語りと三味線、一対一! 浪曲は楽譜で表せないエネルギーのセッション
語り手=「浪曲師」と、三味線弾き=「曲師」が、節(歌)と啖呵(たんか/台詞)で物語を表現する「浪曲」。「浪花節(なにわぶし)」とも呼ばれる、明治時代初期に生まれて昭和には一世を風靡した芸能です。
その浪曲師のなかでも目覚ましい活躍を見せる玉川奈々福さんが、2月8日・9日、銀座の観世能楽堂で大規模な独演会を行ないます。奈々福さんと、相三味線(専属の三味線弾き)を勤める曲師の沢村豊子師匠に、浪曲との出会いやその魅力、さらに浪曲の今とこれからについて話を伺いました。
早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。『The Japan Times』『E...
編集者から曲師へ――奈々福さん、浪曲との出会い
――浪曲師として、古典は勿論、「百人一首」からオペラの原作になったアレクサンドル・デュマ・フィスの『椿姫』までさまざまな題材から新作を作り出し、イタリアやオーストリアなどでも公演を行なっている奈々福さん。浪曲とは、どのようにして出会われたのですか?
奈々福 1994年のことです。当時、私は出版社で編集者をしていて、いろいろな著者に会って本を書いてくださいと言う立場だったのですが、まだ20代だったので、大作家の方を動かすには自分の言葉の質量が足りないと痛感して。言葉を消費するのではなく、その言葉の源泉になるような感覚を充実させたいと思い、習い事を探していたところ、日本浪曲協会の三味線教室の新聞広告が目に止まりました。和のものは敷居が高いけれど、そこは三味線を貸してくれてお月謝で良いと言うので、行きやすいと思ったんです。
そのときの私は三味線にいろいろな種類があることも、浪曲がどのようなものであるかも知りませんでした。行ってみると、習いに来ているのは、津軽三味線や小唄の三味線の経験者ばかり。私は続かないかなと感じたのですが、教えていらしたのが玉川美代子師匠という大名人の三味線の方で、その方の三味線が、バチの先からダイヤモンドの小粒が惜しげもなく溢れるような綺麗な音色だったんです。それで、辞めるのはいつでもできるから、この音に興味があるうちは続けてみようという気持ちで始めました。
でも、浪曲には譜面がないんです。西洋的な音楽は、何拍子でどういう理屈になっているのか、というところから理解しますよね。それがないのでさっぱりわからない。しかも、美代子師匠に弾いてもらうと、さっきと全然違うのに「同じよ」とおっしゃるから、混乱して。
豊子 節にはそれぞれ名前がついていて、基本の“間”は一緒。テレテンって弾くとか、トントントンって弾くとか。学校を出た方はわからないとおっしゃるけれど、浪曲の三味線は、その基本以外は歌い手(浪曲師)に合わせてその時々で弾くものなんです。
奈々福 浪曲ではエネルギーとエネルギーのセッション性を重んじる。そのために必要な手を弾くから、譜面通りではないんです。豊子師匠も「今、奈々ちゃんはこういう感じだからこんなふうに弾いてあげよう」って弾いてくれるけど、もう一回やってと頼んでも覚えていないんですよ。
豊子 奈々ちゃんの前に相三味線を弾いていた(故・国本)武春さんなんて、だんだん私の手がわかってきて乗って歌えるようになったら、毎日楽しみで、「ここをこう行ったらどういうふうに来るかな」「あ、こう来たか、じゃあここはこう行こうか」なんて考えながらやっていると言っていて、私は「えー」って言ったんだけど(笑)。
奈々福 そういう理屈が最初は全然わからなかったのですが、先輩や師匠のものをたくさん体に入れるうちに、あ、こういう理屈だったんだというのを自分で発見していきました。
浪曲師の道へ――豊子師匠との出会い
――そして、奈々福さんは、浪曲師の玉川福太郎師匠のもとに“曲師”として弟子入りなさいます。
奈々福 教室の発表会の本番の席上で、いきなり福太郎師匠に「プロになる気はありますか?」と聞かれて。お客さんもいるのでここで角を立てるのもどうかと思って取りあえず「はい」と答えたら、「浪曲は唸り手と三味線との一対一の芸だから、三味線だけで大勢で演奏する教室ではうまくならないよ。うちにくれば俺が唸る(歌う)し、うちのかみさん(玉川みね子)が三味線弾くから勉強になる」と言われ、師匠の家に行ったところ、弟子入りの話になっていたんです(笑)。
「私は正社員として会社に勤めているから無理です」と断ったのですが、「うちはかみさんが月曜から金曜まで弾いて、土日はよそで仕事をする。お前は土日が休みだから弾けるだろう」。これまた、いつでも辞められるから、と思って「はい」とご返事すると、翌月には初舞台が用意されていて、さらに師匠の独演会で1席のうち半分を弾かせてもらったところ、終わったら封筒に3000円が入っていて「金をもらったからにはプロだ」と言われました(笑)。
――そんなこんなで、曲師としてプロ入り。そこからどうして浪曲師に?
