加藤一二三は“アート思考”の先駆者? ~なぜバッハとモーツァルトを愛するのか
将棋人気に多大なる貢献をしている棋士“ひふみん”こと、加藤一二三さん。クラシック音楽好きやキリスト教徒であることを多くのメディアで公言しているが、その聴き方や向き合い方、音楽の受け取り方はどのようなものなのか。小室敬幸さんがインタビュー!
東京音楽大学の作曲専攻を卒業後、同大学院の音楽学研究領域を修了(研究テーマは、マイルス・デイヴィス)。これまでに作曲を池辺晋一郎氏などに師事している。現在は、和洋女子...
モーツァルトやバッハを聴いて天才棋士になった
引退から3年ほどを経た現在も、80歳という年齢を感じさせぬほど精力的に活動する将棋棋士・加藤一二三。
とりわけ藤井聡太が世間を賑わすたびに、各種メディアに引っ張りだこ。Twitterのフォロワーは18万人を超え、将棋という枠や世代を問わずに親しまれ、尊敬されている唯一無二の存在であることは皆さま御存知の通りである。
14歳7か月でプロ棋士となり、18歳3か月でA級八段、20歳3ヶ月で名人挑戦……と、加藤がモーツァルトに匹敵するほどの神童であったことは疑いようがない。歴代最強の棋士との呼び声もある大山康晴(1923~1992)をして「大神武以来の天才」「加藤一二三は大天才である」と、これ以上ないほどの最大級の賛辞を惜しまなかったほどなのだから。
しかしながら、早世してしまったモーツァルトと大きく違うのは、長く天才であり続けたこと。「神童も二十歳過ぎれば、ただのひと」という言葉もあるように、持って生まれた才能だけで60年以上にわたって第一線で活躍し続けることなど不可能だろう。
長いプロ棋士生活のなかでキリスト教の教えとクラシック音楽が支えになったと、加藤はたびたび語っている。1970年(30歳)にカトリックの洗礼を受け、1982年(42歳)に中原誠と名人戦を戦った際には対局のさなか、自宅でモーツァルトやバッハを聴いて、名人のタイトルを獲得したことが各所で話題になった。
「名人戦は7回勝負を、1週間から10日ほど空けて戦っていくんです。ですから、対局の合間の時間の使い方が大事になります。家でよく、モーツァルトの《レクイエム》やバッハの《マタイ受難曲》、ときどき《ロ短調ミサ》を聴いていたことが、その後も習慣になりました。
バッハはプロテスタントでしたけれど、私の属するカトリック教会でも四旬節には《マタイ受難曲》のコラール(聖歌集171番「いばらのかむり」)が必ず歌われるんです。だから私たち信者にとっては、イエス様のご受難に関する歌のなかで、もっともポピュラーな曲として親しんでいます。
でも、私が《マタイ受難曲》を聴くようになったきっかけはニーチェだったんですね。あの無神論者のニーチェですらも《マタイ受難曲》は感動して聴いていたという新聞記事を読んで、『これは絶品に違いない!』と思って、カラヤンのレコード(ベルリン・フィルを指揮した1972年の録音)を買ってきました。今はCDになりましたが、聴くことが多いのはやっぱりカラヤンの演奏です、はい」
動物たちも喜ぶ
こうしてバッハの音楽は、加藤の日常に欠かせぬ存在となっていった。愛猫家としても知られる加藤は、動物たちともクラシック音楽をシェアする。
「クラシックの名曲というのは人間だけが楽しめるんではなく、例えば犬や猫も聴かせたら喜ぶんじゃないかと思うんですね。あるとき、ルービンシュタインが弾くバッハの《シャコンヌ》(ブゾーニによるピアノ編曲)を猫と一緒に聴いてみたんだけど、明らかに音楽がわかるんですよ。
《魔笛》のなかでも、音楽を聴かせると動物が歓び踊るシーンがありますよね。モーツァルトは、動物たちが音楽で喜ぶことを知っていたんだなと思います」
ルービンシュタインが弾くバッハの《シャコンヌ》(ブゾーニによるピアノ編曲)
モーツァルトのオペラ《魔笛》より、音楽を聴かせると動物が歓び踊るシーン
将棋にも通じる音楽と、聴いて受けとる気持ちとは
モーツァルトへの親愛は単なる好みにとどまらず、将棋のより深い部分ともリンクしている。
「素晴らしい音楽は一瞬一瞬の展開で景色が変わっていきますが、将棋も一手指すごとに景色が変わっていくんですよ。そういう意味で『名曲』と『名局』には共通点が多いんです。だからこそモーツァルトを聴いていますと『明日、自分が戦う将棋もこのようにありたいなあ』という気持ちになります」
日頃から「将棋は芸術だ」「将棋と一番近いものは音楽である」と語る加藤の信念が伝わってくる言葉だ。ひとつひとつ良い手を積み重ねて「名局」となるという発想があるからこそ、加藤は詰将棋にも人一倍の思い入れをもっている。
「詰将棋というのは、音楽でいえば聴かせどころ。とても良い手ばかりを使って玉(王将)を詰める世界なので、(芸術としての)将棋の魅力を体験できる素晴らしいものだと思っています。余談ですが、藤井聡太さんは歴代の棋士のなかで、詰将棋の名作をつくらせたら一二を争うほどですよ」
では、敬愛するもうひとりの天才バッハについて、加藤はどのような影響を受けているのか?
