インタビュー
2023.03.14
プリンストン大学教授が語る作曲家研究の最前線

ロシア音楽研究サイモン・モリソンへプロコフィエフとロシア音楽に関する10の質問!

今日のロシア音楽研究の中心的人物のひとりで、アメリカのプリンストン大学教授のサイモン・モリソン氏にインタビュー! プロコフィエフのソ連時代や妻リーナの伝記を著した氏の作曲家観や、その魅惑的な旋律への才能を熱く語ってくださいました。

菊間史織
菊間史織 音楽学者

1980年東京都生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科、同大学院修了(音楽学博士)。音楽教育に携わりながらプロコフィエフ研究を続ける。著書に『「ピーターと狼」の点と線~プ...

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サイモン・モリソン氏は今日のロシア音楽研究の中心的人物のひとりだ。緻密な資料調査にもとづき、プロコフィエフやバレエについて数々の文章を書かれ、20世紀はじめのバレエや劇音楽の復刻上演や初演にも意欲的に取り組んでおられる。

筆者は昨春オンラインの国際シンポジウムで《ピーターと狼》について発表した際、「本と映像のなかの大先生」だったモリソン教授にコメントをいただき大変感激した。今回、コロンビア大学プロコフィエフ・アーカイヴでの資料調査に合わせてニューヨーク近郊のプリンストン大学を訪れ、教授に直接お会いすることができた。

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サイモン・モリソン氏(左)と筆者。Simon Morrison:トロント大学、モスクワ教育大学、マギル大学を経てプリンストン大学で博士号を取得し、2008年よりプリンストン大学教授として音楽史を教える。専門は特にロシアやソ連、フランスの20世紀音楽。2011年、グッゲンハイム・フェロー(2011)を受賞。編著にProkofiev and His World (Princeton, 2008) など、主な著書にRussian Opera and the Symbolist Movement (California, 2002, 2019)、The People’s Artist: Prokofiev’s Soviet Years (Oxford, 2009) 、Bolshoi Confidential (2016)、The Love and Wars of Lina Prokofiev (Houghton, 2013)、Mirror in the Sky: The Life and Music of Stevie Nicks (California, 2022)。アーカイヴ資料にもとづきプロコフィエフの《鋼鉄の歩み》(2005)、《ボリス・ゴドゥノフ》(2007)、《ロミオとジュリエット》(2008)、ジョン・カーペンターの《クレイジー・カット》(2010)、コール・ポーターの《Within the Quota》(2017)などの復刻上演や初演の監督も行なっている。

プロコフィエフの曲を弾くのが大好きで、彼の音楽すべてに夢中になった

1、先生はなぜロシア音楽の勉強をはじめられたのでしょうか? ロシア音楽研究者として、現在のウクライナの戦争をどう見ていますか?

私はトロント大学でロシア音楽を勉強しはじめました。プロコフィエフの曲を弾くのが大好きで、彼の音楽すべてに夢中になり、見つけられるすべての録音を聴き、英語で書かれたものを全部読みました。その後でロシア語を勉強しはじめ、ソ連崩壊直後のモスクワに1年住みました。

ロシアのウクライナ侵攻はひじょうに大きな災いです。仮に解決というものがあったとしても、簡単な解決方法はない世界的な争いのなかに私たちは置かれています。

私はロシアの(プーチンの)ファシズムへの転向にショックを受けたままで、自分の長年のロシア文化支持について自問させられています。ロシア/スラヴ研究という分野全体が根幹から揺さぶられており、いまや誰も、明示的にせよ暗示的にせよ、あの文化の民族主義のプロモーションや帝国主義的、植民地主義的な意図について考えずにロシア文化を見ることはできないと思います。

ロシアとウクライナの関係は複雑、不穏で、ウクライナの歴史にはかなり闇があることを分かった上で言っているのですが。

プロコフィエフの息子に頼まれて書いた母リーナの伝記

2、『リーナ・プロコフィエフの愛と戦争』を読みました。先生のご著書は、詳細な研究にもとづきながら事実の羅列ではなく、登場人物の繊細な感情を伝えています。学者としても作家としても尊敬しています。この伝記を書くときに念頭にあったことは?

