静かにオペラを味わえる「バー カルーソー」――舞台美術のような空間で本格的なカクテルを
働き盛りの忙しいあなたに、クラシックを気楽に楽しめるスポットをご紹介するコーナー「夜遊びクラシック」。
第4回は、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんがオペラをめぐる男女の駆け引きを妄想します。舞台は東京・新宿三丁目の「バー カルーソー」。小説に出てきそうな薄暗い店内です。
株式会社ノモス 代表取締役。音楽プロデューサー。クラシック音楽を中心とした高音質な音源制作に定評がある。音楽家のマネジメントやコンサルティングも行う。コラムの執筆やラ...
オペラも聴いてみたいと口に出したことを、私はすでに後悔していた。
四ツ谷から新宿通りをタクシーで走りながら、隣に座る男の顔を除き見る。紀尾井ホールでピアノのリサイタルを一緒に聴き、オペラも好きだという話の流れについ、あまり詳しくないから聴いてみたいと言ってしまった。
「では、いいお店があるんです。このまま行きませんか」
そう誘われて半ば強引に、ホテルオークラの前からタクシーに乗ったのだった。
実はオペラは特に好きではないの、お店に連れて行かれても楽しめないかも。そう思い切って言おうとした矢先、新宿二丁目の交差点を右折してすぐにタクシーは止まった。
「ここ?」
お世辞にも綺麗とは言い難い雑居ビルの前で、促されるままに階段を見上げる。接骨院の入り口ではないのかと訝しむ私を笑いながら、「ここですよ。Barカルーソーです」と急な階段を上がっていく。
重厚なドアの前には確かにバーらしい飾り付けもある。
重そうな木のドアを開けると、油の切れたギーという音がする。
「いらっしゃいませ」
開けたドアの向こうには、ろうそくのような灯りだけが見える。
足元をペンライトで照らされる。
ベルベットの赤いカーテンを広げるとカウンター席が暗闇の中に浮かんでいる。
暗闇にやっと目が慣れたころ、オペラがかかっていることに気がついた。
「洞窟みたいでしょう。暗くて落ち着くんですよ。」
促されるままに大きな一枚板のカウンター席に着いた。
「初めて来られた方は、大抵びっくりされますね。あまりに暗いから。でもこの暗さに慣れてきますので、どうぞゆっくりお過ごしください」
先ほど足元を照らしてくれていたマスターが、今度はカウンターの向こうからおしぼりを渡してくれる。
「急にお連れしてすみません。このバーはオペラがいつもかかっていて、とても美味しいカクテルを作ってくれるのです。初めの一杯は季節のフルーツを使ってもらいませんか?」
場所に驚いている私を少し面白がるように笑いながら、マスターと親密に今日のフルーツを産地の話をしている。
たしかに確かに落ち着く空間だ。音楽の音量も心地よい。男性の歌声が暗闇のバーに優しく響く。
「お待たせしました」
並べられた美しいカクテルは、季節の最後の黄桃とシャンパンが美しく泡立っているベリーニと、今が一番美味しい巨峰とコニャックのカクテル。
ひと口含むと、そこには夏の名残りの甘い香りが鼻まで広がっていく。シャンパンの泡が喉を通り越すころ、甘みに少しの苦味が加わっていく。
「美味しい」
「そうでしょう。季節の美味しいお酒。これをゆっくり味わいながら、オペラの名盤が聴けるのがいいんですよ。マスターもかなりオペラに詳しいので、そんな話をするのも楽しみのひとつです。このお店の名前も、オペラ歌手からですよね」
「はい。エンリコ・カルーソーが好きで、この名前にしたんです。今のCDもカルーソーですよ」
マスターが低い声で答える。
「オペラ好きが集まるわけですね」 相槌を打ってはみたが、少し警戒心が戻る。オペラがわからないと、話についていけそうもない。そもそもカルーソーが誰だか知らないのだ。
ベリーニを口に運ぶピッチが速くなる。
所在ない気持ちが優って、店内を見渡したり、隣の女性が口に運ぶ美しいグラスに目をやったりする。マティーニを入れたグラスのフォルムが美しい。
私の視線を見たマスターがそっとまた教えてくれる。
「お隣のグラスは、ラリック製でトスカという名前がついているんですよ。プッチーニのオペラと同じです。脚がすっと伸びて美しく、マティーニがよく映えるグラスです。オリーブに刺したピックも音符モチーフのものにして遊んでいます」
確かにグラスは美しく、カクテルは美味しく、そして音楽は心地よい。マスターの話も、オペラのうんちくを語り出すわけでもなく、こちらが聞かなければ、その先の話はあえてしないようだ。
時間が音楽とともにゆっくりと流れる。
カルーソーのアルバムが終わり、また違う男性歌手の声になる。この曲は知っている。〈誰も寝てはならぬ〉だ。
気がつけばグラスは空になり、ただ音楽に耳を傾けて暗闇に馴染んでいる自分に気がつく。誰も寝てはならぬ、って、どのオペラだった?
ねえ、と、隣に話しかけようとしている自分の変化に驚く。オペラのこと、特に知りたくなかったんじゃなかった? あまり興味をもてないんじゃなかった? と自問する。
「クラシック音楽を好きな、特に男性は、とにかく語りたがる傾向があると自分でも思っているんです。知っていることを披露したいし、自分が認める名盤なんていうカテゴリーを勝手に作ってみたりして、またそれを人に話したくなってしまう。
でも、本当は言葉で評論的に伝え合うより、こうして黙って同じ音楽を聴いて、感情を静かに共有したほうがいいのかなと、最近思うようになりまして。
だから、ここにご一緒したかったんです。僕らは評論家でも楽理を学んだわけでもない。ただ、音楽が好きで聴いていたいだけですから。オペラのこと、何も話さなくてもいいんです。ここでただ美味しいお酒を飲んで、マスターのかける名盤を聴いているだけで」
2杯目に頼んだウイスキーが、四角い氷を浸して運ばれてくる。バカラのアンティークグラス。ろうそくの炎に揺らされるそれは、ここにあるのに、遠い昔の残像のように見える。
今かかっているのはステファーノですねと言いながら、グラスを傾ける横顔を覗き見る。
音楽を、オペラを、知識や情報から入ろうとして拒否反応を起こしていたのは、私のほうだ。
誰が歌っている、誰の曲でもかまわない。
ただここに美味しいお酒があって、心に染み入る音楽がある。この場所がそれを優しく包んでいる。心を委ねられる時間がある。
そして彼はちょっと面白そうに笑って、最後に私にこう言った。
「トゥーランドット。観てみたくなりましたか?」
Information
マスターの鈴木建太さんは、オペラ好きのお客様からその楽しさを教えてもらって以来、すっかり自分がオペラ好きになり、今ではかなりの入れ込みよう。
鈴木さんの美意識が、お酒の選び方や確かなカクテルだけでなく、この内装や調度品、グラスに至るまですべてに注がれている。店の内装は有名映画の美術を数多く手がけているデザイナーによるもの。薄暗い中でほのかに見える重厚さはアトラクションのようだ。
BGMも時にはリクエストに答えてくれるそう。所蔵する名盤の一部を見ただけでも、相当のオペラ好きだとわかる。
お酒の種類に詳しくなくても、フルーツをリクエストしたり、飲みたい味のイメージを伝えるだけでいい。
バカラなどアンティークのグラスを眺めているのも豊かな時間だ。
予約は不可。
日常を離れてゆっくりしていただきたい。
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