「バッハの場合は感動するだけでなく『何かしなくてはいけないぞ!』という気持ちになってくるんです。それはなぜかと申しますと、外国の枢機卿の方が来日した折、迎い入れる日本人たちはおもてなしの準備をするわけですけど、枢機卿からするとその時間も惜しんで宣教をしなくてはならないんじゃないかと考えるそうなんです。時間がもったいないってことなんだと思うんですけれど、バッハの音楽からは、その感覚を連想するので急き立てる気持ちになるのだと思いますね」
理詰めだけではなく、感性が大事
キリスト教徒でないものにとって目からウロコの斬新な視点で、非常に興味深い。引退後も年齢を感じさせないほどの逞しい行動力は、バッハの音楽から刺激を得ていたのだ。そしてクラシック音楽の楽しみを深めていくには、音楽家たちとの出会いも大きかった。
「芥川也寸志(1925~1989)先生とホテルニューオータニで対談させていただいたことがありました。芥川先生は大の将棋ファンで、一局指すのに4時間かかるというんですよ。大体、将棋ファンがどんなに長考して、止めてたって2時間です。とってもビックリしましたね。
あと先生に、日本ではブーニンのような演奏家は出てこないよと言われたのが印象に残っています。今は違うのかもしれませんが、日本の音楽界はどちらかというと定石通りに演奏するという世界だから、ブーニンみたいな大胆な弾き方はなかなか難しいんだよね……とおっしゃっていましたね。それからずっとあとに、ファジル・サイのコンサートに家族で行った際にも、そのことを思い出しました。あのときに初めて《きらきら星変奏曲》を知ったんですよ!」
ファジル・サイの弾くモーツァルトの《きらきら星変奏曲》
こうした音楽体験の記憶がとめどなく溢れ出てくるところからも、クラシック音楽への強い愛が感じられる。
「モーツァルトのピアノ協奏曲第22番 変ホ長調が好きだと、池辺晋一郎先生にお話ししたときには、この曲が好きな人は極めてユニークだと言われました(笑)。だって、あれいい曲ですよ!映画『アマデウス』では野外演奏会のシーンで使われていましたよね。『アマデウス』が公開されたときには棋士のあいだでも話題になりました。自分がモーツァルトなのか? それともサリエリなのか? ってね(笑)」
映画『アマデウス』で流れたモーツァルト「ピアノ協奏曲第22番 変ホ長調」
間違いなくサリエリではなく、モーツァルト側にいるであろう藤井聡太。彼の実力を非常に高く評価しつつも、心配をしている部分もあるという。
「藤井さんは対局の前に6ヶ月間も研究したりするそうなんですが、それでも負けたりするのが将棋の世界。そういうオタクみたいなやり方はやめたほうがいいのではと思っています。面白いもので将棋というのは毎日5時間、6ヶ月研究を続けたって強くなるという世界ではないんです。将棋の可能性は『10の220乗』あると言われたりするので、考えだしたらキリがない。だからこそ、理詰めだけではなく、感性が大事なんです」
理性と神秘で人生をより豊かに
理性と同時に感性をもっと活かそうという発想は、近年のビジネス書などで大きな話題となっている「アート思考(Art Thinking)」にも通ずるのが面白い。将棋でもアートでもビジネスでも、ありとあらゆるジャンルで、究極の理詰めであるAI(人工知能)の発展ではたどり着けないであろう感性の領域を重要視することが、今の時代に求められている。
「キリスト教にも、つまずくことなく人生を歩いていくための眼にあたる『理性』の部分と、うひょー!? この世の中には、そんなことがあるの!? というような『神秘』(≒感性の領域)があるんです。
3年前の引退直前に、ゆるしの秘跡にあずかって神父様に『あなたは仕事をするのが嫌いですか?』、(嫌いじゃないのなら)『仕事をしなさい』と言われました。実際、引退後の仕事は、控えめにいっても倍に増えたんです。こんなこと普通はありえないですよね? ある意味これは神秘であり、お恵みだと私は思っています」
理性で理解できないものも受け入れ、心から感謝する。このシンプルな考え方が、キリスト教徒ではない人々にとっても、自分の人生をより豊かにするヒントとなることだろう。そして、クラシック音楽をはじめとするアートも、不急不要のものでは決してなく、人生の新しい局面を切り開いていくために必要不可欠なものなのだ。
「感性」や「アート」の存在がより重要なものとなっていく、これからの時代を生き抜くために、加藤一二三という人間の生き様はわれわれに大きな示唆を与えてくれるはずだ。
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