M 私はこの伝記を、リーナ(※)の息子スヴャトスラフに生前に頼まれて書きました。以前リーナのニューヨークでの子ども時代について小論を書いたとき、それを読んだ彼が感激して、彼女の物語を書いてほしいと提案してきたのです。

彼とその息子セルゲイ・スヴャトスラヴォヴィチは、ロシア国立文学アーカイヴにある彼女のすべての手紙と個人的な書類を見る許可を私に与えました。それらの文書に助けられて、リーナとその夫、作曲家プロコフィエフとの関係を理解し、また、第二次世界大戦前後のソ連での外国人としての彼女の体験を記録することができました。

 

サイモン・モリソン著『リーナ・プロコフィエフの愛と戦争(LINA AND SERGE: THE LOVE AND WARS OF LINA PROKOFIEV)』(amazon.comで購入可能)

彼女の物語は悲劇的で、私のアプローチは彼女の意思の強さを証明することになったのではないかと思います。彼女はスターリン時代の収容所で生き延び、プロコフィエフからの扱いは特によくなかったのに彼の音楽を生涯支持し続けました。私は彼女の彼への献身というものを理解したかったのだと思います。

それと、彼女の主張によればプロコフィエフが1935年にソ連の作曲家になってからどんなに変わってしまったのか、ということについても。

※リーナはウクライナ出身の母とスペイン出身の父をもち、声楽家の両親のもと世界を転々とした後ニューヨークに移り住む。1918年12月にプロコフィエフの演奏を聴いてファンになり、やや不幸な交際を経て23年秋に25歳で結婚(この結婚は後にソ連から無効とされる)。24年に長男、28年に次男を出産した。36年に家族とともにソ連に移り住むが、38年に夫があらたな女性に出会う。夫が48年にミーラ=メンデリソンと結婚直後、当局に逮捕され、強制収容所に送られる。56年に解放後もソ連に住み続けたが、74年に出国。ロンドンに住んでプロコフィエフ財団を設立し、1989年に亡くなった。

 

セルゲイ・プロコフィエフの家族。左からセルゲイ、二人の息子スヴャトスラフ、オレグ、妻のリーナ。

3、『人民の芸術家:プロコフィエフのソ連時代』では、自分の音楽は書かれたコンテクストから超越しているというプロコフィエフのヴィジョンが強調されているように思いました。このような彼の考え方は、彼が生きた時代に影響されていると思いますか?

M これはよい質問で、答えるのが難しいものでもありますね。彼は1920年代に自分の音楽を「絶対的」な言い方で、つまり文化的コンテクストから超越し、離れた、それ自体の領域に存在していると語りはじめました。この変化は部分的には、彼の新古典主義の採用や、国境を超えて一般的に人の心に訴えるサウンドへの関心とかかわっています。アーロン・コープランドも創作人生のなかでほぼ同じ頃に同じことをしています。

その後ソ連時代には、明らかにプロコフィエフはプロパガンダ的音楽を書かされていました。それでもまだこの音楽は現実から離れて存在すると彼は信じていた。興味深いのは、彼が音楽素材を作品から作品へと自由にリサイクルしていたことです。それはつまり彼にとっては、彼が書いたサウンドは多価で、自由に浮遊し、いま・ここから切り離されていて、その意味で超越的であった、ということを示唆しています。

セルゲイ・プロコフィエフ(1918頃)

プロコフィエフは頭脳的な音楽家だが、愛がほぼ100%彼の音楽に注ぎ込まれている

4、プロコフィエフの作品のなかで一番好きな曲は? 私はプロコフィエフの音楽のなかにはずっと冷たくて静かなメロディが流れていて、同時に、プリミティヴでシンプルなものへの愛情も一貫してもっていたように感じています。

M フレデリック・アシュトン振付の《シンデレラ》が好きです。ひじょうに崇高な創作物です!

プロコフィエフは確かに頭脳的な音楽家ですが、愛がほぼ100%彼の音楽に注ぎ込まれていることもまた明白であると思います。プーランクからショスタコーヴィチまで皆が認めていたように、彼の魅力的、魅惑的で深く人の心を打つ旋律への才能は比するものがありません。

フレデリック・アシュトン振付《シンデレラ》の紹介映像(新国立劇場バレエ団)

5、プロコフィエフの日記を読むと、ソ連の政治的な管理がなかったら彼はアメリカに住む運命だったように思われるのですが?

M 確実に彼は1930年代後半にアメリカに住んでいたでしょう。彼の妻リーナは家族でロサンゼルスに引っ越すことを望んでいたし、そこでプロコフィエフはハリウッドの作曲家になっていたでしょう。彼女はロサンゼルスのアパートを借りることさえしました。

しかしもちろん彼は1930年代後半にはソ連市民で、国外旅行は監視されていたし、行なうことも難しかった。それに彼はモスクワに2人の子どもを残していたので、外国旅行の後は戻る必要があった。1938年に最後にアメリカを離れたときには、彼の心は明らかに重く、わずかな恐怖もあったのです。

モスクワを知ることはロシアの政治と芸術の関係を理解するのに役立つ

6、モスクワの歴史について、またショスタコーヴィチについて本をお書きになっているそうですね。なぜこうした題材を選んだのでしょうか?