奈々福 師匠のもとで三味線を弾いていたら、ある日、「呼吸を知るためにも一回唸ってみて、どういうふうに弾いてもらえば助かるのか、浪曲の側から体験してみろ」と言われたんです。
浪曲の三味線で大事なのは、浪曲師の呼吸をいかにつかんで声を出させて一体になれるか。でも私はきっと、師匠の声にぶつかるような三味線ばかり弾いてたんでしょうね。「好きなネタを覚えればいい」と言うのでいきなりトリがやるようなネタを覚えて呆れられましたが(笑)、その数カ月後には、せっかく覚えたからと木馬亭(木馬亭は浪曲の寄席。いわば東京の浪曲の牙城とも言うべき木馬亭で、今回の撮影も行なった)に出演するようになり、さらに1年ほど経った頃、先輩から、毎月、木馬亭の定席の前の朝の時間を利用して、唸り手の勉強会をしないかと誘われ、師匠に相談をした上で出ることになったんです。
ところが、その初回でお願いするはずの三味線さんが降りてしまい、かつ、代理を豊子師匠に頼んでしまったんです。
私にとって豊子師匠は、お話ししたこともない雲の上の人。おずおずと電話したところ、「弟子が稽古に来るときに一緒に来れば稽古してあげる」と言ってくれました。ところが、その稽古の場所は豊子師匠の家ではなく、豊子師匠が相三味線をしていた国友忠(くにともただし)先生の家だったんですよ。
国友忠先生は、うちの師匠も習ったことがある偉い方。しかも戦中は陸軍中野学校に入り、諜報活動をしていたという、すごく怖い方なんです。その先生の前で、私も私なんですが古典をやらずに、自分がやろうとしてた新作を披露したところ「最近の浪曲師はこういうのが好きなの。ふうん。……ゼロからやり直せ」「うちに通ってこい」。
翌日にはその国友先生からお手紙も届いて、そこにも「ゼロからやり直せ」と書かれていて。福太郎師匠に相談したら「学ぶべきことがあると思うなら行けばいい。ただ、あの先生はすごく芸があるけれど、ものすごく難しい人だぞ」と。豊子師匠は豊子師匠で「あんたが二葉百合子(NHK紅白歌合戦にも出演した元演歌歌手であり、浪曲師。現在、日本浪曲協会名誉顧問)くらいの看板になる覚悟があるならお稽古してあげる」って、こっちもこっちですごいこと言うんですよ(笑)。
豊子 だって一生懸命お稽古してあげて辞められたら困るもの。それくらいなら最初から手をかけないほうがいい。でも「最後までやります」と言うから。
奈々福 そうやってやらざるを得ない状況に追い込まれて、潮目が変わったと思います。私は会社員をしながら週2回、茨城にある国友先生のおうちに通いました。
国友先生は浪曲の全盛時代を知っている方なので、稽古で私の眼の前でやってくれる芸がすごくて、私は笑い転げて喜んで(笑)。でも先生は『猫餅』という演目の、1席の半分しか教えてくれない。それでは舞台にかけられないんですよ。こっそり昔のテープを発掘して後半も覚えましたが、許可が出ないから上演はできずにいたんです。
豊子師匠が「お稽古だけじゃなくて仕事も頼んでいいよ」「(謝礼は)出世払いでいいよ」と言ってくれたので、初めてお願いして新潟に仕事に行ったとき、豊子師匠から「東京だと周りに浪曲師がいるから聞こえちゃうけど、ここなら大丈夫だから、あれやっちゃいなよ」と言われて、お師匠さんが言うなら大丈夫だろうと思って『猫餅』をやったところ、お客に受けて。そうしたらお師匠さん喜んじゃって、国友先生に「奈々ちゃんね、受けたんだよ」と話してしまったんです!
