ヴェーゲラーがベートーヴェンに宛てた1827年2月1日付の手紙の最後に、追伸として自ら「どうかコーブレンツの私どもを一度おたずねください。それが私の心からの願いです」と記している。ああ、でもベートーヴェンはこの手紙をもらって間もなく、生涯を閉じてしまったのだ。

28歳の恋、テレーゼかな? ヨゼフィーネかな? ふたりともいいなあ!

1799年5月、ハンガリーの貴族アナトール・ブルンスヴィク・デ・コロンパ伯爵の未亡人アンナ(1752~1830)は、2人の娘を社交界にデビューさせるべく、ウィーンの親戚(義理の妹)を頼って来訪し、まずベートーヴェンを訪問して娘たちへのピアノ指導を頼んでいる。ベートーヴェンは二つ返事で承諾し、彼女たちがウィーンに滞在した14日間毎日ホテルに通ってレッスンをしたと伝えられている。娘たちとは、長女テレーゼ・ブルンスヴィク(1775~1861)と次女ヨゼフィーネ・ブルンスヴィク(1779~1821)だ。

長女テレーゼ・ブルンスヴィク
次女ヨゼフィーネ・ブルンスヴィク

ヨゼフィーネは短期間のウィーン滞在中に、母親の強い希望によって、ドナウ運河沿いに蝋人形館と複製名画の美術館を運営しているミュラーことヨーゼフ・ダイム伯爵(1752~1804)と見合いさせられている。伯爵はヨゼフィーネにひとめ惚れで、この直後の6月29日にブルンスヴィク家のあるマルトンヴァシャルで結婚式を挙げている。母親の勧めとはいえ、19歳のヨゼフィーネは、母親と同い年の47歳の伯爵と結婚したのである。

裕福な伯爵と思っていたら、大変な借金地獄のなかにあることを結婚してすぐに知ることになる。それでも、高齢の伯爵は1804年1月27日に他界するまでの4年半に、ヨゼフィーネとのあいだに4人の子どもをもうけている。とんでもない伯爵だ。母親も母親だ。あとで「ヨゼフィーネにはかわいそうなことをした」と後悔しても、取り返しはつかない。自分が未亡人であったのだから同い年のダイム伯爵とは自分が再婚すればよかったのに。

このあとヨゼフィーネは、1810年2月にスイスでクリストフ・シュタッケルベルク男爵(1777~1841)と再婚する。男爵とのあいだにも3人の子どもを産むが、1815年に男爵が故郷のエストニアに帰るときに同行を拒否して、事実上の別居となる。一層の不幸のなかで、1821年3月31日に42歳の誕生日1週間前に他界している。

最初の未亡人であったころのヨゼフィーネに宛てた熱烈なラヴレター13通(1804~7年)が1957年にボンのベートーヴェン研究所によって発見され、その後もハリー・ゴルトシュミット(1977年)やマリー・エリザベート・テッレンバッハ(1983年)のような世界的なベートーヴェン学者のなかには1812年の「不滅の恋人」への手紙の相手をヨゼフィーネとする推定する研究者もいる。

ヨゼフィーネの姉テレーゼは生涯独身を貫いた。なぜ……?

テレーゼ・ブルンスヴィクに献呈されたピアノ・ソナタ第24番 嬰ヘ長調《テレーゼ》

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平野昭 音楽学者

1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...

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