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2018.11.23
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.05

デュシャンとレスピーギの泉? 噴水? Fountainを巡る物語

日曜ヴァイオリニスト兼、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、素敵な“ラクガキ”に帰結する大好評連載の第5回。テーマは「Fountain」。日本語では「泉」とも「噴水」とも訳されます。

レスピーギの音楽とデシャンの便器。2つの「Fountain」を前にGyoemon氏(小川さんの雅号)は噴水の如きインスピレーションの爆発させて、今回も名作誕生です。

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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レスピーギが音楽で描いたのは泉? 噴水?

「日曜ヴァイオリニスト」を自称している筆者は、アマチュア・オーケストラの依頼で賛助出演することがたまにある。先日は、日本IBM管弦楽団という、著名な企業とその関連会社の社員で構成されるオーケストラの演奏会に出演した。今日は、そのプログラムの中にあったイタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(1879〜1936年)の《ローマの噴水》に題材を取った。

噴水は古代ローマの繁栄の象徴だ。何せ2000年をさかのぼる時代に、上水道が引かれたのである。噴水もその水道建設、すなわちインフラ整備の成果物。ローマ人の知恵と技術の結晶だったという。

この曲でレスピーギは4つの噴水をテーマにしている。それも、ただの絵画的な描写にはとどまらない。夜明けにかすかに湧き出すような水の音を表していたかと思えば、怒涛のように水が噴き出す場面が創出され、最後には静謐な世界に戻るドラマチックな曲なのである。

中でも、現代でも有名な「トレヴィの噴水」の部分は、特に壮大な印象だ。筆者が担当したセカンドヴァイオリンは冒頭の神秘的にさえ感じられるかすかな水音を描写する役割を果たした後、トレヴィの場面ではほかの多くの楽器と一緒にゴージャスな音楽を演奏し、千変万化とも思える噴水の音楽的再現を心おきなく楽しむことができた。

オットリーノ・レスピーギ:交響詩『ローマの噴水』
アントニオ・パッパーノ(指揮) サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団

さて、ここまで読んで、何か気になることがあった方もいるのではないだろうか。「トレヴィの噴水」という表現である。海外旅行のガイド本などで広く流布しているのは、「トレヴィの泉」という呼称だろう。「泉」と「噴水」は、イタリア語ではどちらも”fontana”(英語では”fountain”)である。ところが、日本語では「泉」は「地中から湧き出てくる水」、「噴水」は「水がふき出るように作ってある装置」と、明確な違いがある(ともに、小学館「精選版 日本国語大辞典」より引用)。トレヴィに限らずローマの噴水は人工物なので、本来は「噴水」と訳すべきと考えられる。日本IBM管弦楽団のプログラムでは、一貫して「噴水」という言葉を使っていた。正確な表現にこだわったのだろう。

その昔、観光名所の名前として”Fontana di Trevi”を直訳した結果「トレヴィの泉」という名称が流布したとも推測される。むしろ、「トレヴィの泉」という言葉に慣れていると、「トレヴィの噴水」という言葉に違和感を持つこともありそうだ。

《ローマの噴水》の第1部「夜明けのジュリアの谷の噴水」ボルゲーゼからパリオーリの一帯を指すジュリアの谷にある「亀の噴水」
第2部「朝のトリトンの噴水」はバルベリーニ広場にあるベルニーニの作品。
左: 第3部「真昼のトレヴィの泉」はローマの観光名所「トレヴィの噴水」(筆者撮影)

上: 第4部「黄昏のメディチ荘の噴水」19世紀にジェームズ・アンダーソンによって撮影されたメディチ壮の噴水

「便器」と「Fountain」から噴き出すイマジネーション

さて、ここでどうしても例に出したくなる美術作品がある。フランス出身の美術家マルセル・デュシャン(1887〜1968年)の《泉》(1917年)である。奇しくも現在、東京国立博物館の「マルセル・デュシャンと日本美術」展で、そのレプリカが展示されている(オリジナルは失われている)。レスピーギの《ローマの噴水》は、1915〜16年の作。まさに同時代の作品である。

アルフレッド・スティーグリッツ撮影の《泉》(1917)

1917年、ニューヨークで開かれた独立芸術家協会の展覧会(アンデパンダン展)に、男性用の小便器を“美術作品”として出品を試みたのがデュシャンの《泉》(英名”Fountain”)だ。デュシャン本人はその展覧会で運営委員を務めており、偽名での出品だった。当時どんなに物議を醸したことか! 想像するのが楽しくなるような出来事である。

東京国立博物館で、ぴかぴかに磨かれ、ショーケースに仰々しく収められたこの作品を見て、「ああ、美術品だな」との思いを新たにした。筆者がすでにこの作品のことを知っていたから、という側面は否定できないものの、《泉》は神々しさすら放っていたのだ。それがデュシャンの本意とも思えないが、間違いなく美術館という場の空気が大きな役割を果たしていた。

マルセル・デュシャン《泉》(1950年制作のレプリカ=フィラデルフィア美術館蔵、1917年制作のオリジナルは紛失)展示風景(東京国立博物館平成館)
ルイーズ・ノートンという人物はこの作品を巡って「化粧室の仏陀」という文章を書いたそうだが、確かにじっと眺めていると、便器が仏像のあるいは達磨像のように見えてくる

この作品も本当は「噴水」と呼ぶべきなのではないかと言われることがある。人工物を利用しているからだ。「小便器は寝かせられているので、水分が逆流して噴き出すのではないか。そもそも人間から噴出する水を受けるための器なのだから……」などとさまざまに想像を膨らませると、まさに「噴水」だとの解釈が真実味を帯びる。「噴水」というタイトルで眺め直すと新たなイマジネーションが働き始めると思うのだが。

レスピーギの《ローマの噴水》は、実物の噴水をはるかに上回る壮大なイメージで作曲されている。デュシャンの《泉》は美術史の概念をひっくり返すような革命的な発想のもとで生み出された作品だった。共に人工物であるという事実はゆるがない。「泉」なのか「噴水」なのか、ゆるく解釈すればこだわらなくてもいいような些末な問題ではあるが、考え始めるとそれぞれのアーティストたちから湧き出てきた創造の妙にうなるのである。

ローマの観光名所「トレヴィの噴水」(筆者がパノラマ撮影したもの)
マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体No.2》(1912年、フィラデルフィア美術館蔵)展示風景。
平面における時間の表現を模索している。デュシャンは平面絵画でも素晴らしい表現を多く残している。来場客もまるで息を合わせたような動きを見せている。
マルセル・デュシャン《ソナタ》(=左、1911年、フィラデルフィア美術館蔵)《ぼろぼろにちぎれたイヴォンヌとマグドレーヌ》(1911年、フィラデルフィア美術館蔵)展示風景。共にデュシャンが描いた家族の肖像画。《ソナタ》では、姉妹がヴァイオリンとピアノを奏でている。《ぼろぼろに~》で横顔が描かれているのはまさに楽器を演奏している2人。表現の開拓に意欲的だったことがわかる
Gyoemon(筆者の雅号)作《トレ美の噴水》
ローマの「トレヴィの噴水」にはたくさんの硬貨が投げ入れられるが、こちらの「トレ美の噴水」にはたくさんの#や♭、音符などが落ちて沈んでいる。
展覧会情報
東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展 マルセル・デュシャンと日本美術

期間: 2018年10月2日~12月9日

会場: 東京国立博物館( 東京都台東区上野公園13番9号)

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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