豊子 だって嬉しかったんだもん(笑)。
奈々福 すぐに国友先生からFAXが来て「お豊さんから『猫餅』をやったと聞きましたが、まさか私に黙ってそんなことは、すまいね」と。真っ青になって謝りに行きました。
奈々福 そのとき、国友先生が、何故半分しか教えなかったか話してくれて。戦後、GHQの命令で、任侠ものと『忠臣蔵』ができなくなってしまった(GHQは占領下、封建主義を美化したもの、民主化に反すると判断したものの上演を禁止した)。浪曲師は飯の食い上げなんです。でも『猫餅』はファンタジーで、全国、老若男女誰にでも受けるから、このネタにどれだけ助けられたことか。だから、あだおろそかにやってほしくないんだと言っていました。
そういう、猛烈に濃い状態で、毎月毎月、先生のところに通ってはネタをもらってネタおろしをして。だから私が持っているネタの半分くらいは国友先生から教わったものです。しかも豊子師匠が弾いてくれるから、本気になっちゃいましたね。「売れちゃったから、浪曲界のためにも浪曲師としてやるべきだ」と言う周囲の声があって、06年に美穂子改め玉川奈々福として名披露目しました。福太郎師匠は「この子は三味線弾きだ」と最後まで抵抗なさっていましたけれども。
命の危機から浪曲一本へ――そして知る真実
――その福太郎師匠は翌07年に、田植え機の下敷きになって不慮の死を遂げられて。
奈々福 ショックでした。師匠に弟子入りしていなかったら絶対にこうはなってなかったです。「今どき、昔のまま踏襲しても食べられないんだから、自分の道は自分で作れ」と言って、ブレーキをかけるようなことを一切しなかった。いつも「売られた喧嘩は買え」「お前の考える通りにやればいいんだ」と言ってくれる、懐の深い師匠でしたね。
――2013年には会社を辞められ、浪曲一本での活動を開始されました。
奈々福 命の危機だったんです、ストレスで全身に蕁麻疹が出て。終演後に救急で運ばれることも何度かありました。ついには芸人になることを反対していた母から「お願いです。会社を辞めてください」と頭を下げられ、後援会の人にも「もう会社辞めましょう」と言われて。
――激動の浪曲人生ですね……。
奈々福 本当にいろいろなご縁があって今に至ります。私は母方の祖母のお兄さんが芸人で、大酒飲みで家族を顧みず苦労をかけたロクでなしだと聞いていました。
15年ほど前に初めて、それが浪曲師で、しかも立川談志師匠も憧れた初代木村重松という、私が一番好きな大名人の弟子だったことがわかったんです。その木村重松を題材にした短編小説『浪花節更紗(なにわぶしさらさ)』の作者の正岡容は、私が私淑する(作家・演劇人の)小沢昭一さんや(落語家の)桂米朝師匠の師匠で、私の家の芸である『天保水滸伝』の作者でもある方。この『浪花節更紗』を私は2013年に浪曲化しています。
会場: 銀座・歓世能楽堂(東京都中央区銀座6-10-1 GINZA SIX 地下3階)
入場料: 全席指定 4,500円(税込)
第一日目「創造の巻 創作浪曲、ほとばしる!」
ゲスト: 鈴木敏夫(スタジオジブリプロデューサー)
「仙台の鬼夫婦」(滅多にやらないロングバージョン)
ゲスト: 周防正行(映画監督)
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