M 最近では出版社から頼まれたものを書いています。自分にとってまったく新しいことを教えてくれる企画が好きです。

ランダム・ハウスのためにモスクワについて書くことに賛成したのは、あの都市の広大な歴史や文化を知ることが、ロシアのグランド・オペラやバレエの主題を、また言うまでもなくあの国の政治と芸術の関係を理解するのに役立つからです。

ショスタコーヴィチのプロジェクトは、あの作曲家のスターリニズムへの抵抗について書かれたあらゆるナンセンスへの応答です。それは政治的な伝記ですが、彼の音楽活動の修正された年代記でもあります。

7、ロシア音楽の著名な研究者リチャード・タラスキン氏が遺した資料を先生が受け継がれたようですね。タラスキン氏との関係は? タラスキン氏は日本でもよく知られています。私は氏の著書『ロシアを音楽的に定義する』の読書会にも参加していました。

M 彼がいなくてとても寂しいです。彼がもう私たちと一緒にいないということが信じられません。リチャード・タラスキンは日本を愛していて、京都賞を受賞したことは彼の最大の誇りでした。それについて何度もくりかえし私に話してくれました。

私が彼と知りあったのは博士論文を書いているときで、彼が亡くなる月まで定期的に連絡をとっていました。彼の蔵書は行き先を求めていて、いくつかの資料は彼が教えていたカリフォルニア大学バークレー校に行きました。残りの本や楽譜の大部分はプリンストン大学が引き取るように私が手配しました。学生たちが有効活用してくれると知っていたから。彼の驚くべき大量の録音コレクションはテキサス大学に行きました。

アメリカのポピュラー音楽の伝統をもっと真剣に勉強したいという若い学生が増えている

8、先生はプリンストン大学で教えられていますね。最近の若い学生たちはどんな音楽や文化に関心をもっていると感じますか?

M 我々の学生は難なく国際的で、「グローバルな」サウンドや異文化との対話にとても関心をもっています。そうした対話はよりよい未来のための最善の希望です。私たちはできるかぎり授業を多様化し、中央ヨーロッパへの注目の偏りや、いわゆる「古典的な」音楽学から離れようと努力しています。

しかしながら、そうですね、バレエの歴史への関心の高まりや、アメリカのポピュラー音楽の伝統をもっと真剣に勉強したいという要求もあります。

モリソン氏が教授を務めるプリンストン大学には日本人留学生も多い。写真は構内にある学生寮

9、ロキシー・ミュージックについての本(2021)もお書きになっていますが、日本から輸入されたレコードでその音楽に出会ったとお話しされているインタビューを読みました。そのほかに、これまで先生はなにか日本と接点をお持ちでしたか?

M まさしくクラシックとポップスの高品質のレコードは日本から来るので、子どもの頃に自分が買えるかぎりのレコードを買いました。武満徹と黒澤明が好きで、カズオ・イシグロはロシア人以外では一番好きな作家です(彼がイギリス市民ということは知っていますが)。

私を日本と結びつけているのはもっぱら12歳の娘で、彼女のアニメへの愛はとどまるところがない。もうひとつ言うならば、アニメはアレクセイ・ラトマンスキーのような今日の振付師たちの間でもたいへん人気があります。それはまぎれもなく世界的な影響力をもっています。

モリソン教授がロキシー・ミュージックの音楽を論じた本“ROXY MUSIC'S AVALON”

10、先生は3月27日に成城大学で「プロコフィエフ・イン・ジャパン」というレクチャーをされる予定ですね。先生がこのトピックでお話しくださることが信じられません、とてもワクワクしています。私は彼が日本で創作したものに興味がありますが、先生は?

M プロコフィエフの日本での受容について、それから日本が彼に与えた影響について、すべて日露戦争のずっと前のロシアと日本の緊迫した関係のコンテクストのなかで話す予定です。このレクチャーをすることを本当に楽しみにしています。書いていて勉強になっています。

とてもおもしろい質問をありがとう!

菊間史織
菊間史織 音楽学者

1980年東京都生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科、同大学院修了(音楽学博士)。音楽教育に携わりながらプロコフィエフ研究を続ける。著書に『「ピーターと狼」の点と線~プ...

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